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承認欲求や自己特別感という隠れた意識、またそこにある例えば劣等感といった感情。

2020/4/30 Facebookより。追記と修正。

自分の行動原理が何処にあるのか?
また、それらをどう扱い、どう昇華するのか。
それらが自分の中にあるというのを何処まで認められるだろうか
そこが痛さだと思われる。

自分は何を残せるのか
自分は何をするべきなのか
何かをしなければならないと何故思うのか
その焦燥感は何処からくるのか

その思考はどんな思い/意識から生まれているのか。

その自分の意識と向き合わないことこそ、
見ようとせずに意識/思いを他へ向けることこそ、
誤魔化しであり、それも怠惰の一つであるのかもしれない

何もするなということじゃないし、また怠惰が悪い、誤魔化しが悪いということでもない。

自分が出来ない為に誰も何もするなと思う意識があるなら、それも認めていく。自分ではない誰かが既にやってるから自分はやらなくていいという思いもありやすいが、それは逃げであると気付く。どんなに、そこに葛藤があったとしても、やりたいやりたくない、どちらの思いもあるのだと認めていく。

何故やりたいのか、何故やりたくないのか。
本当に求めていたことは何か。
どうしたら、その思いを満たせるのか。或いは、どのような形で、その思いを満たそうと思うのか。

(じわじわとでも)受け入れて、昇華されても残った思いがあるだろうか。或いは、湧いてくるような思いがあるだろうか。


積み重なった、蓄積された思いや感情を、私たちは何処に向けているのか。
その思いさえ誤魔化す為に、
どんな感情や思考に溺れていくのか、吞まれていくのか。

思考に呑まれていることに、何処まで気が付けるのか。
或いは、溺れさせることも、溺れていることに気付かせないのも思考(エゴ)の罠とした方が分かりやすいか。

認めたくない自分を知る絶望を越えて、そんな自分を許せる/認められることを祈っている。そこに隠れていた思いを溶かせることを祈る。一人一人が向き合うことでしか、例えば集合的な無意識にある思い/全体性の中で共有している無自覚の思いは昇華されないのだろう。



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