バンドだからこそ生み出せる世界観がこうも広いかとのけぞった
運命論
JIRO楽曲がこう化けるのは、TAKUROが書く詞との相性が抜群であるからだと思う。パンクっぽい楽曲やアッパーな楽曲の中に時折混ざるミディアムナンバーにTAKUROの詞がはまるとその世界観が一気に花開く。この楽曲が「運命論」として世に放たれる所以は、この楽曲が最も輝く詞があることで成立するとさえ感じられるほど。初めて聴いた時は、適切な表現とは言い難いけれど、「やられた」と思った。こういうアプローチができるのが、GLAYのバンドとしての許容量の広さだと思うし、これまた表現が適切ではないけれど、退屈しないバンドだなと感じる。メンバーそれぞれが作る楽曲が特徴的であるだけではなく、それぞれの楽曲に対してのアプローチが各メンバーが変えてくることで広がりが生まれる。そんな可能性をまたひとつ感じさせてくれるのが、「運命論」である。
捉え方次第では、割と単調な楽曲にも聴こえる。JIROが作る楽曲は、シンプルなものが多いため、それこそ調理の仕方次第では、退屈に聴こえてしまう仕上がりだってなりうるが、それをバンドのもつ空気感の方にグッと引き寄せてしまうのだから、バンドってすごい。クラシック音楽での主役弦楽器でスタートすることから厳かさがあるが、それをAメロのギターであっさりと崩してくるあたりがバンドの潔さ。クラシックな音をそのまま生かすのではなく、どうバンドの音にマージさせるのかというワクワクを提供してくれる。そう、マージさせるのだ。どちらかに大きく偏るのではなく、1曲の中にそれぞれの特徴を活かしながら存在させることができるのが、GLAYというバンドの許容量の大きさであると思う。どちらが欠けても成立しないし、バランスが崩れたら、楽曲の持つ世界観に偏りが出てしまい、ひどく期待外れのものとなるだろう。
バンドらしさが色濃く出る間奏のHISASHI、TAKUROのそれぞれのギターの掛け合いからのユニゾンがたまらない。HISASHIのギターソロをTAKUROが引き継ぎ、またそのバトンをHISASHIに渡し、その勢いをTAKUROギターに繋いでいく。運命が連鎖していくように、ギターを繋いでいく様子は、聴いているこちらにある種の興奮をもたらすと言っても齟齬はないように感じられる。そして、その間奏明けの歌。
歌詞もさることながら、動き出す〜の「だ」の高音の力強さに見えるように、運命を受け止め、前を向いて歩こうとしているその決意を歌い上げるTERUの声に、どれだけ背中を押してもらえるか。間奏直前の
から引き継いだそのエネルギーを、間奏で昇華させた状態で、上記の歌詞に一気にぶつけにいく。あゝ、バンドって素敵ねと思わせてくれる瞬間のひとつ。
MVでキャンドルを囲んでメンバーが歌い、演奏する姿に、運命をどう捉えるかは自分次第であるとそっと教えてもらったような感覚を憶える。
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