興味と忌避

現在、地球上の70億人超の人間はほとんどみんな、言葉で考え、喋り、聞き、読み、書いて生活している。僕は生物進化に関わる研究をしているので、言語について考えを巡らす時には、必ず思考、所謂自我の起源について考えることになる。それは、人間がいつから人間だったのかについて考えることとある意味同義でもある。

人間が思考を行っているということは、その前には言語なく思考していた人間に限りなく近い生物がいたはずである。もしくは、それ以前には思考は存在せず、言語の誕生後になんらかの形で偶然思考が誕生したのかもしれない。自我が生まれた経緯の一説に、猿集団の中で高度な社会性が発達する中で、自己を認識する必要性が生じたというものがある。この説に基づけば、社会性の一部としての言語によるコミュニケーションが発生し、それがそのまま思考になったと考えるのが自然だろうか。さらに言えば、言語によるコミュニケーションには思考が必要であったということになるのか。正直に言うと、これまでなぜ人間が進化の過程でここまで言語を発達させたのかは非常に不思議なことであったが、原始言語によるコミュニケーションの発達により偶然生まれた思考が、生存競争に非常に有利に働いた、即ち思考による優位性とコミュニケーション能力による優位性がある時高度に集団選択性に強く働くようになったと思えば納得出来る。

一方で、人類が思考を手に入れたことによって、他の多くの動物がもつであろう行動原理について本質的(体感的?)に理解することが出来なくなってしまった。では、人間は本当に本能的な行動原理に基づいて行動しなくなったかといえばそうではない。あくまで統計学的には、他の動物と同様、人間の行動パターンは多くの場面で決まっているのである。ということは、思考が及ぼす影響は動物の行動原理を根本的に覆すものではなく、故に人間は明確に他の動物と区別できる訳では無いのかもしれない。よく言われるのは、人間の行動は言語で構築される意識領域ではなく、認知の外にある無意識領域で決められる、ということだ。あらゆる動物が持っているかもしれないこの無意識領域での思考...。このことは一見人間が言語の獲得により偶然思考を獲得したという仮説と矛盾するように思える。その真偽はともかくとして、人間は実は他の動物と行動原理は似ているということは言えそうだ。人間の無意識領域での思考を理解できれば、他の動物も含めての行動原理を説明できるかもしれない。

さて、本題と関係がないような話を進めてきたが、その行動原理こそがタイトルの興味と忌避なのではないかと僕は考えている。人間の興味と忌避の対象と場面は個体間の差が大きそうではあるが、それらを決定する要因として経験による刷り込みが強いことは間違いないだろう。そしてそれらの刷り込みは、ニューロンの伸長と結合の連続の結果として起こる。極めて複雑に見える思考はこれらの単純な生理的現象によるものであり、それを応用してAIという単純な思考機構を作ることさえ出来るのである。

ここまで誰かがすでに考えてきたようなことを長々と書いたが、結局のところ、人間は興味と忌避をもって選択をするありふれた生き物ということである。しかし、だからこそ、人生を豊かにするヒントは、自分の興味と忌避は何かを考え、知ることにあるのかもしれない。人間は「思考」して生きることができる唯一の生物なのだから。

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