読みに行く水族館 AOAO SAPPORO
先日、札幌市にある水族館「AOAO SAPPORO」へ行きました。結論から言うととても良かったです。少なくとも僕個人にはカナーリ刺さりました。
この水族館、ハッキリ言ってしまえば一部の水族館界隈の人、水族館ガチ勢の人にはウケが良くないのです。その理由としてよく言われるのが「アート・映え目的の水族館だから」。最近水族館や動物園は「教育のための施設」「研究施設」または「自然体験の場」であるとされ、利用者へ自然や生き物の魅力、環境保全への理解等を促すための施設になるべきだという主張が一般的です。
その中で、プロジェクションマッピングを使用した映え空間やアート的な空間は如何なものか。という批判の声が水族館界隈からは多く巻き起こります。
しかし僕が見る限り、その批判は少しお門違いだと思いました。決して批判してる人の「水族館が自然体験の場であるべきで、アート水族館になるべきではない」を否定しているわけではなく、そもそもその批判をAOAOにするのは論点がズレてるのでは?と思うのです。
僕がそう思う理由を、少し遠回りをしながら記していきます。
念の為先に言っておきますが、色んな意見があっていいと思いますし、これから述べる意見に賛同されなくても結構です(この感想をAOAO関係者の友人に伝えたところ非常に喜んでいたので、まったくお門違いの感想ではないのだろうとは思っています)。
説明過剰な映画やアニメ
大ヒットアニメ「鬼滅の刃」の裏で・・・
早速少し遠回りをしますが、最後にAOAOと結びつけるのでガンバって付いてきてください。
皆さんは「鬼滅の刃」というアニメを観たことありますか?鬼滅の刃の主人公、竈門炭治郎は自分の思ってることをすぐに口に出します。例えば、足を滑らせて落ちた先に雪があって助かったシーン。ここで炭治郎は「助かった…!雪で」と言います。しかしこの説明セリフは、少し映画やアニメなど創作物を齧ったことのある人なら「説明しすぎだ」となるのです。
彼らは小説や漫画では無く、動きのある「アニメ」なのだから、アニメで表現するべきだと主張します。例えば炭治郎が足を滑らせた時に「落ちてしまう!」とセリフで言わさず炭治郎の絶望の表情をアップで映し、ドサッ!という音ともに炭治郎が目を開けると手に雪を握りしめている。カメラが引くと周りに雪があり、炭治郎はそれを見て「助かった…」というようなホッとした表情をする……といった具合に、動きがあるからこそ、アニメだからこその表現が出来るのです。もちろんこのセリフは漫画原作にあるセリフなので原作完全再現としては正しいですが、それは漫画というモノクロかつ静止画だったからこそセリフで言う必要があったのです。動きで表現出来るアニメにおいて、それは必要か?という批判なのです。
わからない!がアートを生む
映画やアニメ界隈の人々は、「真実はいつもひとつ!」ってコナンくんみたいな事は言わず、「あなたが観て、あなたなりに理解してください」ということをみんなやりたがるのです。解釈の押しつけをしない。色んな解釈が起こるからこそ、それは作品としていいものになるのであり、多様な価値観を生み出すのです。これが彼らの言う「アート」です。
俳優がアートを生み出す
もっと言うと、実写映画はアニメよりアートになりやすいこともあります。アニメは作画監督や演出家が絵を描いてコントロールするのに対し、実写映画は俳優さんの間や喋り方、表情のちょっとした違いで監督や脚本家の想像を超えたものが出来上がることがあるのです。時にはそれが駄作になってしまうこともありますが、逆に監督の予想を超えた凄まじい作品になることもあるのです。「ダークナイト」という映画で悪役ジョーカーを演じたヒース・レジャーは約6週間ホテルに引きこもり、精神的にイカれたジョーカーの挙動や喋り方、表情を作り上げました。監督のクリストファー・ノーランの想像を遥かに超える凄まじい悪役、そして映画が出来上がったのです。
このように良い映画、本当にアートな映画というのはセリフで説明しないのです。押し付けがましいこともしないのです。感じたままに感じて欲しいのです。映画やアニメ業界ではこの「説明過剰」が問題となっており、「説明セリフを減らしたい監督・脚本家」と「客にわかるように説明過剰にしたい製作委員会」がよく対立するそうです。
説明してほしい観客たち
客側も説明過剰でないと映画やアニメを理解できない傾向があり「映画を早送りで観る人たち(稲田 豊史 著)」という本の中でも、セリフのないシーンや静かなシーンは早送りで観る人が激増していると指摘されています。制作陣からしたら、セリフのないシーンや何気ないシーンに伏線が張られていたり、伝えたいメッセージが込められているのですが、視聴者は「そんなのわからない」「不親切だ」と怒るそうです。この本の中でとあるプロデューサーは「彼らは自分たちの頭が悪いと認めたくない。だから不親切だと言って作品のせいにする」とバッサリぶった切った批判をしています。さて、この一見関係ない前提を踏まえた上でAOAO SAPPOROを見てみます。
