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言葉じゃないなにかで。


失敗を奪われたくない。
自分で答えを出す前に教えられてしまった時の絶望感といったら。


人より遅くても遠回りでも結構です。
どうせやってみないと納得できない。

どう生きていくのか、どんな人間でありたいのか、何を実現したいのか、いつもうだうだと考えている。意味はないかもしれない。


たとえ途中経過の答えでもいいから、時間がかかってもいいから、自分の言葉を吐かないと、後々なんとも言えない気持ち悪さが心のどこかに残った。
だから言葉にできない事がたくさんあった。黙り込み、言葉を考えている間に壊れた関係性もいくつもあった。


去年の年明けに2021年にやりたいことを言葉にしていた。言葉にしたら、わたしの声を拾ってくれた方々と様々な形で関われた共同作業や誰かとつくりあげられたものがあった。たのしかった。


とは言え、他人と関わる事がこれ程までに難しいものかと...絶望にも近い思いを味わった瞬間もあった。
他者との関係性を築くにはどうしたらいいかをひたすらに考えた。

結局...2021年が終わってしまった今でもどうしたらいいのかわからない。前に進んでいるかも正直わからない。

他人から少し距離を置いた2020年に、結局他人と熱を共有することを望んだ2021年。

今もずっと、誰かとなにかを成し遂げる事に対しての強烈な羨望がわたしの心をじくじくと痛ませている。



わたしがまちを想うとき、
それは自分自身の人生を、生き方を、あり方を考える事と同意義だった。

自分自身がどう生きるかでしか、理想を体現していくことでしか語れなかった。


2022年にやりたいことがある。
ひとつは言葉以外のものでわたし自身を表現するということ。
もうひとつはおつまみ農園の開墾。


ちょっと言葉に疲れてしまった。

言葉にすることの大切さは痛いほど分かってるつもりだけれど、言葉以外の何かで表現してみたいと思った。

それが何かは決まっていない。



些細なことが起爆剤になり笑ったり泣いたり怒ったりする自分自身の心のことをどうしても嫌いになれない。(諦められない、の方が正しいかもしれない)

相手の言葉に、場の空気に、季節に、いちいち過剰に反応してしまうこの心を殺したところで、生きるのが楽になったところで、上手くなったところで、一体わたしに何が残るのだろうか。体力だけはあるらしい。


そして今年の一大プロジェクト(はるどん調べ)と言えよう、おつまみ農園の開墾が2月から本格的に始まる。

始める理由は、やってみたいから。

当初、それだけの理由で始まったこのプロジェクトだったけれど、きっとここではたくさんのコミュニケーションが生まれるようになるのだ。
わたしは、自分自身の理想とする世界を体現しながら生きていくと決めている。そのひとつがおつまみ農園。

こんな田舎で何が出来るだとか、どうせ続かないだとか、一個人に出来る事なんて何もないだとか、そういう言葉を浴びる度にそれらがチクチクと刺さっていく。
でもそんなのもう何度も自分に浴びせてきてるんだよ。(だからこそ共感してしまって落ち込むんだけど!)
楽しそうだから、やってみたいからやります!の言葉の裏で、できない理由もいくつも探していた。


だからこそこの場に地元を選んだのかもしれない。
期待されてないから。誰もここでは想像してないから。


無理だと言われて傷つくのに、無理だと言われて心が躍るのだ。もうなんかそういうたちなのかもしれない。


わたしはこの畑で、笑ったり、泣いたり、怒ったり、歌を歌ったり、絵を描いたり、採れた野菜でビールを飲んだりしたいのだ。

そこで生まれる色々を楽しみたい。



どう生きていくのか、どんな人間でいたいのか、何を実現したいのか、ひたすらに考えている。たぶんうだうだと一生考えていくのだろう。


2022年もよろしくお願いします。

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