西鉄ライオンズの「貴公子」こと玉造陽二さん

宮本球優人です。
野球についてコラムを書いています。

宮本球優人はペンネームですが、「優人」は、読売ジャイアンツの秋広優人選手、千葉ロッテマリーンズの投手・木村優人選手から取っています。
「球優人」は「きゅうと」と読み、千葉ロッテの上田希由翔選手の「きゅうと」から取っています。

この度、文春オンラインさんで、私が書いた文章が掲載されました。
テーマは、1950年代の西鉄ライオンズ黄金時代に「野武士軍団」に所属した外野手・玉造陽二さんです。

玉造陽二さんに興味を持った方に、字数の関係で書けなかった内容を含め、完全版でお届けします。
(なお、「仮想インタビュー」部分はカットしてあります)
(文中は一部、敬称略です)



”LIONS LEGEND GAME 2024”に姿を見せなかった「西鉄ライオンズOB」


埼玉西武ライオンズは昨年2023年11月26日で、西鉄クリッパーズの創立から数えて75周年を迎えた。

今年3月、ライオンズの本拠地・ベルーナドームで”LIONS LEGEND GAME 2024”が開催された。
ライオンズが所沢に本拠地を移して45周年を迎えた2023年シーズンを締めくくりとして開催された、ライオンズ初のOB戦である。

出場したメンバーには両チームの監督を務めた東尾修、田淵幸一を筆頭に、1980年代以降の西武ライオンズの黄金時代を築いた選手たちも多数、含まれていた。

東尾修監督と田淵幸一監督の投打対決、そして乱闘未遂で場内の爆笑を誘い、御年80歳の土井正博は現役当時と変わらぬバッティングフォームで、ライトに流し打ちを決めるなど、ライオンズファンのみならず、オールド野球ファンにも堪らない1日だった。



今回、"LIONS LEGEND GAME2024"は、土井正博、東尾修といった、西鉄ライオンズ時代に入団した選手も出場したが、基本は「西武ライオンズ」に入団したOB選手のイベントだった。


2008年・2012年の"ライオンズ・クラシック"のエグゼクティブアドバイザーを務めた豊田泰光



西武ライオンズの所沢移転から30年が経過した2008年に、埼玉西武ライオンズが「ライオンズ・クラシック」を決め、実施された。

レギュラーシーズンの公式戦でライオンズの選手が、西鉄ライオンズの復刻版ユニフォームを着用してプレーするのはもちろんのこと、西鉄ライオンズ時代の日本シリーズ3連覇や、その原動力となった稲尾和久さんの活躍を含め、福岡時代のライオンズの歴史を紹介するものとなった。

エグゼクティブ・アドバイザーを務めたのは豊田泰光さんで、その初戦となった同年6月28日の対千葉ロッテマリーンズ戦では、西鉄時代のユニフォーム姿で始球式のマウンドを務めた。
試合後は豊田さんは、

「この風景を(前年亡くなった)稲尾に見せたかった」

と語った。

また、「ライオンズ・クラシック」が終了した際に豊田さんは場内の観客に向かって、

「こんなにうれしい日々はなかった。これから西武を応援していきます」

とあいさつした。

その後、2012年の「ライオンズ・クラシック」では、ライオンズの全選手が稲尾和久さんの永久欠番「24」をつけてプレーした試合の開始前に、背広姿の豊田さんが挨拶に立った。





その豊田さんも2016年8月14日、81歳で逝去された。

西鉄ライオンズ「野武士軍団」で唯一ご存命のメンバー


2023年5月11日、西鉄ライオンズ一筋でプレーした「怪童」中西太さんが逝去された。
中西太さんといえば、現役時代は「弾丸ライナー」で1950年代のライオンズ「野武士軍団」の一員、「流線型打線」の中心打者として活躍し、引退後は数々の球団をコーチ、監督として渡り歩き、いまに連なる名打者たちを育成した名伯楽でもあった。

1950年創設の西鉄の初期のメンバーは鉄腕・稲尾和久さんを始め、「流線型打線」を形成した大下弘さん、仰木彬さん、豊田泰光さん、関口清治さん、高倉照幸さんなど、中西さんより前に相次いで鬼籍に入られたことになる。

しかし、1950年代の西鉄ライオンズ日本シリーズ3連覇の主力メンバーで唯一、ご存命の方がおられるのである。

ライオンズで、「清原和博」の次に長くレギュラーを張った選手は?