想像力が膨らむ展示
「海藻が減る磯焼けという現象があるらしい」「海藻を水族館で増やせるだろうか」という説明板。「磯焼けはこういう現象である!!」「水族館は繁殖も行っている!!」とは言わないのです。たった一言添えられた解説パネルと周りの研究所っぽいレイアウトを見て、そう解釈します。想像が膨らみます。磯焼けとはなんだろう?この海藻は増やせるのだろうか?そのため研究を彼らはしているのだろうか?と考えが広がります。
こちらのコーナーでは水槽の隣に本が置いてあります。水槽の中にいる生き物をそのまま説明している本かと思いきや、全然関係なさそうな本もたくさん置かれています。なぜこの生き物の隣にこの本?少し手に取ってみようかな。この生き物のこの動き、この本の○○に似ているな。また想像が膨らみます。
ネイチャーアクアリウムのコーナー。それぞれの水槽にテーマがつけられています。中の水草のレイアウトや配置、熱帯魚たちの色や生態行動、それらの風景からテーマの理由を探します。明確な答えはわかりません。しかし自分なりに考えて感じて、それらを読み解いていく。
そう、この水族館はまさに映画やアニメのような水族館なのです。さらにそこに「生物」という、人間の理解を超越する存在がいます。これらはまさに映画における「俳優」で、作り手の想像を超えて、コントロールを超えて本物のアートを生み出す存在なのです。
なんちゃってアートではない
言葉が悪いですが、この水族館の目指しているアートというのは、なんちゃってアートではなくガチアートだと思います。なんちゃってアートというのは、プロジェクションマッピングで映え映え空間を作るような水族館のことです。僕目線でいえば、これはアートではないです。何故ならそれらは「こう感じてください!」と説明過剰だからです。感動しなければならないように作られているからです。さっきも述べたように、映画の作り手は決して客に「こうあるべき」という価値観の押しつけはしません。
だからこそ、この水族館を「アートだから良くない」と否定している人はそもそもアートすら分かってないのです。その方たちの否定するのは「なんちゃってアート」であり、AOAOは「ガチガチアート水族館」なのです。なんちゃってアート水族館と同じ目でこの水族館を見るのは、僕からしたら少し違います。
大衆や社会には勝てない
わかりやすいはウケる
しかしそうは言ってもこうしたガチアートを「わかりにくいもんはわかりにくい!」という批判があがるのも決して間違ってはないと思います。現に一部のオタクにわかりやすすぎると批判された鬼滅の刃は興行収入日本一になり、散々説明過剰だとバカにされた山崎貴監督の「ゴジラ-1.0」は日本でもハリウッドでも大ヒットし、映画界最高の栄誉であるオスカー賞まで受賞しました。
ジブリ映画「君たちはどう生きるか」は宮崎駿監督自身が作画をあまりしていないこともあり、アニメなのに自らのコントロールを外れとてつもないアートアニメになりました。批評家からは絶賛されましたが、一般客の評価は賛否両論。声として多かったのはやはり「わかりにくい」でした。(余談ですが「君たちは」もオスカー賞はとりましたが、これは良くも悪くもアメリカ人たちに誤った解釈されたことが大きかったという考察があります。日本でウケが完全に賛否両論だったように、僕自身は完全にアート映画だと思っています。)
人間の本能
上記した「映画を早送りで観る人たち」では「共感強制力」という問題点もあると指摘されています。映画やアニメを早送りで観るのは、仲間うちのグループでその映画やアニメの話をしてグループの輪から外れないようにするためだという指摘です。膨大にあるコンテンツを限りある時間で全て観るのは難しいけれど、キチンと"履修"していないと話題についていけず仲間に入れなくなる。著者は「それは鑑賞ではない!コンテンツの消費に過ぎない!」と批判しますが、これは仲間から外れないために社会的な動物のホモ・サピエンスがとる本能的な行動ともいえます。さらに人間の脳はややこしいことが苦手で単純化して理解したがります。映画を早送りで観たり、説明過剰にしてほしいのは、割と人間の本能的な行動なのではないかと思います(ここらへんはサピエンス全史 〔ユヴァル・ノア・ハラリ〕やストレス脳〔アンデシュ・ハンセン〕を参照)。
水族館のお客さんもわかりやすさを求める
水族館も多くの人は生き物のことをキチンと学ぶ人などおらず、家族で楽しみたいから、デートで彼氏/彼女とイチャつきたいから、映え写真が撮れそうだから、そんな理由ではないでしょうか。そういった多くの一般大衆からしたら、ガチアートもなんちゃってアートも全て同じなのです。長々と記したこれらの理由なんて、ほとんどの人には理解できないのです。そして、それは仕方の無いことです。それが大衆の作る社会であって僕たちはその中でルールを守って生きていくべきです。さらにいえば、公営だろうと私営だろうと水族館はヒトのための施設であり、ヒトの人気で食ってる職業だと僕は思っています。大衆のおかげで生かされておきながら、その大衆をバカにしたような態度は僕個人はあまり好きではありません。
