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ちょっと毛皮をぬけだして

たぬきは。
たぬきはびっくりすると気絶することがあるという。
びっくりして固まっているうちに
事故にあったり、喰われたりすることもあるらしい。
「たぬき寝入り」なんて言ってないで、逃げなきゃダメだよねぇ。
と、図鑑を閉じながら、
指先から血の気が引いてくような気がして
こっそり、パタパタ手を振る。

わっとびっくりしたり、ショックなことがあると
倒れる子どもだった。
「あ、ダメだ」と思いながら、
意思に反してぷつんと意識が途切れるあの感じはずっと体から離れない。
もういい年なので世間体というものがあり、
見栄でなんとか踏ん張っているけれど、
基本的な肝っ玉は入れ替えられないので、
「おぉ、やばいなぁ」ということがたまにある。

行ったことのない場所に行ってみたいと
いつも思っているけれど、
思春期ごろに海外に行く機会が割とあって、
旅にはトラブルがつきものだと学んだ。
同行の人が私服警官とおぼしき人々に囲まれたり、
同行の人がパスポートをすられたり。
何かあるたびに
当事者よりも青くなって周りを心配させてきた。
「座ってるだけで精一杯。ごめん」
と謝った回数だけ腰が重くなって、
遠くへの憧れが載った天秤の皿は
いつもカタンと宙に浮いている。

心拍数を上げたくないんだ。
おうちが好き。お部屋が好き。お布団の中が好き。
いいもん。私にはテレビがあるもん。
とつぶやいてゴロゴロ眺めていたテレビで、
「ルーヴルのナイトツアー」
が特集されていたのは、
なんの因果だったんだろうなぁ。

テレビに映っていたのは
閉館後の、誰もいないルーヴル美術館。
モナリザも、ナポレオンの戴冠も、ミロのヴィーナスも、
昼間と変わらずにあるけれど、
ひとけのない「静」の空間。

「行きたい」
と思った。
横になると
ダッダッダッダッと心臓が動いているのがわかって、
その夜は眠れなかった。

ヤなんだけど。
怖いことはしたくないんだけど、
でも。
行けなかったらきっと、
ずっと夢に見る。

急き立てられるような気分で
その週のうちには旅行の申し込みページを開いていた。
いざ。というところまで来ると、
取り返しのつかないことをしでかしている。
という気持ちがざわざわとせり上がってくる。
溺れているような気分になって、
だれか止めてくれないだろうかと必死に周りを見回して、
はじめて、まだ誰にも言ってないことに気がついた。
そのくらいまいあがっていた。
決定のボタンを押すときは
目で見てわかるくらい手が震えていたけれど、
それでも、予約は完了した。

5月に申し込んで、
実際の旅行が9月。
この3ヶ月強、
ずっとナーバスになってた。
自分でもどうかしていると思う。
行きたいけど行きたくない。
もし、倒れちゃったら?

ただ、起こるかもしれないトラブルにできる対策なんて、
ちょっと高めの保険に入るくらいだ。
不安はつのる。
何か。
何かやることはないだろうか。
漠然とスケジュールを組むだけじゃなくて、何かミッションが。
こう、スタンプラリー的なワクワクがあればいいのに。
そう思って見てみたい絵の切り抜きを集めてみたり、
食べたいお菓子を眺めてみたり、
あれこれしてはみたものの、うしろむきなココロはノって来ない。
もう、シュッとルーヴルだけ見よう。
あとはホテルで丸まってすごそう。
仕方ないよ。生粋のビビりだもの。
そんなことを思っていた時、
ネットでポストカードの画像をみつけた。
切手にエッフェル塔のスタンプが押してある。

ちょっと調べたら、
特別な絵の消印を押してくれる郵便局がいくつかあるらしい。
ふぅん。
特に観光客に人気があるのは
モン・サン・ミシェル、エッフェル塔、郵便博物館か。
へぇ。こんな柄なの。
かわいいね。
…今回のツアーのルートは
モン・サン・ミシェル、オンフルール、パリ。
行くね。
行けちゃうね。
モン・サン・ミシェルとエッフェル塔。
さらに情報を読み込む。
あ、ちゃんと頼まないと押してもらえないのか。
そうね、エアメールになるから、
せっかく出してもきれいに届くとは限らないのね。
むずかしいか。
後でがっかりとか、嫌だもんなぁ。
…でも、旅先からのポストカード。
たのしいんじゃない?

行きの飛行機はずっと
「にほんまでのきってをください」
「もんさんみしぇるのはんこをおしてください」
を言う練習をしていた。
しるぶぷれ、しるぶぷれ、しるぶぷれ
不安はだんだんわくわくに変わる。
しるぶぷれ、しるぶぷれ、しるぶぷれ
わたし、フランスへいくの!