ライオンズで高卒1年目からシーズン100試合以上の出場をもっとも長く続けた選手は誰だろうか?

答えは清原和博で13年連続である。

では、ライオンズの高卒2年目から12年連続でシーズン100試合以上に出場したのは、誰だろうか?

ライオンズ生え抜きで初の2000安打達成の栗山巧か?
それとも、栗山の同級生で、清原をしのぐ471本塁打を放っている中村剛也か?
オールドファンであれば、西鉄時代の中西太か、豊田泰光か、はたまた、高倉照幸あたりだろうか?と想像が膨らむかもしれない。

答えは玉造陽二である。

玉造陽二は1955年、高卒で西鉄ライオンズに入団、名将・三原脩率いる「野武士軍団」こと西鉄ライオンズで日本シリーズ3連覇を含むリーグ優勝4回を経験した。

ライオンズ一筋で記録した通算1645試合は1994年に石毛宏典に抜かれるまで27年に渡ってチーム歴代1位で目下、歴代5位、通算1282安打は、地元・水戸の先輩でもある豊田泰光をわずかに上回り、チーム歴代10位、さらに通算盗塁数158個は、現役の源田壮亮に抜かれたがチーム歴代11位である。

しかし、1967年(昭和35年)のシーズンオフに、31歳の若さで現役を引退した。
その後、玉造は野球界から遠ざかっていたが、2010年の開幕シリーズ第3戦、始球式のゲストとして元気な姿を見せた。





西鉄ライオンズという個性の強い「野武士軍団」の中で、玉造は「脇役」の印象だが、現役時代は博多っ子から「貴公子」という綽名がつけられるほどだった。

しかし、一方で、NPB史上4人しかいないサヨナラ・ランニングホームラン、パ・リーグ3位の786打席連続無併殺打、日本シリーズ史上最多となる1試合3盗塁、・・・
通算158盗塁で盗塁死122個と、通算150盗塁以上で最低となる盗塁成功率56.4%という謎の多い選手だ。

西鉄ライオンズ「野武士軍団」最後の玉造陽二はどんな選手だったのか足跡をたどってみよう。

「一球入魂」を生んだ水戸第一高校の玉造陽二、甲子園出場でスカウトが注目



玉造陽二は1936年8月17日、茨城県水戸市に生まれた。

玉造は茨城県下の進学校、水戸第一高等学校に進み、硬式野球部に入部した。
水戸第一高校はいわゆる「ナンバースクール」であり、現在でも東京大学への合格者数は毎年、二桁を超える。

一方で1929年に同校初の甲子園出場を果たす古豪であった。
「学生野球の父」と言われる、早稲田大学野球部監督の飛田穂洲らを輩出している。あまりにも有名な「一球入魂」は飛田の言葉である。
同校のキャンパスの一角には、飛田の銅像が建てられている。

https://www.sankei.com/article/20150830-6NYI3VJBGJMF3AMKIGOJYXAIJE/


玉造が高校3年生の夏、1954年に水戸第一は、外野手の玉造と右腕エースの橋本政雄を擁し、24年ぶり3度目となる夏の甲子園大会進出を果たしたが、初戦、中京商の中山俊丈(のちの中日ドラゴンズ)の前に、0-3で敗れ、玉造の夏は終わった。

