壊れたうつわ

顔と声と名前を持った生身の私が内側を曝け出すと、きっと見るに堪えない程醜いのだと思う。だからここに綴ってしまう。遠くにいるからこそ見て貰えることも、受け入れて貰えることもあると思うから。それに巻き込んでしまうみなさん、ごめんなさい。私は誰かに見付けて欲しいのだと思う。どこにいても居場所がない。家庭に居ても、学校に居ても、ひとりでいても、ずっと、孤独な感じがする。人間みんな死ぬときはひとり・旅立つ時はひとりだ、なんて言うし、ひとりでも楽しく生きられる人も満ち足りている人もいるのは分かる。でも、私の人生の唯一の望みはずっと変わらない、ただ居場所が欲しい。でも、どこにいてもどこまでいっても見つからないよ。入院しているときはみんな社会から断絶していて、スタッフの方々でさえ制服のその白さのせいか、世俗的な雰囲気が感じられなかった。それに病室にいる間、リハビリをしている間は絶対私だけに向き合ってくれて、私だけを見てくれて、私のことを考えてくれた。つらいことも死にたいときもあったけど、必ず誰かが私の苦しさ、不安や痛みを探して見付けてくれた。個室だったし他の患者さんと話す事もほぼなかったけど、それでも孤独だと感じたことは少なかった。でも、この社会に戻って、痛いほど、自分がひとりなのだということを感じさせられる。お世話になった人も支えてくれてる人もいる。でも、みんなそれぞれ家庭があるし、私と一生交わりそうもない居場所を持っている。一緒に帰る友達とか、あったかい家庭とか、推しとか趣味とかそういうもの。誰に声も掛けられず誰を引き留めることも出来ずただ、眩しいなあって素敵だなあって硝子の向こうの、そういうきらめきを見ている。私がいてもいなくても変わらない、そんな気がする。というか、生きていてもあまり需要がないなって、思ってしまう。生きてても誰も見付けてくれない。生きてても誰からも必要とされない。頑張っても頑張っても、いや、頑張って普通になろうと元気でいようともがくほど、なんだか、望みからかけ離れて、苦痛だけが増幅している。死にかけたら、飛び降りたら、心配してるとか、大丈夫って言ってくれたのに。痛かったし怖かったし不安だったけど、でも、みんな側にいたのに。生きてても頑張っても見付けて貰えないなら死にたいよ。これを口に出したらどれだけの人を傷付けてしまうか、迷惑をかけてしまうか、負担になってしまうか痛いほど分かるし、気を引くために死ぬなんて一番やってはいけないと分かっている。分かっているけど、でも、それくらい、私にとっては誰かに必要とされたり気にかけて貰うことが文字通り命より大事で必要不可欠で、どうしようもなく欲してしまう。同世代の子たちは、というかまともに正気で生きている人たちはみんな、どうしてそんなにひとりで立っていられるの。どうして近付いたり触れたりその相手を心から信じて居場所だと思えるの。私は、またこうして家族を理由にしてしまうのは(もう今は和解したというか努力してくれてるのが伝わるだけに)本当に最低だなと思うけど、やっぱり幼少期からたった1年前までずっと虐げられてたことの、その穴が埋まらない。埋められない。もう一生埋まらないと思う。虐待と言うのは身体的なものだけではないと、本当に私は思ったよ。直接的な暴言や暴力だけではないことも。遅効性の毒みたいに、知識や経験がついてきてもう子どもではなくなってしまってはじめて、ようやく、あれは暴力だったと気付く、誰にも責任を取って貰えないし、守って貰える年齢でもないのに、心だけが子どものまま取り残されていくこの気持ちが、分かる?もっとたくさん苦しい人はいるし家族だって悪人になりたくてなったわけじゃないと思うよ、でもね、私は返して欲しい。返さなくていいから、産まないで欲しかった。本当に、こんなことを想ってごめんなさい、でも、幼少期の経験がその後の人生に重大な影響を及ぼすことはきっと明らかなので、もう、こうして痛い、痛いと叫ぶことくらいは許してください。私はたぶん、もう駄目です。これね、本当に、最近、飛び降りる前とほとんど重なるような気持ちになることが増えた。それは社会に戻ってきていること、元の生活に戻れていることの証拠かもしれないけど、でも、こんな苦痛感じたくなかったよ。
