自分以外は他人。

 見て頂いている諸兄姉の方々、私にとって久しぶりの投稿となる。
 小賢しい書き方になるが私なりの人との付き合い方接し方に対する考えを述べたい。
 親しい友人だろうが家族だろうが基本的には自分以外は他人だとどこかで割り切る必要があると私は考えている。

 「仲良くなる事」「親しくなる事」等、人との心理的な距離が近くなればなるほど嬉しいといった風潮が世の中にはあるように思う。
 確かに心理的距離が近くなれば建前等抜きで相手の本音を引き出しやすくなり、意思疎通の面で大きなメリットがある。また、相手がみせる意外な一面を知りやすくなるのも良く、それを知った時の喜びや面白さも人間関係の醍醐味だと私は考える。
 

 だが、心理的な距離が近くなる事は必ずしもメリットばかりではないと考えている。音楽の趣味を通じてたくさんの方々と接してきたが、すごく仲が良かった方々がある日を境に急に犬猿の仲になる等の事例を私はたくさん見てきた。恥ずかしい話、私も自分の器の小ささから多くの方と仲違いをしてきた。
 距離が近くなるデメリットの一つとして、相手も同じ考えだと錯覚してしまうところにあるのではないかと考える。相手も同じ考えだと思い、相手の意向とは違う行動発言をしてしまう。もちろん大きな問題でなければ相手は違和感を抱きつつも関係を続けるだろう。ただ、そんな事が増えてくるとやがて信頼関係に亀裂が入り、ふとした瞬間に仲違いへと発展する。
 また、同じ考えに見えても違う部分があり、その部分をお互いに譲れず仲違いする事も多くある。
 距離が近くなると上部の言葉や接し方で相手も全く同じ気持ちだと錯覚してまう。だが本当は程度や微妙なニュアンスの違いが裏に隠れている場合が多い。それが仲違いの原因の一つになるのでは無いかと私は考える。
 
 基本的には、自分以外は「他人」であると私は考え行動している。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があるが、これは相手を自分とは違う一人の立派な他人だと認識して接する事では無いかと私は考える。親しき友人だろうが、血がつながった家族だろうが、考えも行動も違う他人だ。
 自分以外は他人なのでもちろん考え方や感じ方も違う。言葉で表現できる人の気持ちや考えはほんの一部なので、上部の言葉で同じ考え、同じ感じ方をしていると思っても、基本的には違う所が多いと思った方が良いだろう。極端に割り切った考えだと思われるだろうが、考えが違うからこそ少しでも同じ感情を共有できた時、意思疎通が出来た時の感動と喜びが大きいんだろうと私は感じる。
 
 ひねくれた考えだと思われるかもしれないが考えの違いを尊重し心理的な距離を調整しながら接していくこれが上手い人間関係を築くための私の考えだ。

■後書き

私個人実はあらゆる関係をとわず呼び捨てにされたり、過度にいじられたりするのが好きではなく、適度な距離で接するのが丁度良いと感じる(兄弟に対しても呼び捨てするのはやめている)

人間関係は仲良くなるほど親しくなるほど距離が近くなるほどよいとは思わない。

 その人が許せる距離で関係を続ける。これが本当の良い関係だと私は考える。

、、、、、まあ、そんなしょうもない戯言はさておき、この話を書こうと思ったきっかけは、この後書きを書きたいがためにある。私は泣いてる顔文字‪(´;ω;`)←をこよなく愛してる。(詳しくは過去の投稿で)この気持ちを後書きで遺憾なく伝えようと考え、なぜかわざわざこんな小賢しい文章をいわば釣りも兼ねて書いてみた‪(´;ω;`)諸兄姉の多くが本編だと思って読まれていたあの小賢しい文章はただの福神漬けみたいなものだ。「おい、こんなふざけた後書きあるか(怒)」と思われた諸兄姉の方々には申し訳ないが、私にも表現の自由がある。むしろ私の表現の自由を脅かしかねないので猛省頂きたい(逆ギレ‪(´;ω;`)←)
末筆にはなるが、泣いてる顔文字は至高である‪(´;ω;`)‪(´;ω;`)‪(´;ω;`)!!

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