憧れの地へは、
乗客の悲鳴とドゴッという鈍い音とともに到着した。
これが本当のド・ゴール空港…とかいう
寒いダジャレも思いつかないくらい
衝撃的なランディングだった。
肉体を捨てて一目散にはみでだした魂が、
ドアが開いた途端に流れ込んできた花の気配に触れて
ゆらゆらと体に戻ってくる。
嫌じゃないけど力強い香水の香り。
あぁ、フランスだ。
晴天。

ツアーなので、ふらふらよそ見をする隙もなく
はい、こっち!と集められて、ざかざかバスに詰め込まれ、
渋滞にはまりながらパリ郊外のホテルに着いたのが15時くらい。
予定では各自ホテルで休むはずだったけれど、
添乗員さんが
もし希望があるならパリ中心部へ案内するという。
30分はかかるし、帰りは付き添えないけど、
地下鉄の乗り方とか教えますよ。と。
あ、行きます。と手を挙げて、
添乗員さんにくっついて
ここがパリの中心だという地下鉄の駅を出たら
オペラ座がばーんと目の前にあった。
スリがいるから、立ち止まらないでくださいね。
って言われてたけど、どう見てもおのぼりさんの顔で
ぽかんと立ちどまっていたと思う。

特に目的があったわけではないので、
ふらふら歩きまわって、
絵はがきと、いろんな美術館に入れるパスを買って帰った。
右を見ても、左を見てもパリだった。
部屋に帰るとさすがに疲れきっていて、
でも眠れなくて、
最初の晩はたくさん葉書を書いて過ごした。

郵趣の民から事前に仕入れた情報によると、
モン・サン・ミシェルの消印はちょっと難易度が高いみたい。
窓口でちゃんと頼まないと押してもらえないけど、
窓口でフランス語以外は一切通じない。
断固として16時半で閉まるし、
調子がいいともっとはやく閉まる。
ツアーでいくと郵便局のあるエリアで
自由行動できる時間はほぼないので、
消印は基本無理だと思っておいていい。
という話まで出てくる。
「にほんまでのきってをください」
「もんさんみしぇるのはんこをおしてください」
しるぶぷれ、しるぶぷれ、しるぶぷれ

モン・サン・ミシェルは
巨大な修道院のある小さな島だ。
島といってもほぼ陸続きで、
潮が引いている間は歩いて渡れる。
修道院の門前町のような形で少しお店があり、
目的の郵便局はそこにあった。
パリの外れから移動してきて、
ホテルにチェックインしてみんなで再度集合
…したらなんかよくわからないけど現れない人がいて、
ワーワー言いながらシャトルバスに乗り換えて、
現地のガイドさんとご対面して、
はい、修道院に入る前に30分自由行動でーす!
のコールを待ち構えて走り出す。
集合場所の目の前が目的の郵便局だったので、
駆けこんで、
覚えてきた呪文を一気に唱えた。
しるぶぷれ、しるぶぷれ、しるぶぷれ。
言葉は通じなかったけど、気持ちは通じて、
なんとかハガキを窓口のおにいさんに託したら、
自由時間の残りはほんのわずかになっていた。
意地でおいしいという
塩キャラメルのソフトクリームを買いに行って、
解散した場所からほぼ動けていないから、
集合は一番乗りだった。
まだ半分くらい残っている塩キャラメルソフトを舐めながら、
うっかり「この辺りから動いてない」
と話してしまったために、
添乗員さんにかなり心配された。
いや、でもちょっとした冒険はしましたよ。
晴れやかな心持ちで見る世界遺産は
素晴らしく美しかった。

夕飯はモン・サン・ミシェル名物のふわふわオムレツで、
食べたことのある人から
味がないんだよ。味が。
と聞いていたので、逆にちょっとたのしみにしていたのだけど、
そんなにがっかりじゃなくてがっかりした。
旅の気分でアップルシードルを舐めていたら
レストランの店員さんが何か話し出す。
添乗員さんはちょっと顔をしかめながら
「今日は満月で、大潮で、夜はとても綺麗だそうです。
 夜にお散歩するといいですよ。
 と言ってます」
と訳してくれた。
散歩に行くなら飲まなきゃよかった!
と思っていたら、
「夜は危険なので、
 外出はあまりおすすめできません。
 ホテルは夜、施錠されるので、
 締め出される可能性もあります。
 行かれる方は自己責任でお願いします」
と続いた。
渋い顔の理由は、それか。
部屋に帰って少しだけ悩んだのだけど、
クローゼットの奥に反射材つきのベストがあるのをみつける。
夜道は危ないからお使いなさい。ということか。
ほら、ホテルだってお散歩推奨じゃないか。
お墨付きをもらった気分で外に出たら、
同じツアーの人が10人くらい
散歩の格好で出てきていて、
笑いながらみんなで記念撮影をした。

