セルフカバーの破壊力

見つめていたい

なかなか想像の上を行くような方とのコラボがある。この楽曲は、その代表作のようなもの。作詞に長島三奈氏が参加。
そして、今更知ったことなのだが、これGLAYのセルフカバーだったのか。別の女性ボーカリストがシングルとしてリリースされていて、しかも長野オリンピックテーマソングだったなんて。長野オリンピックとGLAYの関連ってこんなところにもあったとは。世界は狭い。

※参照:GLAY~ツアー・ドキュメント・ストーリー~ 夢の地平 “pure soul”TOUR’98&pure soul in STADIUM“SUMMER of ’98”

そう思うと、この楽曲の作詞に長島三奈氏が起用されていたとしても、そこまで驚くべきことではないような気がする。TERUが歌ってすっかりGLAYの楽曲になっているから、疑いもしなかったが。
TAKUROがインタビューで話していた自分があまりプロデューサーには向かないかもしれないというのは、頷けてしまう話でもある。あまりにも近いところに、自分の作る楽曲を愛し、予想以上の仕上がりにしてしまう存在がいることが、プロデューサーTAKUROではなく、GLAYのTAKUROであること以上の幸せを上回らないということか。

この楽曲も歌詞の深さと楽曲のポップさの重さが違う。だからこそ、楽曲が重くなりすぎずにエンタメとして昇華される形になっていると思う。そういう意味で音楽の持つポップさというものは、メッセージを伝えるべき時に結構有効なのかもしれない。音から入る時は、直感や感情としての好き嫌いで判断されやすい。だからこそ、できる限りの嫌い条件を排除できるようにし、その後に歌詞の伝えたい世界観に引き込んでいく。音楽に歌詞を乗せるという行為は、歌の持つ力を乗せるわけだから、音楽だけで伝えきれないことを伝えたい時には、絶対に外させない。だからこそ、楽曲に多くを詰め込むのではなく、歌の力や歌詞に託せる余白を作る。そのバランスは、絶妙なところを狙わないと、本当に伝えたいことが薄れてしまう。ただ、そこはエンタメなので、万人にウケるわけではないし、違う受け取り方をする人も多いだろう。そのため、バランスを取るための計算は緻密であるはずだ。

この楽曲がどこまでその計算がされたかは定かでないが、GLAYで歌うことを想定して書いたわけではないだろうから、ある意味で、それをGLAYにできるTERUが、メンバーがすごい。
セルフカバーのすごさは、他の楽曲でも確認することができる。

●冬のエトランジェ

●一色

GLAYさんよ、あなたたちは本当に魅力の宝庫だな。

#GLAY #見つめていたい #セルフカバー #どんな曲もGLAYになる  

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