映画オタクや教養の深い人は理解に乏しい多くの大衆を勉強不足だと侮辱しますが、自らもこうした多くの大衆たちに支えられ、社会の中で生活しているという事実から目をそらしてはいけません。そうした大衆と賢いと思い込む自らを具体的に分けてしまうから差別が蔓延するのだと思ったりもしますが、これは話が逸れてしまい更に論争を呼びそう()なので割愛します。
映画やアニメ・小説のような水族館
長々と書きましたが、こういった理由からAOAOはガチアート水族館だと思いました。もちろん褒め言葉です。ちょっとした問題提起だけ投げかけて、その問題に対して来館者自らどうするべきか、生き物をどう解釈するか、想像を広げていく。
パネルやトークショーなどでしっかり解説し、具体的な環境保全の問題や生き物の説明をする水族館ももちろん必要です。しかし、だからといってガチアート水族館がいらない理由にはなりません。展示を見れば決して映え映えに振ってないことはわかるし、映画やアニメ・小説のニュアンスを理解できる人が見たら作り手の方向性は大いに伝わってきます。そこに生き物というコントロール不可の俳優がいたらなおさらです。大衆文化としての水族館は否定しないしむしろ必要ですが、こうしたアートを通して生き物や環境を考える水族館があってもいいのではないかと僕は思います。「鬼滅の刃」みたいなアニメも「君たちはどう生きるか」みたいなアニメも、社会には必要なのです。
外に出さない動物は可哀想?
実はこういった水族館への批判はもうひとつあります。それは生き物(特に海獣)を陽の光の当たらない場所で展示するのは如何なものかというものです。これに対して思うのは単純で、そう言うなら室内飼育したら不健康になるエビデンスやデータを出せ、ってことです。そしてこの完全室内展示も自然教育や自然体験をするべき水族館において不適切かもしれませんが、ガチアート水族館においては展示としても不適切ではありません。よって、批判としてはこれもお門違い。ガチアートとなんちゃってアートの違い、自然体験型とアート型の違いを理解していない時点で同じ土俵に立ってすらいないので、そもそも批判の対象になり得ないと思います。
もし仮にこれで生き物の状態が悪かったらダメですが、元飼育員の僕が見る限り生き物の状態は非常に良いです。室内飼育が仮に生き物(海獣)へ悪影響を与えるとしたら、AOAOには太陽光が入る窓もあるので、海獣たちにそこを散歩させるなど飼育の工夫の仕様はあるはずです(ちなみにこの議論、なぜか魚類・無脊椎動物は論点にされません。実際多く水族館で魚類は室内飼育されているとはいえ、なぜでしょうね)。
さらにいえば、最初「こんな狭い殺風景な場所で…」と言われていたフェアリーペンギンはつい最近繁殖にも成功しました。しかもペンギンの状態も良く、展示されていた大人のフェアリーペンギンもせっせと巣を作っていました。もう一度言いますが、僕の見る限り飼育は上手いです。生き物の状態は良いです。だから、そこに関して批判することはないです。展示面は、これまで述べた通りです。
玄人向けアート水族館
改めて、AOAO sapporoの感想を一言で言うならば「玄人向けガチアート水族館」です。ガチアート水族館という点は褒め言葉ですが、先に述べたように多くの大衆はその側面を理解などしないだろうとも思うので、玄人向けです。そしてこの玄人向けの部分が、多くの大衆に受け入れられない理由も頷けます。僕みたいな変態や創作をする人、映画やアニメのクリエイターの方などはものすごく想像力を掻き立てられる場所だと思います。しかし、普通の人が見たら、なんちゃってアート水族館と何ら変わらない映え水族館だと捉えられてしまいそうだなとも思います。
僕は個人的にかなり好きなので基本的には肯定的に記しましたが、先に述べたような問題点やそこから生じる批判があるのも仕方の無いことだとも感じております。今後のAOAO sapporoの変化をこれからも見守っていきたいなと思いました。
補足
Q.水族館は博物館と定義されているからこういう展示はするべきではない!
A.現状水族館は「こうでなければならない」という法律はありません。博物館の「自然科学」の部分を水族館の果たすべき役割として解釈されることが多いですが、博物館のように水族館はこうあるべきと定義された法律はなく、博物館法の中にも水族館という単語は一切でてきません。さらに水族館が博物館だという解釈をするのであれば、自然科学と同時に芸術、民俗、産業などに関する他の生涯学習の部分を水族館が担うことは何ら不思議ではないと僕は解釈しています。よってガチアート水族館展示から創造力を掻き立て、自然科学や芸術、そこから派生して産業や文化に寄与することは博物館の役割を果たしていると僕は考えます。
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