通勤note#13 現実に蓋をすること

①起
仕事ができない時代があった。まあ過去形のような言い方をして今もぜんぜんダメダメで上司に怒られているが、よっぽどマシになった、と個人的には思っている。ある程度の業務に慣れたとか上の人の思考に慣れたとか、いやそもそも仕事をする際の思考に慣れてきたとか色々な要素はあるだろうが。
まあ少なくとも日々、何かしら自分で努力をしている実感がある。仕事ができなかった時はダメな部分を改善しようとか、そういう姿勢すら無かった。"そこから考えれば" かなり自分は良くなったのかもしれない。

②承
そもそも人としてのレベルが低いと思われるかもしれないが、事実、僕は意識レベルが非常に低い人間だ。自分で努力をして「勉強」しているだけである程度の満足感を得てしまうからだ。それこそ、一日30分の読書をしたとか、ゲームをして通勤時間を潰さなかった!自分えらい!という具合だ。
まあ目標を達成することそれ自体は一時的な達成感に過ぎず、努力をして目標に「向かう」ことが一番の幸せだとする幸福の定義もけっこうな記事で見るので、そう思っていること自体は正しいかもしれないが。そもそも人間としての意識レベルが高くないことは確かである。

③転
そもそも自身がそんな人間であるので以下のようなことを語ること自体が大変恐縮だが、個人的に何かしらにおいて「レベルが低い」人というのは「現実に即して行動していない」人だと思う。僕が仕事ができなかった時代にも同じだった。このままではヤバい、と思いながら何もしなかった。「現実に蓋をして」「対応策を取らない」ことでどれだけ周りから取り残されるか、得られた結果から少しは学んだつもりだ。
例をあげると、世間の非モテ男子や結婚したくてもできない高望み女子を見ているとそう感じることがある。異性への理想は天より高く、一方で自身の努力はやれヨガに通ってるとかやれスーツを新調しただの、現実に蓋をしまくった行動ばかりである。
※正直、モテなどはある意味ターゲットが明確なので、相手なりその類型に意見を聞いてその通りに行動すればある程度のマーケット・フィットを実現しやすい分野だと思う。それなのに、だ。

④結
自分が仕事ができなかった時は動画に逃げた。仕事から帰るとYouTubeを四六時中再生し、視覚的情報を流し続けることで「暇な」時間を埋めた。仕事の復習なり自分で何かの勉強をするなり何でもいい、何かせねば一生浮かばれない、という現状を見ずに"行動"を忌避した例である。どうも僕はこういう現実逃避をしやすい性格のようである。ずっと動画を見て時間を潰すのは脳が楽で、自分自身に負担がかからない分成長もない。こうして沈んでいったというわけ。まあ分かりやすい構図だ。
いま、流し見の無思考から相応に解放された中で過去の自分のような人を時たま見る。ずっとゲームをポチポチやっているだけの人、動画を流し見て通勤時間を一時間潰す人、インスタをスクロールしながらいいねを押して暇を持て余す人など。タイプはそれぞれだが、何らかのストレスを現実に抱えているのだろうかと思いを馳せることがある。そして通勤時間をひたすらツイッターに費やしたりしている自分にも気づく。脳を使ったり考える機会が多いような気はするが、彼らと何が違うのだろうとも考えて分からなくなってしまうのである。

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