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「インタープレナー」を目指した13年間の軌跡(2)

パート2では、私自身の新入社員時代のことを振り返りながら、「インタープレナー」を目指した13年間の軌跡の振り返りを書いていきます。
自己紹介含むパート1はこちら。

さて、最初の記事を書いてから、ずいぶん経過してしまいました...。
何部作に分けて書こうかと思っているうちに、気恥ずかしくなり公開をためらっていたらいつの間にか夏も終わりに近づき。すみません。。。

2021年も間もなく2/3を終え、さまざまな環境変化があった方、さまざまいらっしゃることかと思います。

夏休み、あるいはその終わり、というのは色々振り返るタイミングですので、続編をつづります。

(1)から書きっぷりが大幅に変わっていますが、執筆後学んだことや、執筆タイミングでの心境、情勢を大幅に反映していますので、ご容赦を。

”カイシャ人”

さて、2010年4月、私は”社会人”になりました。
いや、正確には"会社人"。

就職先は、通信インフラ会社。津々浦々にサービスを提供する社会的な役割があるがゆえに、最終面接では、

「入社後にはどこに行くかはわかりません。問題ありませんか。」

という問いが、当然の通過儀礼としてあり、

「はいっ。どこでも大丈夫です!」

とキッパリ答えたのがよかったのか、無事内々定を得ることができました。

当時は「原則として出身地と卒業大学所在地以外に配属する」という不文律があり(※現在はほぼ廃止された模様)、内々定の後には、修士論文を執筆しながら、初任地がどこになるかどこか悶々とする日々を過ごしていました。

満を持して入社2週間前に通知された初任地は、愛媛県松山市。家族旅行では2回ほど行きましたが、縁もゆかりもなし。

まあ、フェリーでのんびり寝てれば実家に帰れなくもないし、関西圏にも半日で行けるからまあいいかだろうと、自分自身を得心させていたのでしょう。

ただ、その「断絶」の深さは、今の私でも推し測ることのできないものかもしれません。

”ヒョウハク”

新入社員時代に、よくこんなことを言われました。

・同期とは会社人生を通じた財産である。

・ジョブローテーションとは、あらゆる業務を網羅的にインプットすることで、会社組織全体の動きを理解するためにある。

着任後、ほぼ初顔を合わせとなる同期十数名との社宅暮らしがスタート。

同期仲良く朝起こしあい、一緒に通勤。
9時前に職場につくと、30歳年上のベテランの方々に囲まれながら、作業の手伝いとも「社会科見学」ともつかないこと続け、17時半になったら帰宅する。こんなルーチンが数か月続きました。通ったことはありませんが、全寮制高校に近い感じでしょうか。

休日は、同期に誘われれば、車に同乗してどこかに出かけるか、気が乗らなければ自転車で海岸やら近所の丘に行き、ぼーっとしている日々。

時間経過という相対速度は同じでも、海の向こうで遠ざかっていく、かつての友人、先輩・後輩。

ケータイメールを送ったり、SNS(当時はmixi)に日記を書けば連絡が取れなくもない。あれ、その土台の仕組みを作っている会社に勤めているんじゃなかったっけ?

そんな中、飛び込み営業研修の初日にいきなり受注し、週明けにもまた受注するという奇跡に恵まれ、ほんの少しだけ気を落ち着けることができました。いい感じに「色落ち」しつつあったのかもしれません。

おぼろげながら10年くらい先を考えた


当時、もしかしたら今も巷にはびこる「SE 35歳定年」説。

35歳になった自分はいったい何のスキルで「社会人」たりえるのか。まるで高校生のような悶々とする日々を過ごす中、ある時、四国に配属された新入社員が集められ、集合研修を受けることになりました。

講師は、外資系IT出身で35歳でSEから独立された中小企業診断士の方。
その方のお話を聞くうちに、

ITエンジニアとして自立した後、コンサルティングに回る。そのためには、コンサルティングの国家資格である中小企業診断士を35歳までに取得する。

目標として明確に立てたわけではないのですが、おぼろげながらに、目指したいイメージがそこにはありました。

(ここ5年ほどの間にSE 35歳定年説も常識とは言えなくなり、今では違った考え方をしていますし、当面事業会社で頑張るつもりですが、当時は、学生の延長線上に過ぎない考え方ように思います。机上でキャリアを設計していた。キャリアってずっと生モノだとわかるのはだいぶ後の話。)

さて、そうと決まれば、「社内でのキャリアパス」は自分の意志と周囲への働きかけでどうにかなりそうで、ある程度自分で描けると考え、少々思惑を含んで配属希望を提出。

配属についての「当時の私」の考え方は以下の通り。

(1)まずはエンジニアでありたい。土台をしっかり固めたい
(2)通信ネットワーク/設備の部門だと既存の枠組みや技術にとらわれそう
(3)法人営業は面白そうだが、どういう顧客の対応をするかで学びが変わるため、体系的な経験を得にくい可能性がある
(4)技術開発部門は配属希望者が多めなので開発系でも「不人気」部署のほうが配属確率は高い
(5)情報システム部門であれば全体を見渡すことができる可能性があり、比較的新しい汎用的な技術を身につけられる可能性がある
(6)翌年度からクラウド技術者育成に力を入れるらしく、もともと大規模計算の研究室にいた自分は若干有利で親和性がありそう