玉造の母校・水戸第一からは早稲田大学に進む者が多かったが、玉造は慶應義塾大学を志望していた。ところが、玉造の運命を変える人物が現れる。

実業家上がりの名物スカウト・宇高勲


1954年、西鉄ライオンズは1950年の球団創設からわずか4年でリーグ優勝を遂げた。
この躍進の影には高卒新人たち、中西太、豊田泰光、仰木彬らの活躍が大きかった。

ライオンズの在京スカウトの宇高勲は、自動車部品工場を手掛ける宇高産業を成功させ、戦後、職業野球チームの経営に乗り出し、1947年に国民リーグを設立、会長となる傍ら、自らも「宇高レッドソックス」を設立したという変わり種だ。
1949年になると自社の宇高産業を整理し、西日本パイレーツの専任スカウトとして就任したが、1950年、パイレーツは西鉄ライオンズと球団合併し、宇高も西鉄と移り、関東地区のスカウトを担当するようになった。

ビジネスマンの宇高は、有力選手の引き抜きを得意とした。
最大の功績は、東映フライヤーズの人気者、大下弘が球団ともめるのを知るや、フロントの中島国彦と共に尽力し、大下のライオンズ移籍を実現させたことだろう。

宇高は、茨城県立水戸商業で甲子園に出場した豊田泰光を1952年のオフに入団させ、豊田は翌1953年、高卒1年目から27本塁打という当時の新人最多記録をつくった。
今度は、豊田と同じ茨城から甲子園に出場した水戸第一の玉造とチームメートだったエースの橋本の二人を同時に入団させたのである。

高卒新人で開幕一軍ベンチ入り、高卒2年目で打率.297



三原脩監督率いる西鉄ライオンズの1955年の開幕戦は平和台球場でトンボユニオンズとの一戦であったが、玉造は開幕一軍入りを決め、早くも代打でプロ初出場を果たした。
当時のライオンズの外野陣は大下弘、関口清治、高倉照幸がひしめき合っていたが、玉造は結局、この年は71試合に出場し、打率.225、ホームラン0、6盗塁という記録を残した。
特筆すべきは出塁率の高さ(.368)と三振の少なさ(89打席で10個)だった。

ライオンズは90勝を挙げながら、首位・南海ホークスに9ゲーム差をつけられ、リーグ2位に終わった。

翌1956年、プロ2年目を迎えた玉造は4月3日、地元、茨城県営堀原公園野球場での高橋ユニオンズ戦に、「7番・ライト」でシーズン初の先発出場をすると、高橋先発の伊藤四郎から打点を挙げて、勝利に貢献した。

玉造は5月以降、打順一番に定着すると、アベレージヒッターとして頭角を現した。
9月2日には、川崎球場での高橋ユニオンズ戦に一番・センターで先発出場し、先頭打者本塁打でプロ初本塁打を記録するなど、シーズン終盤まで打率3割をキープした。

ライオンズは10月6日、後楽園球場で阪急ブレーブスを下し、2年ぶり2度目のリーグ優勝を決めた。
玉造はこの試合でスタメンを外れたが最後は大下弘に代わってライトの守備につき、グラウンドで歓喜の瞬間を迎えた。

玉造はプロ2年目のシーズン、結局、136試合に出場し、390打数116安打、打率.297、33打点、1本塁打、18盗塁という成績を残した。

ただ、惜しかったのは、玉造は「規定打数」にあと10不足していたため、打率ランキング入りを逃したことだ。
NPBでは当時、打率部門のランキング入りの条件が「規定打数」で400打数であった。このため、玉造はパ・リーグで5位相当の打率であったにもかかわらずランキング入りを逃したのである。

この年、パ・リーグで規定打数をクリアして打率3割を超えたのはは、首位打者で同郷の先輩である豊田泰光(.3251)、中西太(.3247)、山内和弘(.304)、そして杉山光平(.303)の4人しかいない。
玉造の打率.297はそれに次ぐ高打率というわけだ。

