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連載小説 hGH:11 



 マジック一で迎えたホームのナイトゲームの当日、私は選手たちよりも早い午前中に球場入りした。きのうの夜にテキストメッセージを送った柴田はすでに一塁側のダグアウトで待っていた。グラウンドに選手やコーチの姿はまだない。グラウンド整備の職員が数名いるだけで、球場はがらんとしていつもより広く感じられた。 
「どうしたんですか、GM。こんな早い時間から話があるとは。しかもきょうこれから優勝が決まるかもしれない球場で」
 私が歩みよると、柴田はいった。
「キャッチボールの相手をしてくれないか」
 私は柴田の質問には答えなかった。柴田が怪訝そうな顔をした。
「キャッチボール、ですか?」
 グラブはふたつ持ってきていた。私はそのひとつを柴田に渡した。
 ダグアウトをでると、上着を脱ぎ、外野の芝の上で軽くアップをはじめた。柴田は怪訝そうな表情のまま私についてきて、私と同じようにアップをした。観客席にも人の姿はなく、グラウンド内は静寂といっていい。数時間後にはここに超満員の観客が入り、そして試合がはじまれば場内はとんでもない熱気に包まれる。
 アップが終わると、数メートルほど離れ、私から投げた。柴田も野球経験者で、プロでも数年の実働がある。私の投げた球を難なく捕球し、投げ返してきた。柴田とキャッチボールをするのはずいぶん久しぶりになる。グラブ捌きも投球フォームも変わっていない。投球ごとに徐々に距離をとった。柴田も私もまだまだ遠くまで投げられたが、声がはっきり届く距離までしか離れなかった。キャッチボールが目的というわけではない。
 肩が温まってきたところで、私はすこし力を入れて投げた。
「おまえはどこまで知っていて、どこまで計算していたんだ?」
 私はいった。回りくどい話をするつもりはなかった。
「といいますと」
 いいながら、柴田の返球にも力が入ってきた。
「今季のチーム編成、球団運営、すべてにおいてだ。お前が事前に知っていたことを全部話せ」
 私はさらに力を入れて投げた。柴田のグラブから、心地いい捕球音が響いた。柴田は最初戸惑った表情を見せたが、私が察していることに気づいたのか、観念したように、わかりましたといった。
「まずGMは、hGHを使用していた井本をできるだけ早く引退させるだろうと思っていました。きっかけ待ちで、それが本人の怪我でした。監督に据えるところまでは予測していませんでしたが、私は引退させる前から井本の代わりになる選手としてベンソンをピックアップしていました。日本で活躍する可能性がかなり高い選手として。ですが、私から直接ではなく、ベンソンの代理人から当時出向でアメリカにいた大島のほうに働きかけさせました」
 キャッチボールをつづけた。
「なぜそんな回りくどいことを?」
「じつは、ふたりいたベンソンの代理人の日本人のほうが、私の大学時代の野球部のチームメイトで、いまでも友人関係にある人物だったからです。GMがコネ的なものを嫌がると思いまして。あとは、ベンソンの妻のアジア人好きの性癖ですね。これはむこうではけっこう知られていて、知らなかったのは夫のベンソンくらいじゃないかというくらいです。もちろんそんな情報、表にはでてきませんが」
 たしかに、代理人のひとりは日本人だった。あの日本人が柴田と近しい人物だとは、むろん私は知らなかった。
 ふと、思った。
「まさか、おまえもベンソンの妻の浮気相手のひとりじゃないだろうな」
 柴田からの投球が大きく頭上に逸れ、私の後方に転がっていった。ちょうどうしろにグラウンド整備の職員がいて、ボールを拾って投げ返してくれた。礼をいうと、職員はにこりと笑って手をあげて見せた。もしかしたら、私たちのエラーを心配して後ろにいてくれたのかも知れない。
「GM、冗談はやめてください。私はベンソンの妻の性癖を聞いて知っていただけです」
 もとに位置にもどって私はボールを投げた。
「だったらいい。とりあえず、ベンソン絡みのことはわかった。つぎは富樫のほうだな。富樫の獲得にもなにかあるだろう」
 だれも注目していない他球団のベテランをあそこまで強行にトレードで獲得した。やはりどこか不自然だった。
「富樫のほうも状況はすこし似てます。ただ獲得はあくまでベンソンの保険という位置づけでした」
 キャッチボールをつづけながら聞いた柴田の話をまとめるとこうだった。
