通勤note#19 本気で…なら

最近、自分の成長の停滞を感じている。
働き始めて何年も経ち、ある程度の下働き仕事はできるようになった。組織・集団で求められる水準かと言うとその判断は他人に譲るが、基本的には、最低ラインはクリアしているのではないかと思っている。
ある意味、ここまではボーナスステージだった。できないことが当たり前で、できれば点数が貰え、自身も成長実感を得られて嬉しいものだった。そのボーナスステージを超えると、途端に「僕は何をやってるんだろう期」に入る。他人よりもそれに気づくの遅くないか?というツッコミはしても無駄なので省く。

さて、上記のようなステージに至ると、当然ながら自身で目標管理をしていく必要が出てくる。(イメージで語って申し訳ないが)金融業界のように会社から「次はこの資格だ」と与え続けられるような職にもないので、常に自分で「次はコレ!」とニンジンをぶら下げ続ける必要があるのだ。
そして、当然ながら目標に至るための道筋も自身で描く必要もある。

ところで、Twitterにはすごい人達がたくさんいる。大半は元々恵まれた人達だと思っているが、中には本気で努力を続けてキラキラしたポジションを獲得した人もけっこういる(と思う)。たまにそういう人達が、例えば質問箱に答えている場面に遭遇する。どうやってそのキラキラの基を掴んだのですか、という質問が多い気がする。
当然ながら答えは「努力です」というものが美しい。中には「道を歩いてたらリンゴが落ちてました」を「道を歩いてたから、リンゴを見つけられたのだ」と脳内変換して自己肯定に浸っているアカウントもたくさんいるが。

いつも思うのだが、そういうアカウントがよく口にする言葉として「本気で…なら…できるはず」「本気じゃないから…できていないんだろ」とかいうものがあり、このような口を叩くのはいつも、口だけの人間か、運が良かっただけの人間である。
認知が歪んでいる部分もあるが、たしかに「歩いたからこそリンゴを見つけられた」のであるからして、後者は一先ず放念するものとする(生まれたら骨格的に優れていて…というのも、歩いてすらいないが、まあこれに含む)。

問題は前者の「実践を踏まえない理論ばかりの頭でっかち」だ。たしかにこの論法は一見正しいように見えるのだが、実際には本気でその人の言うことを実践した場合のコストの高さに全くもって無頓着なのだ。詳しい説明を始めると長くなるので省くが、その場面に出くわすと分かって貰えるものと思う。

ちなみに一番ひどいのは「話題のすり替え」だ。憧れのバットを買って欲しいとせがむ野球少年に親が「メジャーリーグを目指すのか?アメリカに行かないだろ?ほら、お前は本気じゃない。そこまで高いバットは要らないんだよ」というようなものだ。ムチャクチャな話だが、世の中、こういう論法を駆使して正しいことを言った気になって悦に浸る人間が多くいる。
こういう人間は正しても無駄なので(そうやって生きてきているので、直らない)、無視するか表面上は同意してやりすごし、後から結果で黙らせるしかない。

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