「切なさが募るだけ」→「すべて、愛だった」への道程
すべて、愛だった-La vie d'une petite fille-
昔、ラジオで耳にした「名もないGLAYの唄(この漢字であっているのか・・・?)」という、特にリリース予定がない楽曲をメンバーラジオでオンエアしてくれたことがある。それをえMDにダビングしており(いや、カセットだったか。。。)、貴重なその音源を何度もなんども聴いた。GLAYの楽曲は何十年と眠っていたものが、年月を経てリリースされることはままあるとインタビューでも答えている。だからと言って、できた曲をガシガシとラジオで流していくわけではないだろうから、この日の音源を形に残しておけたことは、幸運だったといえよう。
その時に録音して密かに聴いていた、それこそ名もない唄の一部が、「すべて、愛だった」なのだ。録音したその音源を、何度も聴いていたから、初めて「すべて、愛だった」を聴いた時に、なんで?という感情だった。本当に、一部だけだったから。でも、その一部は、確実に「名もないGLAYの唄」だったから。その一部が「名もないGLAYの唄」の時も、サビの最後に印象的な存在感を放つ一部だった。そして、「すべて、愛だった」でも、サビの最後に、特徴的な印象をもたらす一部として存在している。
この歌詞を乗せたメロディはなんだかサビの最後の手を引き、今よりちょっとだけ高いところに行こうよと促してくれるような感じ。この一部がなくても、そこまで不自然ではなくサビを終えることはできなくもないし、その一部がないからといって、サビを締められないということでもない。でも、それがあることによって、サビの最終着地がちょっと変わるというか、少しだけ、サビの見せてくれる景色の最後が違ってくるような感覚がある。だからこそ、このサビの最後にタイトルの歌詞を乗せる重要な役どころというか、意味合いというか、そういうものを与えたのだろうかと深読みをしてしまう。
それは、偶然にも録音しておいたラジオ番組で偶然オンエアされたまだ世の中に放たれていない原石のような存在を知っていたことに対して、ちょっと優越感に浸っている自分なりのこじつけであることも理解している。でも、自分が偶然にも出会って手元で大切にしていたものが、形を変えた形で世の中に放たれたとき、その前を知っている身としては、ちょっとだけ悦に入りたくもなるわけで。この楽曲は、まだ部屋の片隅で膝を抱えてラジオを聞いていた頃の自分を正当化してくれるような、あの頃の自分の心に淀んだものを浄化してくれるような、そんな楽曲でもある。
こうやって、どこかにつながっていくことの喜びを教えてくれる唄。
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