 ベンソンが日本で活躍することはほぼ予測できた。だが、妻の性癖を考えると、夫婦間のトラブルで長期間日本に滞在できない可能性があった。だから保険として、他球団でくすぶっていた富樫を獲得した。引っかかったのは、柴田に富樫を勧めたのが、富樫が所属していた球団のチーフトレーナーで、これも柴田の大学の野球部のチームメイトでいまでも深い付き合いのある知人だったことだ。チーフトレーナーだけあって、富樫の肉体の状態が極めて良好だということを知っていた。まだまだ高いプレイパフォーマンスをだせるにも関わらず、富樫は若手育成のためにレギュラーの座を譲っている状況だったのだ。表にはでていないがそれで富樫は首脳陣と揉めていて、球団側に疎まれ、二軍で干されていた。ただいくらコンディションがよくても、一年を通して井本の穴を埋められるだけの働きは期待できない。年齢を考えてもあくまでベンソンがいなくなった場合の保険。とはいえ短期間での活躍は高い確率で見こめる状態だったので、どうしても獲っておきたかった。
「なぜ私にすべてを話さなかった」
 柴田はすこし考えてから返球した。
「ベンソンにせよ富樫にせよ、どちらもコネ的な要素だけではなく、妻の性癖や首脳陣とのいざこざといった小さくないいわくがあったからです。最高責任者のGMとしては、賛成しかねる部分があったと思うので。あえて私のところで止めておきました。すべてを話さなかったのは、申し訳ありませんでしたとしかいえません」
 たしかにすべてを聞いていたら、私は賛同しなかったかもしれない。部下にそこまで気を遣わせた。複雑な思いが私の胸のうちをよぎった。組織としては、報告義務を怠ったということで、処分の対象になりかねなかった。
 ただその義務を怠った結果、昨季より少ないチームの総年俸で、きょうにもペナントの優勝が決まるという、球団としては最高の成果がでている。柴田は球団事情だけではなく、GMの私の性格を考慮して、球団運営がもっともいい形になるよう立ち回った、ということなのだ。
 私はつぎの一球を全力で投げた。スピンもスピードも申し分のない球が柴田の胸の真んなかにいった。柴田はなんとか捕球したが、グラブの芯で捕ることができず、ぐしゃっという音がした。柴田がグラブを外して痛そうに手をふった。
「久しぶりの生きた球で捕り損ねました」
「いまのは今季の球団運営を成功させてくれた礼だ」
 私にすべてを話さなかった恨み節がかなり入っていたが。
 私は近づいていってグラブを外した柴田の左手を見た。人差し指と中指が赤くなっていた。このていどで骨に異常はないだろうが、二、三日は指が腫れるかも知れない。
「自分たちの目標はチームとしては日本一で、球団運営としては健全な黒字経営です。その目標を達成するためには、多少の責任を被ってでもGMの目の届かないところを補うのが補佐の私の仕事だと考えています。処分があるなら、もちろん受けます」
 柴田はいった。
「わかった、もういい。すべて、聞かなかったことにする。だから処分などはない。話は以上だ。それより、きょうの試合に勝つか引き分ければ優勝が決まるんだ。われわれもそろそろ準備に入ろうか」
 優勝が決まった場合の試合後の段取りは、すべて現場の担当者に任せてある。それでも上層部の人間として事前にやっておくことはいくつか残っていて、私はいったん球団事務所にもどらなければならなかった。柴田は球場でやることがあるのでこのまま残るといった。
 おたがい上着を持って引き上げようとしたところ、うちの選手たちの姿がちらほら見えはじめた。
 球団トップのふたりが、こんな時間からグラブをはめてなにをしているのだという、好奇の視線をむけられた。
「気にしないでくれ。来季の現役復帰にむけてちょっと肩慣らしをしていただけだ」
 選手たちにそう冗談をいって、柴田はさきに一塁ベンチのほうへ歩いていった。私は選手ひとりひとりに声をかけながらその柴田の背なかを目で追った。
 球団には、GMの私が独断で決める、シーズンの半季ごとに選手をひとり選んで表彰するGM賞というものがある。
 今季前半戦のGM賞は、文句なしでベンソンに贈った。後半戦はベンソンの穴を埋める見事な活躍を見せた富樫に贈ろうと考えていた。 
 ダグアウト裏に消えていく柴田のうしろ姿を見ながら、今季後半戦のGM賞は富樫と柴田に贈ろうと私は思った。

                                              hGHー了



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