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けんかしたいなって思って

じいちゃんが死んだ時のばあちゃんの背中が今でも忘れられない。

うちのばあちゃんは多分アル中だった。もともと大酒飲みだったらしいけど、父も大酒飲みなので大して意識はしていなかった。

戦闘民族のようなばあちゃんと、同じく戦闘民族で気の強いわたしは、よく喧嘩をしていた。

あの頃、とくに許せなかったのが女の子らしくしなさいという言葉で(小学生くらいのとき)、今思えば、わたしはわたしなのになんで分かってくれないんだろうって悲しかったんだと思う。
ほんとに恥ずかしいんだけど、むかついて窓ガラス殴って割ったり、壁に穴あけたりわかりやすい反抗をしてたな。

だけど、じいちゃんが死んだあと、ばあちゃんは酒を飲んでよく幻覚を見るようになった。

うちは中学の時に母が突然看護師になると言って仕事をかけもちしながら看護学校に通っていたし、父は長距離の運転手なのでばあちゃんと2人きりのことが多かった。
2人しかいない田舎特有のこの広くて古い家の中で、幻覚を見ると自分の名前を叫ばれ、誰かいる、見てきてくれ、助けてくれ、と言われた。でもばあちゃんは隠れて酒を飲んでいたので、それがアル中の症状だとは思ってなかった。

ばあちゃんがおかしくなっちゃった、と思った。

そのたびにじいちゃんの遺影の前で毎日毎日、ただ黙って座っていたばあちゃんの後ろ姿が頭に浮かんだ。

わたしだってじいちゃんが死んだ時めちゃくちゃ悲しかったけど、ばあちゃんの悲しみは計り知れないものなんだなって子供ながらに思った。だからわたしは仏壇のある部屋にしばらく近づけなくなった。人の悲しみをそばで感じるのはつらかった。

そのうち、ばあちゃんが隠れて酒を飲んでることに気づいたわたしの両親が、近くの商店にもうばあちゃんには酒を売らないでくれと頼み、いつもの、ただ気の強いむかつくばあちゃんが戻ってきた。


18歳の時、わたしは地元を離れた。
そのころからだったと思う、いい距離感ができてばあちゃんと喧嘩することがなくなったのは。

うれしかった。ばあちゃんは帰るといつもお小遣いをくれて、優しくしてくれて、なんだわたし愛されてるんだなって思った。

なのに、胸に穴が空いたかんじがした。

どうやらあの喧嘩の日々は、わたしたち流の戦闘民族コミュニケーションだったらしく、わたしはばあちゃんの心にぶつかる術をなくしてしまった。

今のわたしには喧嘩ができる相手はいない。

だから孤独だとか言いたいわけじゃなく、そんな相手がいようと居なかろうとわたしは死ぬまで孤独を感じ続けるんだと思うけど、それはまあいいや。

それで、わたしが沖縄に住んでる時にばあちゃんは死んだ。まじで突然ポックリ死んだ。

葬式では家族、親戚みんなが元気に振る舞っていた。わたしもだれもいないときに棺桶の前に行ってこっそり泣いて、みんなの前では笑ってた。

だけどばあちゃんが焼かれる時涙が抑えきれなくて、下を向いてたら、つられて家族たちも泣き始めた。
なんだ、みんな我慢してたんだって思った。あとたぶんみんな、ずっとばあちゃんと一緒にいたわたしのさみしさを分かってた。
でも焼かれるまではみんな必死に笑ってて、なんかおもしろいなって後から思った。うちはそういう家族だ。みんなわたしと同じように隠れて棺桶のぞきに行って泣いてたのかも。


人はそのうち死ぬし、終わりがあるから大事にできるって思うけどさ、わたしは今でもばあちゃんの夢を見るよ。
死んだばっかりのころは毎日のようにみてて、今は本当にたまにだけど。

でも夢の中のばあちゃんと喧嘩したことは一回もなくて、出てくるのはやさしくてアル中じゃないばあちゃんなの、おもしろい。
喧嘩したいんだけどなあ。


みんな多かれ少なかれ誰かを失って、それでもまた誰かを愛せるのすごいなあ。

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