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裸の履歴書vol.5~ベクトル

 競輪選手になるための学校。それが、日本競輪学校(現日本競輪選手養成所)。競輪選手になるためには、ここを卒業(卒業検定がある)して資格検定に合格しなければならない。入学試験に合格した者ならば、まず落ちることはない。稀に落ちる者もいる。在学期間は10ヶ月。

 入学して氣づいたことが二つ。私の「受験回数4回は平均(4~5回※最大9)」だったこと。一発合格は「エリート」と呼んでいた。全国から選ばれた75名なのだから、インターハイ(全国高等学校総合体育大会)や国体(国民体育大会)で優勝または上位入賞など、錚々たる実績の者たちの中に入って肩身の狭い思いをする。
 もう一つは「二世が多い」こと。親が競輪選手という時点でだいぶアドバンテージが高いなと羨望の眼差しで見ていた記憶がある。
 
 全国から選ばれてくるとはいっても、地域差というものがある。勢力図とでも言おうか。関東と関西の割合が多い。競輪界の呼び方だと「関東対近畿」。この構図が学校内では主流派だったように見えた。「標準語(※厳密には標準語に近い)vs関西弁」の飛び交う会話。そこに割って入ろうとしていた「19歳のじゃいご」は、独り勝手にはやる気持ちでいた。必要以上に方言を多用。青森もいるんだぞと言わんばかりに。割って入っていた。エネルギーを向ける方向が違うのに氣づいてはいたものの、私には大事なことであった。それでも10ヶ月間寝食を共にした間柄の同期生はかけがえのない存在である。

 特筆した実績もない私は、記録会(タイムトライアル)も競走訓練(在校順位に関係する)でも下位の成績ばかり。くすぶっているままの学校生活となった。かくして「在校成績最下位」という不名誉な肩書きを引っ下げ、卒業。いよいよ念願の競輪選手が目前に迫ってきた。努力はできるが「負けず嫌い」度合いが圧倒的に薄いという勝負師としての資質の欠落が既に見え隠れしていた。当時は氣づいていなかったが…。

 ものわかりがよくて、察して、目立ちたがりで、真面目で、ダサいことが嫌いで、うっすら支配している空気が嫌いで、冷静で、ひねくれもので、エネルギーの方向が違っていて、

 つまりは、我思う…「可愛げのない競輪学校生」だった。

続く

1975年7月17日 青森市生まれ

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