無意識について:主観という理解と現実の固定化
2020/3/30 twieetより追記と修正
結局のところ、人は自分の思いの中で生きている。
見ている/見えている世界が違うのだ。それは本当には何も起こっていないのに、それがあると翻弄されて生きている。
それが自分を脅かすと思っている。見たいものしか見えず、理解できない。また、それが悪なのではなく、全て主観というだけ。
また、当たり前に根強く、根深く、『〇〇でなければならない』がある。
自分から見て正しくない。自分の価値観が受け付けない。だから苦しい。
だから、許せない。
また、例えば{悲観的で居られる状態}を自分で選んでもいる。
{そうで居られる状態/現実}を固定化している。その状態でいることの方が、自分にとって都合がいいのでもある。
そこから抜けるためには、気付くことに意味があり 変えようと躍起になるのでは無いことが大事になるだろう。躍起になることもまた、思いに呑まれる/溺れることであり、現実の固定化となるからだ。
現実の固定化とは、=思考の現実化。
思考の現実化とは引き寄せのことではなく、常に無意識/無自覚に選択した思考であり行為が常に創り続ける現状でもある。
無意識の思いから現実化しているのでもある。
例えば恐れという思いが現実化する。
(その辺りは割愛。)
例えば何かを強く願う時、それは現状への抵抗として願っている。
願いと真逆のそうでない現実は常にセットで存在している。
何かを強く願うことは、同時に、抵抗している/否定したい/受け入れられず認められない認めたくない現実を肯定し強化することになる。
何故願うのか。
何故受け入れられないのか、認められないのか。
その願いはどんな思いから始まっているのか?
例えばその状態を受け入れられない事が重要なのではなく、その状態を受け入れられないという要素を自分が持っていることに気付くことのほうが重要であり 現実の固定化を解く取っ掛りもそこにある。
本当は自分はどうしたいのか。どうして欲しかったのか。
どんな感情がそこにあったのか。
気が付くことから始められたらいい。
じわじわとでも受け入れられたらもっといい。
自分から心の振り子を揺らしに行っていることに、気付ければいい。
自分だけでは気付けないこと。
決して私から生まれた言葉ではないが。
繰り返し、染みていく理解だ。
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