大河ドラマ『麒麟がくる』第六話中の連歌について

 時代劇に連歌のシーンが登場するのは稀有なことだと思う、戦国武将に必須の連歌を取り上げたのは評価できる。恐らく、本能寺の変直前のドラマのハイライトとなる『愛宕百韻』のために序盤に取り上げたのだろう。しかしながら、その内容は???である。

いとはやも天の戸渡る雁や  季はかりがねで晩秋 句末の「や」に違和感
 かなたこなたになき渡る声 雑(無季) 「渡」の同字
聞く人の遠き松山波越えて  雑(無季)(末の)松山 地名アウト。
 月に孤影の愁ひ弔ふ    季は「月」で三秋の季戻り 表八句に愁ひ弔ふはいかがなものか?
 発句 いとはやも天の戸渡る雁や
 いとはやも鳴きぬる雁か白露のいろどる木々も紅葉あへなくに よみ人しらず
の本歌取り。「何とも早々と鳴いた雁であることか。まだ白露が彩る木々も十分に紅葉せずにいるのに」。この連歌会(れんがえ)の亭主宅の庭にの木は充分な紅葉、挨拶句としていかがなものか?
 秋風に声をほにあげてくる舟は天の門わたる雁にぞありける  藤原菅根
句末の「や」この時代の詩歌にはまだ単純な詠嘆の「や」は無いはず、とすると疑問(を含んだ詠嘆)の「や」で発句の句意は「何とも早々と天空を渡る雁であろうか」。連歌の切れ字は発句の独立性を担保するため脇と「切る」ためのもの、従って疑問で終える発句は回答を待つことになりこの「や」は切れ字としては働いていない。
脇 かなたこなたになき渡る声
と二句一連で、
 いとはやも天の戸渡る雁やかなたこなたになき渡る声
と五七五七七の形で読むと「雁だろうか矢張り雁だあちらこちらで鳴いているじゃないか」 となるがこの脇は前句の説明若しくは前句の続きで「付き過ぎ」ということになる。
第三 聞く人の遠き松山波越えて
 聞く人の遠き松山波越えてかなたこなたになき渡る声
と、「聞く」が前句の「声」に寄りかかっていて前句が無いと成立しないことになり短歌の上の句でしかない。又、発句+脇の世界から離れておらず、三句続きである。
 式目も滅茶苦茶なら内容的にも滅茶苦茶なこの連歌をいったい誰が作り、考証はどうなっているのか是非知りたいものである。
 又、連集全員が懐紙を持って書いているのだがこれだと「執筆」が不要ではないのか?


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