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因果律:因果は本当に存在するのか。因果と思考の現実化。

:『因果律:因果は本当に存在するのか』を修正と追記

因果、【因】があり【果】があるのだと多く人は云う。そんな考えがいつからか広まっている。原因があるから結果があると。

また、【卵が先か鶏が先か】という有名な言い回しがあるが、これも因果に絡む上に哲学的な話でもある。(答えは卵が先という結論も出たらしい。)

「X が Y 無しに生じ得ず、Y が X 無しに生じ得ない場合、最初に生じたのはどちらだろうか?」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E3%81%8C%E5%85%88%E3%81%8B%E3%80%81%E5%8D%B5%E3%81%8C%E5%85%88%E3%81%8B

また、【シュレティンガーの猫】という量子力学の有名な思考実験がある。

「箱の中の猫はふたを開けて観測するまで、生きてもいないし死んでもいない」「箱を開けてそれを確認するまで、猫が死んでいる状態と生きている状態の重ね合わせである」
①https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8C%AB
https://atarimae.biz/archives/6734
③https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8C%AB

認識/観測するまで猫が死んでいるか生きているかは分からない。(厳密には分からないのではない。)

量子力学で言うところでは、【観察者がいて初めて、現象は生じている】ということ。(※その詳細についてはここで記打たない。)

それを観察/認識することが『因』で、生じた現象を『果』とする時、その観察者とは自分に他ならない上に、自分自身が『因果』であるとも言える。

自分自身に原因があるというシンプルな考えもあるが、それはとても表層的なことを指している。
ここで上げているのはもっと本質的な意味での因果である。

因果、あるいは原因と結果は何故生じたのか。

原因を外に見ている限り、救われない何かがあるとまず知ることが重要である。

それは例えば、極端であり暴論的に言えば、自分にとって今の状態が苦しいものであったとしても、
その苦しみを選択しているのは自分であり、また、その状態でいることが、自分にとって都合がいいと無意識に思っているのだ。
(例えば:苦しい状態の自分を誰かに救って貰いたい=自分は弱いと思っている=弱い自分は何も選択が出来ない=選択しなくていい自分、或いは自分が苦しいのは誰かのせい=復讐、何度でも救われる快感を求めているなど)

或いは、外に見ている現象に翻弄されている状態が、本当には自分の中にある思いや感情を外に見ている(投影)ということもある。

つまり、因果は(無意識の/無自覚の、或いは自覚した)自分自身であり、外にはなかったと分かるのだ。

勿論、それが全ての解決に直接結ばれるのではなく。ただ現状に何かしらの反応する思いがあるなら、例えば自分は可哀そうな被害者なのだと嘆くよりも、丁寧に、自分の思いを紐解いていきたい。

思いや感情が、常に無自覚に選択し呼び寄せている現実/現状がある。それを観測/認識している自分がいることは、無自覚の思考の結果が常に現実に反映し続けていることとも言える。

その現実/現状の中に、過去から遡って共通している思いや感情はないか。
同じ感情を使う場面を何度も繰り返していないか。
思いの始まりは何処にあるだろう。

自分自身が『因果』であることは自分が悪いと言っているのではない。
もしも苦しい現実/現状があり硬直して動けないなら、違う視点を入れてみるという提言だ。

どうしたらその状況から抜け出せるか。
その状況の原因は何かを自分の中に探してみる。
自分の思考や行動を含めた、その裏にある思いや感情に気が付くことを始められたらいい。

現実とは常に、自分の意識が反映されたものである。



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