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日記 なくして気がついた馬鹿な俺だから

ふと、自分のメモ帳を見るとズラッと箇条書きにされてる項目があった。なんだろうと最初は思ったが、カート、シドと並んだ時点でそれが何を示したメモなのか確信した。

羅列された文章の正体は若くして亡くなったミュージシャンやクリエイター、漫画家の名前だった。

そうだ。私は相手が居なくなってはじめてその人の事を知ろうとする。

「生きている人の言葉」と「死んでしまった人の言葉」だったら、なぜだか後者の方が重要に感じる。

なくしてはじめて行動に移る。曲を聴き、作品に触れ、ブログを読み、過去ツイまで遡る。そうやって、なくしてからその人を知ろうとする。

どうしてだ?

いくらでも機会はあったはず。生前から知ってたアーティストを亡くしてはじめて好きになる。

どうしてだ?

あれか、可能性があるからか。人間とは生きている以上は変化がある。考えや口調、雰囲気も確定せず流動的に動いていく。だからこそ潜在的に自分が思い描く人間像と相手の本来の人間像の齟齬を恐れて自然とブレーキをかけて心から知ろうとしない。

つまりは解釈違いを恐れている。だが、いなくなってしまえば情報が更新される事もない。つまりは死をもってはじめて他者を理解する。

だから私は相手が居なくなってはじめてその人の事を知ろうとする。

何なんだよ、それ。大体、欺瞞じゃないか。何なんだ。私の心は。

ーこの人、これが好きだったんだ。この人、こんな一面があったんだ。へー、全然知らなかった。

なんて嘘だろう。知ろうとしなかっただけではないか。嘘つきめ。

夭逝したクリエイターが残した文章。引退したyoutuberの配信。解散したバンドの曲。そうやって残されたコンテンツを読んだり見たり聞いたりしていると度々我に帰ってしまう。

嘘つきじゃないか。私は。

どうしてもこうしてもあるものか。大体、「すごく良い人そうだったのに」なんて本当の感情なのか。何にも思ってなかったけど、死というスパイスが加わった事でとりあえず悲しみの感情が湧き、ついでに人間を美化しただけじゃないか。幾らでも機会なんてあったはずなのに訃報を聞いてから「この人、いいな」と思って…なんてバカじゃないか。

終わったから興味が出た。亡くなったからはじめて知った。居ないから神格化された。居ないから評価された。居ないから使命になった。死をもってすれば書いた文章は全て仄めかしの暗喩になる。その時点ですべてに追う価値が生まれる。

死によって人間はブランド化される。もう存在しない人を悪く言う人は少ない。生きていなければ神にだってなれる。死は余白を産む。そして人間は何より余白を好む。

27で消えたロックスターは伝説になった。なぜなら存在していないから。

冷たい人間だ。私は冷たい人間だ。恐ろしく灰色の冷たい人間。

「『生きている人の言葉』と『死んでしまった人の言葉』だったら、なぜだか後者の方が重要に感じる」だ?

なんだよ。それってまるで長期連載の末、やっと完結したアニメやゲームを後から追い始める感覚じゃないか。人の命をコンテンツとしてしか見ていないじゃないか。

冷たい人間め。冷たい人間め。



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