蟹は前に歩かないから
川の上流から、
ひらひら流れてくる何かが目についた。
橋の上でぼんやりまっていたら、
蟹が、
川の流れに煽られて
機械的に、ゆっくり前転しながら足元を過ぎてゆく。
ずっとこうやって流れてきて、
何かに引っかかるまでこのまま流れるのだろう。
水の底を小さく横歩きしている姿をみて、
大変なことだなぁと思ったことはないけれど、
あの体の上にはいつも
この圧倒的な流れがあって、
力が抜けてしまえば、もうあらがうこともできないんだな。
ひらひら、くるくる、前へ、前へ
流れにのまれている蟹を眺めながら、
そんなことを考えた。
私たちの毎日の生活も、
同じようなことかもしれない。
気づけもしないような圧倒的に大きな力の流れに
無意識にあらがいながら
「わたし」を保っているのかもしれない。
「わたし」を形づくる力が抜ければ、
のみこまれ、流される。
力の大きさを考えれば、
流されていって当然なんだろう。
あらがうことは、無意味なことに思える。
一定のリズムでくるくるひっくり返っている蟹は、
風景の一部としてはのどかにみえたし、
甲羅がひるがえってできる小さな流れの乱れは
太陽の光を反射して、
キラキラ光って綺麗だった。
論理的にも、ビジュアル的にも破綻のない光景。
でも、じわっと、「イヤだ」という気持ちがにじむ。
本来の体の構造ではありえない方向への回転、
生きていては到底耐えられない繰り返しの動き。
冒涜というのだろうか。
もう命のない蟹にとってはどうでもいいことだとわかりながら、
大きな力に小さなものがのまれるのを、ただみさせられている居心地の悪さ。
ああ、イヤだ。
私たちはきっと、
大きな力の流れの中で、
その力に少しずつあらがいながら生きている。
圧倒的な流れが「ある」のがみえてしまうと、
身を任せたほうが楽なのかなと思ってしまう時もある。
でも、流れの一部になってしまえば、
せいぜい小さな乱れを作って、少し光をはね返すことしかできない。
水の底を這っていたら
その、ほんの少し光ることもできないかもしれないのだけど、
やっぱり最後の最後まで、
底にしがみついていたい。
無力でもあらがっていたい。と、
そういうことを思った。
蟹は、どこまで流れていっただろうか。
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