"세월"에 대하여(ネタバレあり)

本日最終日を迎えたあるダンスカンパニーの公演を見に行ってきました。
韓国のセウォル号沈没事故(事件)を題材とした本公演は、沈没しつつある船内の集団心理と狂乱、それを表現する身体能力、客席にいる我々もともに沈んでいっていることを思わせる演出など、さすが新進気鋭の表現者と表現集団だなと思ったところもありました。

ただどうしても拭えぬ違和感があったのでここに記録します。
私は評論家ではないし、演劇・肉体表現の評論マナーもまったく知らないので、これは評論ではなく、単純に個人的な現在における違和感の記録であります。
今後何か評論や情報が出てきたり、自分の中で発見があれば、この違和感も変わっていくのかもしれません。


劇中アイテムの解説

まず劇中、韓国のことを知らないと理解できないであろう文脈があったので、それを説明します。

가만히 있어

大きな拡声器から何度も繰り返されていた女性の声は、「가만히 있어(カマニイッソ)」と言っています。
この声がすると集団がフリーズしていたため、観客も大体の想像はついていたでしょうが、「じっとしている」、あるいは同輩どうし、目上の者が目下の者に言う「じっとしてて」という意味の言葉です。

짜라빠빠

劇中で何度も踊られていた「짜라빠빠(チャラパパ)」は国民的歌手でコメディアンのチョン・クァンテが1985年に発表したアルバムに収められている歌です。

単純な歌詞とメロディーからなるこの歌は、児童合唱バージョンでリメイクされるなどして、長く学校や地域のレクリエーションに使われてきた、韓国人にとってお馴染みの歌です。
しかし2004年、ある動画投稿によって、「この歌といえばこのダンス」というイメージの画一化がなされます。

これはIYFというキリスト教系新興宗教の牧師が教団内のレクリエーション用に撮影した映像で、その奇怪な振り付けはネットで爆発的な人気を得ました。若者の間では、学校のクラスメイトや地域の大人たちと一緒にこの振り付けで踊り、撮影して動画サイトにアップするなどといったことも行われました。
よって本公演で何度も踊られたこの振り付けはダンスカンパニーのオリジナルではなく、この牧師によるものです。

독도는 우리 땅

「独島は韓国の地」という意味のタイトルで、韓国との領土問題が論じられる日本ではよく知られている歌だと思います。
本公演で使われたのはトロット(日本における歌謡曲のようなもの)歌手ソ・ヒによる新バージョンです。多くのトロット歌手がそうであるように、ソ・ヒはテレビではなく公演で歌を披露することが多いようです。

ちなみにこの「独島は韓国の地」のオリジナルを歌ったのは、「チャラパパ」と同じチョン・クァンテです。

オリジナル歌詞では「対馬は日本の地」と歌われていますが、政治集会に呼ばれることも多いソ・ヒ版では「隠岐島は日本の地」と対馬についての言及を避けています。
またソ・ヒ版では日本語に翻訳された歌詞が歌われています。韓国人には、こうした「一般の日本人が知らないことを教えてあげよう」という親切心を持つ人が少なくありません。

違和感について

まず公演の始まりから拡声器から幾度も繰り返された「가만히 있어(カマニイッソ)」という放送についてです。
実際のセウォル号沈没事故(事件)では、事故発生当時の状況が明らかになるにつれ、事件と国に対する抗議のシュプレヒコールとして市民たちが掲げた明白に強い命令形の言葉「가만히 있으라(カマニイッスラ、じっとしていろ)」が有名になりました。
それとは違うニュアンスの言葉を使うんだなと思いました。

「가만히 있으라」はセウォル号の異常な傾斜から沈没まで1時間半かかったにもかかわらず、船員が先に船を脱出するまで繰り返し乗客に向けて流された「今いる位置から動かず待機をお願いいたします」という船内放送によって、特に修学旅行中だった檀園高等学校(京畿道安山市)の生徒らの多くが船とともに海に沈んだことを伝える報道記事から生まれた言葉です。

多少の表現の違いは無視すべきなのかもしれません。
出演者が「カンマニー」「イッソイッソ〜」と掛け声を挙げながら阿波踊りのような踊りを踊っている場面もありました。
これが言葉に縛られた集団心理を表しているのだろうことはわかります。
こうした劇中のリズムに、「가만히 있으라」は合わなかったのかもしれません。

ただ、船内で船員が持つ強い権限、そして彼らのこうした杜撰な仕事を許した国という最高権力を匂わせる「動くな」という言葉を批判的に使うには、やや柔らか過ぎる印象でした。


