冒頭のボーカルの声はその日のボロメーター

Apologize

サビの「ず」の声が好き。この「ず」は、年月を経て、少しずつ様相が変化していく。歌う日によってももちろん異なる。ライブでは、第一声の「ず」でその日のTERUがどのような状態なのかを想像することもできる。ある意味でのバロメーター的要素の「ず」。TERUにとっての「ずっと」という単語の捉え方が変わってきているのだろうか。何をどのように考えて歌っているのだろうか。「ず」だけで、想像が膨らむ。

初めて聴いたのはライブだった。音源としてリリースされる前に、一つ前のツアーで定番曲となった。この楽曲も多分に漏れず、理由はわからないが、初めて聴いた時に泣いた。優しさの中にフッと感じる影のようなものの存在がそうさせたのか。いや、影を感じる箇所がないから違うのか。泣きそうにになるポイントはいくつかあるが、そのせいか。それとも歌詞か。いい楽曲であるが、ライブで聴いて泣いたのは、多分その時だけだと思う。自分の琴線がどこにあったのかは、いまだに解明できていない。

アコースティックギターの弦をスライドさせる音が好き。こういう音は修正されるべき音として分類されることが多いようだが、私自身は、ボーカルのブレス同様、そのまま残しておいてほしい。打ち込みでは、あえて入れなければ出ない音は、そのまま残しておいてもらいたいと思うのは、ディープなファンだけか。そりゃ、なんでもかんでも残せば良いなんて思っていないが、楽曲にとってプラス要素となるものは、不要な音のように思えたとしても、是非とも吟味した上で、残してほしい。
アコギが奏でる一音一音が、楽曲の持つ素朴さを引き立たせているように感じる。そこでアコギが鳴っていて、並行するようにエレキギターが自身の役割に徹している時のアコギの存在感よ。ただ、心を洗うメロディを奏でているだけではなく、そこにボーカルが自然に柔らかい声で乗れるようにお膳立てをしてくれているような存在。ただ、その存在感の強さが余計に楽曲の「憂い」の部分を際立たせているように思える。
それは、途中の鍵盤ハーモニカからも感じる。私が初めて手にした鍵盤楽器はもちろん鍵盤ハーモニカで、未就学児の頃から当たり前のように吹き、当たり前のように小学校卒業とともに存在感がなくなってしまった楽器なのでどうもイメージが未就学児がやるようなものを勝手に想像し始めてしまったことを、その数分後にひどく反省する。鍵盤ハーモニカの音こそが、「Apologize」が「Apologize」である所以なのだと解釈している。

春のこの季節に聴くと、泣かないまでも胸の奥の方が絞られるような感覚になる。

#GLAY #apologize #アコギと鍵盤ハーモニカ #詫びることの難しさ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?