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おじいちゃんに会いたくなる5月。

私は「超」がつくおじいちゃん子でした。

三姉妹の真ん中で、ひねくれものの真ん中っこは仲間外れだったので、いつも遊ぶのはおじいちゃん。

小学校3年生まで、かなり昭和な家に住んでいました。

水道は冷水だけ。お湯は沸かさないとありません。朝も冷たい水で顔を洗うし、お風呂は木をくべて沸かします。

お風呂の沸かし方や薪を割ることも教えてくれたおじいちゃん。

枯れた杉の葉を拾ってきて(田舎だからもちろんその辺に落ちている笑)、新聞紙と一緒に入れて木に火をつける。

7−8歳くらいだったと思います。すごく誇らしかった。木を細目に割りながら、もうなんでもできる気がして。

おじいちゃんは地域の俳句の先生もしていたので、一緒に俳句を詠みました。

おじいちゃんのスクーターにの後ろに一緒に乗って、ゲートボールにも行きました。

古い廃バスがおじいちゃんおばあちゃん達のたまり場で、ボロボロなのに可愛くて大好きだった。

おじいちゃん、おばあちゃん、父、母そして三姉妹の7人が暮らす小さな平家。もううっすらとしか覚えていないけれど、確か部屋は居間を合わせて4つだったかな。

私はおじいちゃんとおばあちゃんの部屋で寝ていました。

真ん中だから布団と布団の間です。寝ているうちに溝に入り込みます。それでもおじいちゃんと一緒がよかった。

そしておじいちゃんを思うときに必ず恋しくなるのが、「ぺんぺん」。

子どもの頃から手足がよく冷える私。

夜寝るときも足が冷たくてなかなか寝付けないことがありました。

そういう時におじいちゃんは、自分の内股に私の冷たい足を挟んであっためてくれました。

これをなぜか「ぺんぺん」と呼んでいて。温かくて、大好きだった。


大学2年の頃にそのおじいちゃんが肺癌と宣告され、当時上京していた私はバイト先で号泣しました。

大切な人を失うかもしれないという不安と恐怖を初めて覚えたときでした。

帰省するたびに痩せて、小さくなっていったおじいちゃん。母曰く、いつもわたしのことばかり話していたそうです。誰のことを忘れても、私の名前だけは呼び続けていてくれた。

宣告から10年、私の長女が生まれてすぐ、おじいちゃんは他界しました。

それがちょうど10年前の5月。

もう10年も経ったなんて。

おじいちゃんがいなかったら、きっと私は家に居場所が見出せなかった。おばあちゃんは姉贔屓で怖かったし、両親は共働きで姉妹の中でも浮いていたから、いつもおじいちゃんにひっついていて。

おじいちゃんがいなければ、あんな最高にマニアックな子ども時代も過ごせなかった。

今更だけど、改めてありがとう。

5月になると、おじいちゃんと首も座らない赤ちゃんだった長女のことを思い出します。スリングに入れて抱っこしながら参加した葬儀。

この子を抱っこして欲しかった、と心から思ったあの5月。

5月の艶やかな緑は、つつじの花や盆栽が好きだったおじいちゃんをより思い出させるから、

たまらなく温かくて切ない、特別な月。


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