次に짜라빠빠。
髪をかきあげ、上腿を震わせる振り付けの時に、役者が必ず変顔をしていました。これはどういう意味なのでしょうか。
元の牧師の映像や、他の韓国内のレクリエーション映像を見ても、特にそうした変顔は見られません(カッコをつけている場面を示す振り付けなので、そうした表情は見られます)。
檀園高の生徒たちを、悪ふざけもする普通の思春期の子達と表現したかったのでしょうか。
個人的に檀園高の生徒を神格化するつもりはないのですが、見る人によって本公演における犠牲者の扱いをどう理解すればいいかよくわからないのではと思います。

このダンスカンパニーは、オウム真理教や連合赤軍事件をもとに、集団的狂気や集団心理を扱った作品づくりを多く行っているとのことです。
ただ船内にいる人間の集団心理ということだけで犠牲者たちを扱ったなら、複雑な問題が置き去りにされている気もします。


最後に독도는 우리땅。
この歌は韓国で未成年のうちに教育を受けた者なら誰でも慣れ親しんでいるもので、リズムが短調でものを覚えるのに使われるメロディでもあります。
映画『パラサイト』にも、このメロディーを使って主人公たちが自分たちの設定を確認するシーンがあります。

私は짜라빠빠とともに生徒たちが学生生活でよく聞くであろう音楽であるために、劇中に使われているのかなと思っていました。
しかし、続いてソ・ヒ版「독도는 우리땅」の日本語バージョンが流れ出した時に強い違和感を感じました。

なぜ日本語話者の観客がほとんどであろうこの場で、この歌だけ歌詞の意味がわかるように流すのでしょうか。
本公演のタイトルを「세월」と振り仮名も打たず、ハングルを知らない日本人には読めないようにしておきながら、この曲だけ意味を読ませる意図はなんでしょうか。
挑発し我がこととして考えさせるためでしょうか。

セウォル号沈没事故(事件)は現在のところただの一事故ではなく、「これが国か」「韓国人であることが恥ずかしい」と韓国人に絶望や挫折や不安を抱かせることを強い、今も続く人々の分断をどうしようもなく大きくした事件です。
日本と韓国の領土問題もひとつの分断なのでしょうが、それが両国間の分断の本質なのでしょうか。
われわれ各者のアイデンティティの本質でしょうか。

これは自問に近いのですが、セウォル号沈没はもはや韓国人にとって内省的な精神状態であると思っています。
それを日本人に向けた啓発や挑発に使ってしまっていいのでしょうか。なんとかの盗用とかにならないんでしょうか。

私は日本人であり、韓国との縁が血統的に深いわけでもなんでもありません。セウォル号のことも他人事にしようと思えば今すぐできます。なんならとっくの前から他人事で、我ごととする資格は特にありません。
他人だから別の他人に対しては尊重するという意味ですべき遠慮、避けるべき内面化というものもあるんじゃないかと思っています。

"「理解」とは、他人の中に入っていってその人の内面に触れ、魂を覗き見ることではなく、その人の外側に立つしかできないことを謙虚に認め、その違いを肌で感じていく過程だったのかもしれない。"

『目の眩んだ者たちの国家』キム・エラン、パク・ミンギュ、ファン・ジョンウン、キム・ヨンス(著)、矢島暁子 (翻訳)

本公演に添えられたこの作家キム・エランの言葉を、違和感が邪魔して受容することが難しかったです。
「共犯」と言われることも。
ちなみに笑うところはありませんでした。


とはいえこうした違和感の後

公演の最後、オレンジ地に白線が十字に引かれた木板を背負った出演者は、この世をこれで良いとしてのうのうと生きてきた人間の罪を、十字架を担いでゴルゴダの丘を上ったキリストのように、代わりに犠牲者らが背負い召されたことを示しています(多分)。
それと同時にこの木板は、セウォル号沈没以降を生きるわれわれが新たに背負うことになった十字架をも示しているでしょう。
この表現は非常に興味深かったです。

私も常に韓国や韓国人に関することで、あるいはそれに限らず、万人が好ましく正しく許容できる態度をとっているわけではありません。
誰かをイラつかせ、誰かを悲しませ、誰かを黙らせている可能性は大いにあります(お前らもそうだし浅薄だからな、くらいのプライドはありますが…)。
だから本公演が悪く自分がまっさらに正しいとは思わないものの、違和感がどうしようもなかったのでここにゲロしました。

そしてこれが他の国の事件に関することであれば、こんなに違和感を抱かなかったであろうと思います。各国の人々のアイデンティティまで響いてしまった事件を、私は一つ一つ知っているわけではないので。
今回はよく知っている国の、よく知っている事件についてのいち表現をたまたま見てしまい、違和感を感じただけのことであって、すべての公演を相対化しても、本公演に突出した悪意や欠点が認められることはないと思います。

だから自省のために、この十字架のことは忘れないでおこうと思います。

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