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コーヒーの選択:Home Again

私がいつも自宅に常備しているお気に入りのコーヒーが切れたことに気づいたのは、休日の夕方で、その日は夫が子どもを連れて一日遊びに連れ行ってくれた日だった。
私はその間、忙しない日常からしばし解放されて、溜まった家事を一人で片付け、帰宅早々に家族全員で夕食が食べられるように準備していたため、いつもより早く夕食が済んでしまった。子ども達は出かける前に、やるべきことを終わらせてから遊びに出かけたため、あとは入浴を済ませて寝るだけになっている。
 
「あ、明日の朝飲むコーヒーが切れちゃったわ!今から買いに行ってもいい?」
 
夫にそう訊くと、夫は渋い顔。
私には行きつけのコーヒー豆専門焙煎店があり、そこのシングル・オリジンの特定のコーヒー豆を購入し、自宅で淹れて、愛飲しているのだ。行きつけのコーヒー豆焙煎専門店では、豆だけでなく、マスターこだわりで職人に手作りさせたミルもあり、購入した少量の豆を挽いて頂き、私は香りが抜けないうちに飲み切り、また買いに行く、ということを定期的にしている。店の営業時間を考えると、今買いに行けば翌朝にコーヒーを飲むことができると思った。そもそもお店の開店時刻はいつも午前11時なのだ。
 
コーヒーが飲めない夫は、「明日じゃだめなのか?コーヒー中毒だなぁ。」と言う。
確かに、私はコーヒー中毒かもしれない。
ちなみに、私は「中毒」と「依存」は違うと思っている。
 
「中毒」とは過剰摂取で、「依存」は過剰摂取を辞められない状態。
 
私は「依存」にまでは発展していないのだ。それにコーヒーを飲むと頭が冴えるし、午前中に頭脳活動を走らせるにはちょうどいいガソリンにもなる。
しかも、ここ数日は諸事情で余裕がなく、そもそもコーヒーそのものを飲んでいない。
ただ過剰摂取ではないけど適正摂取とも言えない状態で、私は時々やっぱりコーヒーは飲みたい。
そんな折、大きな仕事がひと段落した私は、打ち上げ気分で、ゆっくりいつもの美味しいコーヒーを、いつものように朝、飲みたくなったのだ。
 
コーヒーなら何でもいいのかというと、今の私の場合、そうでもない。
夫は、「自宅近くにある自販機で翌朝缶コーヒーでも買えばいいじゃないか」と言うのだが、
缶コーヒーにはそもそも大量の砂糖が入っていて、甘すぎるのだ。それこそ砂糖中毒になりそうだ。かと言って、無糖の缶コーヒーでは香りがいまいちで、飲んでいて美味しいとは思えないところがある。
 
すると、夫は突然こんな提案をする。
「じゃあ、時間作って、ヘーゼルナッツ・コーヒーでも飲んできたら?砂糖が入っていないのに、甘く感じた香りのいいコーヒーを出してくれるカフェがあるって、前に話してくれたじゃん。」
以前立ち寄った繁華街にあるSカフェの看板メニューで、偶然飲んだコーヒーのことだ。
確かに、あのコーヒーは美味しかった。
でも、後日コーヒー豆焙煎専門店のマスターにこのコーヒーのことを話したところ、その香りはfakeだとの話だった。嗅覚に強烈な甘さがあるだけに、砂糖を必要とせず、ストレートで飲めてしまうのだ。普段からコーヒーにクリープは入れるが砂糖は入れずに飲む私。それでも、疲れている時には、時々砂糖を少々入れてコーヒーを飲むこともある。その砂糖入りのコーヒー以上に甘く感じるコーヒーだったことは否めない。ただ、今の私には、刺激が強すぎて危険すら感じる甘さだ。その上、Sカフェは自宅から遠すぎるため、そもそも気軽に行ける場所ではない。
 
そんなことを考えながら、以前、夫婦喧嘩をした際に立ち寄った、近所にあるこだわりのコーヒーを提供するCカフェのことを思い出した。
その日は、自宅で昼食を夫と共にするはずだったが、些細なことで口論となり、私がいろいろな気持ちや言葉を飲み込み、財布をバッグに入れて自宅を出たのだ。
私ばかりが聞き役になっているような気がして、目に涙を溜め、捨て台詞を吐いた。
「あなたは、本当に対話のできない人ね!」
YOUメッセージではなく、Iメッセージで伝えるべきだったのだけど、それすらもできないくらい私は感情的になってしまっていた。
夫と物理的な距離を取ってクール・ダウンするために、近所の行きつけのMカフェでランチをしようと歩いていくと、Mカフェは定休日。
夫婦で歩いた散歩コースの途中にあるお洒落なCカフェがあったことを思い出し、急きょ行き先を変えた。
Cカフェは、夫と二人で近所を散歩していて見つけたカフェで、その時は定休日だった。帰宅してから店のHPがあるとわかり、その情報によれば、こだわりのシングル・コーヒーを提供してくれる店だとわかり、Tea timeにはケーキも手作りで提供してくれ、Lunch timeには素材や作り方にこだわった軽食もあり、「いつか一緒に入ろう」と夫婦で話していたのだった。
Lunch timeにはずいぶん遅い時間帯だったけど、私が一人でCカフェに入ると、店員さんは快くランチを提供してくれた。私はその食事を食べた途端、さらにボロボロと泣けてきてしまった。とても美味しかったのだ。それだけのことだったのだけど、それまでの緊張が解けたかのように、私は泣けてきた。傍目には、私はおかしな客だったに違いない。
ランチについてきた食後のコーヒーがまた美味しかった。エルメスのティーカップ&ソーサーに入ったこだわりのブレンドコーヒーには「いつも家庭でお疲れ様」と労われているような気遣いすら感じられた。
ひとしきり泣きながらランチを済ませ、落ち着いてから、私は今年になって思春期に入り始めた子どもと始めた交換日記を開き、自分のページを書いた。
Cカフェの営業時間が夕方までだったので、夕食の準備のことを考え、Cカフェを後にして帰宅した時、私は自宅を出る前に比べれば、ずいぶん落ち着いていた。帰宅すると、夫は自分一人で昼食を適当に済ませただけでなく、片づけまでしてあった。
 
 Cカフェへ翌日に行くという選択もあったのだが、今の私には少し贅沢すぎる気もした。
結局のところ、私は落ち着いて自宅でお気に入りのシングル・オリジンのコーヒーを飲みたくなり、夫に子ども達のお風呂を任せて、やっぱり行きつけのコーヒー豆焙煎専門店へ行くことにした。
 
お店に着くと、営業時間はギリギリ閉店時間で、マスターは店じまいの最中だった。
閉店時間を過ぎてしまったことを私がお詫びすると、マスターはこんなことを言ってくれた。
 
「店の営業時間外でも、僕が店に居ればいつでも売りますよ。
気にしなくても大丈夫ですよ。
はいはい、いつものシグリ農園のパプアニューギアね。」
 
マスターは嫌な顔一つせず、私の好みを知り尽くしたようにいつものコーヒー豆を丁寧に準備して、挽いてくれた。
明日の朝は、いつも通り落ち着いて美味しいコーヒーを自宅で飲めそうだ。

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