やさしくできないとき
誰かにやさしくできるとき
それは自分自身に心の余裕があるとき
それは過去の自分がしてほしかったこと
それは未来の自分自身への励まし
こんな風に書くと、優しさの土台が
優しさではないと糾弾したくなる。
ごちゃごちゃ考えなくたって自然と周りに「やさしく」できているなら
気にしなくたっていい。そもそもこんな記事すらクリックしないだろう。
葛藤として、やさしくしたいのにどうしてか心がささくれだっているのか
やさしくできない。そしてそんな自分自身に苛立ちを覚える。
そもそも「やさしく」ってなんだよ。
とい哲学めいた自問自答すら始まってしまう。
そんなとき、冒頭の「やさしく」出来るときの文言を反芻してみる。
こんなことがあって今、自分自身のことで手一杯だ。
これ、自分自身にとっては「やさしく」以前にそれに関して
なにかしら思うことがあるんだな…。
なんて答えのようなものが視えてくる。
そうしたら深呼吸して
「やさしく」出来ないことを責めずに
やさしくしなければならないと思っているその場からそっと去ろう。
それでいい。
そもそも「やさしく」できないことに悩んでいる人は
心身が快調したとき、何も考えなずに自然とまたできている。
つまりいまは、だれかにやさしくするのではなく
自分を大切にするときなんだ。
そうやって、自分自身の心と向き合えばいい。
そして、「やさしく」したい、「やさしく」できるの根底には
愛
のようなものがひしめいていることもある
その愛ゆえにやさしくできていたのに、やさしくできなくなってしまったとき
それはとてつもなく動揺する
だって大切にして愛おしくおもっていたからこそ
無意識にやさしくしたくて、やさしくしていたのに
出来なくなってしまったのだから。
それも、責めなくていい。
少し立ち止まって自分自身と向き合って、第一優先で自分自身にやさしくしよう
必ずできないことに対する不安や自責、困惑の奥にある
なにかが視えてくる。
そうしたら、それに真摯に向き合っていけば必ず答えのような、心の落ち着きどころというやつが見つかるから。
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