何者にもなれない優しいおっさん

歳をとるごとに、許せる価値観が増えている。

どんな意見を見ても

「そう考える人もいるかもな」

「その人にはその人なりの考えがあるのだろう」

「過激なことばを使っているけれど、きっと仕方ない事情があったはずだ」

と、ほとんど許容できてしまう。

さまざまな人との出会いや、小説や映画との出会いが、人への想像力や思いやりを育ててしまう。

それはいいことなのだろうか?

許せる価値観が増えるということは、”おっさん”になるということなのでは。

許せる価値観を減らしたい

身近にいる優れた起業家やクリエイターは、よく怒っている。

世間の常識にも怒るし、ちょっとした日常のやりとりにも怒る。

もちろんただ怒りを巻き散らかして憂さ晴らしをしているわけではない。明確な価値基準があって、それにそぐわないものがあると怒っているのだ。

僕はそれができない。

誰かに怒りたくなったら、怒るよりも先に一線をひいて関わりを絶ってしまう。「その人はその人で価値観があるんだろうけど、僕にはあわないな」と思って遠ざかってしまう。

そういう僕の姿勢に対して、いまもむかしも尊敬する先輩からこんな手紙をいただいたことがある。

人の気持ちを察して、「その人がそれでいいならいいか。」と流してしまえることは、いずれ葛原の伸び悩みに繋がるように思う。「摩擦を恐れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと、君は卑屈未練になる。」というのは電通鬼十則の一つだけど、まさに葛原にはそのガツガツした精神がもっとあってもいいと思う。起伏が穏やかな人間性のなかに格納されてしまっている。摩擦のなかにこそ、次の興味や、自分の壁が必ずあるからね。もっと”ほとばしる”葛原というのも今後見てみたい。

多様性の時代と言われて、さまざまな価値観が乱立している。それらに対して、どのように向き合うのかは現代を生きるひとびとのひとつのテーマとなっている。

僕は、自分があまり好きじゃない価値観に関して「他人に迷惑をかけない範囲で本人がそれをいいと思ってるのは、全然いいんじゃない?」と思う。

時代に逆行するようだけれど、それを今年はあえてやめてみようかと思う。

誰かにNOをつきつけるためには強い明確なYESがなければならない。まずは自分が何をイケてると思っていて、何をダサいと思っているのか。その価値観を言語化してみることから始めようと思う。

最後に、スティーブ・ジョブズのインタビューを。