飛び降りる前も、実は別のアカウントでnoteに痛みを吐き出していた。その時も、誰か私を見付けて欲しいって、そう書いていた。生きていて欲しいとか死なないでって言うのは一般的に良くないといわれているし、それは一時的な麻酔に過ぎないと自覚もしているけど、エゴでも偽善でもいいから、あなたが必要だって言って欲しいよ。毎日私を見付けて欲しい。でも無理でしょう、誰もこんな私に向き合えないでしょう、だから死なせて欲しいよ。それが無理ならせめてこの苦痛を取り除いてよ、痛いよ、さみしいよ、たすけてよ。多分これは家族にしか出来ないことだと思うけれど、私は家庭で壊れてしまったので、もう家族からそういう言葉をかけられても駄目だった。私はどうしたらいい?もう疲れたよ、私じゅうぶん頑張ったでしょう。あの日、窓が開いていなくて、誰かが見付けてくれて、止めてくれたら私は身体中金属だらけにならず済んだだろうか。でも、きっと、今度は見つからない場所で同じことをしただろうな。狂ってるから。希望があるとすれば、と言うかもう多分現実的な方法はこれしかないけど、私が執着をやめること。誰かに愛されたいとか必要とされたいとか、ずっと見ていて欲しいって感覚を捨てること。それができたらどんなに素敵だろうと思う。どんなに生きやすいだろうって。でもそれにはどれくらいの時間がかかるのかな。病院に行ったり、誰かに助けを求めて、もしどうしようもないと、異常はないよって言われたらこの苦しみはどうしたら良いんだろう。怖いよ。私、良くないんだけど、前もこの人が駄目だったら死のうって思って、本当に飛び降りてしまった。もうしないでねって約束もした。でもまた同じことをしてしまいそう。そうしたらもう今度は本当に見放されてしまうかもしれなくて、ああそれじゃあ絶対やり遂げないとなって、最低なことを思ってる。だから今回は、助けてってちゃんと言ってから、ちゃんと無理だってことばにしてから終わりにするから。もうわかんないな何も考えたくないな死にたいよ、もうつらい。だって自分が一番分かってる、自分がどうにか変わるしかない事も誰も悪くない事も、一生望みが叶わない事も。なんでこんなに執着してしまうの、なんで普通になれないの、本当は分かってるよ、みんなこんな風にひとつに依存したりしないこと。みんなそれぞれ友達も家族も仕事も趣味もそれぞれだいじでどれが一番とかどれがあったらこれはもういらないとか、そんなことにはならないんだよね。私は白黒思考しかできなくて、もう誰かに必要とされなかったら、誰かに見て貰えなかったらもう本当に引き裂かれそうでこの世の終わりみたいにしか思えないよ。この思考はもう変えようがないから治る見込みがないから。だれかみつけて、私を。私を治してよ。雨の日にひとりにしないで、たすけて。でもね、平気な顔をするし笑えるし学校にも行けたよ、私はあの日と同じ様に、助けてって限界なことももう本当に耐えられない事もうまく表現できない。だからあの時もたえてって言われたのかな、私、頑張ればよかったかな。でももう本当に無理だよ。でも誰もきっと助けようがない、手の施しようがない。夜、悲しくてつらくてどうしようもなくて、誰かに助けを求めようと思った。でも私はどうたすけて貰えばいいか分からなかった。何が苦しいのかどうやったら解決するのか分からない。どこにいてもひとりな気がして、ずっと悲しくて、みんなに嫌われたくない見離されたくないって怖くて、もう誰かが私のことを見ていてくれないとだめで、将来やりたいとも欲しいこともなくて、ただ卒業してお礼を言うために生きてて、でもこの先こんな訳の分からない不安とか苦しさを抱えていくなんて耐えられなくて、研究が好きとか勉強が好きとかいうけど、結局誰かとつながってたい見つけて欲しい助けて欲しいってその気持ちが大きい気がして。幸せに生きられるビジョンもなければ、これが苦しいんですなんて簡潔に言うこともできない。ひとりがつらいのに誰のことも信じられない。


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