歩き始めはまだ明るかったのに、
あっという間に夜になる。
振り返ると赤い大きな月が出ていて、
舞台ができすぎていてこわい。
数百人はいるのだろうか。もっと?
たくさんの人が歩いているのに、
少しずつ、足音や話し声より
水の音が大きくなる。
波が寄せるようなザザーッという切れ目のある音じゃなく、
ザーッと絶え間なく続く音。
水が、集まってくる。
ここに。
昼に歩いて通った橋が
ふつり、と海になっていて、
渡る術のなくなった修道院に灯る明かりが
尖塔の上の大天使ミカエル像を照らす。
Le Mont Saint-Michel
聖ミカエルの山。

起こることが全部刺激的で
全然眠くならないけど、
くたくたなので無理やり目を閉じる。
だって明日の夜はルーヴルなんだもの。
海沿いにぐるっと、オンフルールという港町に寄って
パリへもどる。
昼はムール貝の食べ放題だったので、
ツアーの他のお客さんに混ぜてもらってテーブルにつく。
フランスの事前情報はほぼ郵便事情だけだから、
どんな話を聞いても新鮮だった。

パリの街はひどく渋滞していて、
さらに、なぜかまた、集合時間に来ない人がいて、
日程は遅れに遅れた。
待ち合わせ場所で待機してくれていた美術館専門のガイドさんは
わかりやすくはっきりと激怒していたので、
本来なら私はここで青くなるところだったのだけど、
「私はここで30分待ちました。
 こんなことはありえないことです。
 本当に信じられない」
と文句を言いながら懐中時計をパチンと閉じたそのガイドさんが
銀髪を高く結い上げた美しいマダムで、
シックなタイトスカートに網タイツ、
10センチはあろうかというピンヒールというお姿だったので、
「おフランス!」
という興奮が先立って、倒れるのを忘れていた。
むしろ別の意味で倒れそうだった。

ぷりぷり怒りながらも、
マダムはきっちり仕事をするタイプらしく
「いつ来るかわからないから
 このグループを一番最後に回してもらいました」
と言って、たったか歩き出す。
ナイトミュージアムには他にも5、6組入っているはずだけど、
大遅刻のせいで他のお客さんの姿は見えない。
マダムのお怒りもごもっともなので、
粛々とついていく我々と、
かつーん、かつーんと響くマダムの靴音。
警備の人が後ろからついてきて、
部屋を進むたびに
後ろの部屋の電気が消され、扉に鍵がおろされていく。

天井絵にも、壁の装飾にも、歴史があり、意味がある。
目が足りない。
今どこにいるのかもわからなくなって、
ぐるぐるしながら、
大きな階段の前にたどりつき、
見上げて、
あ…と声が出た。

船形の台座に大きな翼、
教科書でみたことある。
ニケだ。
サモトラケのニケ。

5月にツアーを申し込んだ時点では、
解体・移動を伴う大規模な修復の最中で
ニケは見れないかもしれないと言われていた。
残念だけど、仕方ないよね。
ない時に行ったっていうのも、めったにない体験だよね。
と、思っていた。
けれど。

風をはらんで力強く開かれた翼、
ひるがえる薄い衣。
静かな、でもはっきりとした声の
マダムの解説を聴きながら、
モン・サン・ミシェルのぬるい風と
ザーッとあふれる波の音を、肌が、耳が思い出す。
想像の海と風の中で
動かない石の台だったはずの船は
全速で前進を始め、
正面に立つと
吹きつける潮風に悠々と胸をそらし、
強く前を見据えるニケの瞳が、
はっきりと見えるような気がした。
汚れをきれいにとり除かれ、
あわく光を放つような白い大理石のその像は
どこまでも美しかった。

来て、よかったと思った。
ここに立てて、よかったと思った。
ニケと私の間には誰もいない。

そのあとのパリでの2日間は大きなトラブルには遭遇せず、
結局3日連続でルーヴルに通って、
無事帰国した。
何事もなかったけど、
やっぱり今でも大きな旅行はこわいし、
決行が決まった後はずっと調子が悪くなる。
でも、行くか行かないかの岐路に立った時、
ニケが背中を押してくれるようになった。
さぁ、その目で確かめて、触れてごらんなさいな。
もしかしたら、もっとすごいものが待っているかもしれない。
「私」が見たいものは、
「私」しか見に行くことができないものなんだから。

出したポストカード群は、
結局一枚も行方不明にならずに日本へ届いた。
タイムラグはとてもあったけど。
びっくりしたよ。
と連絡をくれた友達に、
このハガキをポストに入れるまでの大冒険は
上手に語れなかったけど、
自分宛のポストカードは
大事な宝物になっている。


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