通勤note#12 "結果論"をどう捉えるのか

キュウです!

①起
一昨日、Twitterを始めて2年経った。2年などあっという間だが、こうして日々の感情や出来事を綴っておけるのは日記的な意味で非常にありがたい。始めた時は情報収集用のアカウントとして本垢のサブとして使い始めた「キュウ」だが、今や本垢は開いておらず(消えてる可能性すらある)、今や懐かしいmixiのアカウントのように、存在しているのかいないのか分からないレベルである。それだけこのキュウのアカウントは自身にとって重要なものとなった。今後も大切にしていきたい。

②承
思えばこのアカウントでたくさんのことを学んできた。この(Twitterという)世界で起きている様々なことを、僕は当初非常に新鮮なものとして享受した。このツイートで『知的複眼思考法』という本を紹介し要約を試みた。ここで述べられているように、まあ、何でもかんでも「新しいこと」にのめり込んで氾濫する情報を全て鵜呑みにすることは知的な態度とは言えない。僕はいろいろと首を突っ込んでいろいろなことを学び、いろいろな考え方をある程度客観的に見られるようになった。そのことだけを見ても、Twitterの効用というものは素晴らしいものだと思っている。

③転
さて上に述べたようにいろいろなことに首を突っ込んだ僕だが、最近思わされるのは、完璧な人間などいないという事だ(今さら?と思うかもしれないが)。凄そうなことを言っていてたくさんのありがたいツイートを発信していてフォロワーがたくさんいる人だろうがそうでなかろうが、その人の言うことを丸ごと信じたりしてはいけないし、況や会ったこともない人間への盲信をや、である。まあ中身のない綺麗事を述べている人は置いておいて、例えばある種の権威を持った人を見てみよう。変な話だが、そういった人達の経歴も、言ってしまえば結果論である。〇〇年にドコドコに転職、✕✕年にナニナニを立ち上げた、等も最初から今の権威あるポジションを描いて歩んだ道か?と考えると甚だ疑問である。

④結
別に偉い人を批判したいわけではない。そういう"偉い人"が歩んだ道を辿ったってそのポジションにありつけるわけではない、と最近思うのである(これも当たり前だが)。いつだって時代は移り変わる。その中でたまたまその道を歩くことで海流に乗ってプランクトンの多い海域に運ばれることもあれば、死のレッドオーシャンに辿り着いてしまうことだってあると思うのだ。何が言いたいかと言うと、その人の外側に見える部分(出した結果、成し遂げたもの、辿ったルート)をなぞるだけの人生はあまりに思考が軽いということだ。だからこそ僕は人の思考の元となった経験や体験を大事にしたいし、聞くようにしたい。方法論やハウツーも大事だけども、そう考えるに至った経緯こそがその人の本質だと思うからだ。

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