こうした思惑を持ちながら、もちろんもう少し純然たる動機もあり、
・申込受付をするコールセンターで見た、入力システムの乱立
・複雑な注文処理システムと、現場依存した在庫や資材の管理
・30年以上使われているレガシーな通信設備の保守
これらをどうしていくのか、通信キャリアならば、自らのシステムも時代の先端を行くものにしていきたい。といったことも漠然と感じていました。

「π字型」人材への思いはあったが

もう一つ、心残りにしていたのが、学生時代に掲げた「産官学」連携。

私の出身学部・専攻は高大連携の在り方を模索していて、未来の科学者を早い段階から育てようという目的で、理系AO入試を実施し、その取り組みについて毎年フォーラムを開催し、発表と意見交換を行っていました。



私は、AO入試で入学したわけではないのですが、発起人が修士論文の恩師だったこと、文系小論文入試で入学したのに理学修士で大学院を修了したという一風変わった経歴もあったためか、若輩者ながら登壇。

そのプレゼンのスライドがこちら。(完全に若気の至り)

(T字型人材、π字型人材の説明で、裾の部分が「土台」に座っていて、上下逆転して書かれているのが何とも若々しい。)

当時はリーマンショックで就職活動は一気に厳しくなり、(さらに、このフォーラムの直後には東日本大震災もありました。)学際的な研究が本当に、「社会で戦える人材になるのか」という素朴な疑問持たれているかと薄々感じていた時期でもありました。

聴講者の半分を占める高校の先生に向けて、「リベラルアーツ的な学部であっても、本人の努力次第で結果が出る(=つまりは有名企業に就職できる)ので、安心して生徒さんを送り込んでください。というメッセージを自分なりに込めたつもりでしたが、

・起業すればいいじゃないか
・博士になったっていいじゃないか
・修士の就職と研究は関係ないだろ

などなど、という発想もなければ、スライド中に引用した名著

を買って隅々まで読む、ということもできていなかった当時の私。
(なんというか、思考が偏ってますね。)

生意気なことを言いつつも、当時は研修中の扱いで、ベテランに交じって現場作業。フォーラム当時に交換する名刺がなかったので上司に相談して作ってもらったりしていたぐらい、外に出ることもない日々。フォーラム直後に、東日本大震災が発生し、ベテランの先輩やいわゆる現業採用の同僚が被災地復旧に駆け付ける中、何もできない自分に無力感と焦燥感が募るばかりでした。

念願かなっての配属、しかし

「最も人気のない部門を希望として出せば確率が高まる。」
「汎用的な知識も身につくだろう。」
という想定で情報システム部門を希望した打算?は無事当たり、入社1年目が終わったところで本社の情シス部門へ希望通り異動となりました。

プライベートクラウドとデータセンタ統合を推進するプロジェクトに配属。

しかし、まったくついていけない。

さらに、社内プライベートクラウド構築のプロジェクトのサブプロジェクトに触れた後、3か月の缶詰研修に入り、インフラエンジニアとしての基本を叩き込まれたのですが、これが、谷底にまず落とすというタイプの研修。

学生時代に計算機シミュレーションを専攻としていたはいえ、あまりに恥ずかしいレベルでコンピュータに関する理解が乏しく、(というより、そもそも学生時代にプログラミングやらLinuxやらExcelの操作が苦手だった…。)何でこんなことも分からないんだ、と自己嫌悪に。これぞ「リアリティ・ショック」というべきか。

「ホンモノ」の情報出身者に紛れ込んでしまった私は、彼らの背中をずっと後ろで追いかけていくような苦労の連続。

学び方を学ぶ、学び方を教える、は、これからの時代にきわめて重要なスキルでしょう。「これだけ知っていれば仕事が回せる。」というケースは少なく、自ら情報を得てGoogleでも高度な検索や画像検索を使う、動画で検索する、キーワードから必要な本やオープンデータを絞り込む、体系的に学べる学び方を知っていそうな人に相談する。勉強会に行く。なるべくそういう人につながるように、情報が寄ってくるようにSNSを使いこなす。
学生時代に身につけておけとされる「学び方を学ぶ」も、サイバーとフィジカルが融合する世界においては、求められるものが全く変わってきているのではないでしょうか。

「ホンモノ」の情報出身者、ITエンジニアに紛れ込んでしまった私。彼らの背中がずっと後ろで、遠くなっていくのをただ見ていただけ。

それでも、3年目に入ると、新規装置の選定や動作検証、システム故障を一晩統制するなどそれなりにシビアな経験があり、2つのサブプロジェクトを任されました。いつしか、パートナー会社や常駐SEの方々と飲みに行けるようにもなり、ようやく1人前のエンジニア、プロマネ見習い、つまり”会社人”としてなんとか立ち上がることができました。

思えば、このころ何とかして前に進めなければならないという気合いと、少しでも学び取らなければならないという意欲だけが、取柄でした。そんな意欲を買ってあれこれ教えてくれた「おっちゃん」たちへの感謝は今でも忘れていません。

4年目に入って、少し経った2013年7月、私は情シス部門から研究開発部門に異動しました。情シスは外から見えない。けれども今度は表から見える部分を担当できるかもしれない、そんな淡い期待を抱いて。

(3)へ続きます。

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