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SDGsと憤り うまく言語化できない抽象と具体 個人と社会
SDGs-誰一人取り残さない- が謳われる前、社会に取り残されている感覚があって、いや取り残されてる人いっぱいおるやんって、掬われていない感を持っていた高校生までの私
大学生になってから言語化できない個人的なことに関心をよせるようになった。個人的なことは社会的なこと。まず自分と自分の周囲を見よう。
子どもの頃、子どもにも権利というものがあって、自分の権利があること、体感的にわからなかった。
だって権利の主張ってなんか攻撃的な感じで嫌だった。権利を主張して、誰かに認めてもらうためには裁判しないと。原告と被告やん。
ずっとモヤモヤしていた高校の時、現代語の先生に言語化する手法を教えてもらえた。日本語の主語と述語。主部述部、副詞とは何か。名詞から文章を分解していく作業。日本人なのに全然日本語のこと知らなかったと自覚したきっかけ。
大学入学して少しずつ自分のこと、言語化できるようになってきた。
入学してから一貫して抱えてきた疑問がある。苦しい体験を克服するためにはというもの。
内面化するには一度自分の外に出さないといけない。言語化して、頭で整理できるようにするのが必要で
そうしたら、他の人に聞かれても苦しくなくなると思う。自分で整理できたら苦しさが和らぐというか。語り部ってそういうことよね多分
だから、言語化できていない苦しみに第三者が直接触れるのは攻撃だと思う。
高校の時に抱えていた社会への憤り。それから個人的体験の克服や言語化という、感情論から対処に関心をシフトできたのはいろんな人のお陰
阪神淡路大震災時に友達をなくしてしまったひと。福島原発事故後の同世代の人。大好きな語り部の人たち。それを支える人。他にももっともっと個々の苦しみを抱えているそれぞれ。
一度外に出すということ。誰かに認めてもらわないと、肯定されないと感情がホンモノにならない気がする
高校までで感じてたイライラは、言語化することで落ち着いたと思う。先生が昔したという、「焚き火を囲んで自己紹介する」は言語化の作業なんだろう
本当に個人的なこと、自分にしか価値のないこと、自分で克服すべきこと。その人の怒りはその人のもの。自分に取り込んで共感するのは方法が違う。聞き手にできることは寄り添うこと
SDGsのその前に、私は権利の話がしたい
この前聞いた言葉の話で、その人は「日常生活の延長線に政治がある」という。そうだと思う。
ひとりひとりが普段抱えているしんどくなるような、言語化されていないことは日常にたくさんあって、ちゃんと認識されていないだけ。その先の先に市民参加や投票、政治がある。
まだ言葉になっていない苦しさを言語化し、社会の問題になって、対策がされていく。言葉を生まないと、その問題はないことにされたりするし、そうなるのは自然なことだと思う。
私が、私と周りにできることは、苦しさを「苦しいこと」と認識すること。きっとそう。大学4年間で学んだことは本当に宝物。