このことを知った三原脩監督がパ・リーグの連盟に抗議したことによって、翌シーズンから打率ランキング入りの条件が「規定打席数」(132試合×3.1=409打席)に変更になったというエピソードがある。

いずれにせよ、高卒のプロ2年目で打率3割近くを打つというのはいまも昔もそう容易いことではない。
1970年以降、高卒新人で打率3割を超えたのは清原和博だけで、高卒3年目以内に広げても打率3割をマークしたのは、掛布雅之、清原正博、立浪和義、前田智徳、イチロー、城島健司、坂本勇人のたった7人しかいないのである。

プロ入りから786打席連続「併殺打ゼロ」



さらに驚くべきは、玉造が136試合で443打席に立ち、併殺打がゼロだったことだ。
しかも、玉造はプロ入り以来、532打席で併殺打無し。
1998年に、阪神の坪井智哉が新人ながらリーグ2位となる打率.327をマークし、かつ規定打席に到達した新人選手として初の併殺打0を記録したが、このときは455打席である。

その後、2019年に阪神の新人・近本光司が開幕から併殺打無しを続けていたが、129試合目の第1打席、578打席目で併殺打を記録してしまった。シーズン残りはこの試合を含めて14試合というところで、記録が止まった。

坪井も近本も大卒・社会人からの入団だが、玉造はこのとき高卒2年目の20歳である。

結局、玉造は高卒3年目となる1957年のシーズン終盤まで併殺打無しを続け、10月8日、ついに「連続打席無併殺打」が「786」でストップしたが、これは当時のパ・リーグ記録となった。

後に、東映の毒島章一が1961年4月22日から1962年8月1日まで、900打席連続無併殺という記録をつくり、阪神の金本知憲が2000年5月12日から2001年9月28日まで1002打席連続無併殺というNPB記録をつくり、日本ハムの田中賢介の862打席ため、玉造はNPB史上4位となった。

玉造は1961年にもシーズン129試合、108安打、打率.260、4本塁打、35打点、17盗塁
で、シーズンを通して併殺打無しを記録した。
「シーズン規定打席に到達して併殺打無し」はNPBでもこれまで12人しかいない。

無併殺記録の上位の打者全員に共通するのは「左打ち」であるという点だ。
ただ、坪井は新人のシーズン最高打率、近本も新人で最多安打というタイトルを獲得し、毒島は通算三塁打数歴代2位、金本に至っては、空前絶後の連続試合フルイニング出場1492試合、通算476本塁打、通算2539安打という球史に残る大打者である。
一方で、玉造は2年目こそ打率3割近くを打ったが、その後、規定打席に達したシーズンで打率がパ・リーグ10位以内に入ったことはない。
玉造が坪井や近本のようにバットコントロールが優れていれば、打率ももっと高かったであろう。

毒島が連続打席無併殺記録をつくったときは、11三塁打、27盗塁という俊足であったし、金本が記録更新したときも、2000年に「トリプルスリー」を達成するくらい足も速かった。

だが、玉造は俊足だったかもしれないが、盗塁はあまりうまくなかったようだ。
プロ入りから最初の3年で盗塁企図数は65回あるが、成功は36回しかない。
通算でも280回、企図して、成功は158回。盗塁成功率は56.4%。
これは通算150盗塁以上を記録している選手のなかではワーストである。

玉造は俊足で併殺打はめったに打たないが、盗塁はあまりうまくない。
なんともつかみどころのない選手である。
「伏兵」というか「曲者」である。

NPB史上4人しかいない「サヨナラランニングホームラン」、杉浦忠から5本のホームラン



玉造の「曲者」ぶりを想像させる記録は他にもある。

1957年4月7日、平和台球場で行われた西鉄対阪急ブレーブス、4-4で迎えた9回裏、玉造は先頭打者として阪急の米田哲也投手と対戦した。
レフトに流し打ちを決め、打球がフェンスに当たって転々とした。
阪急のレフトはかつては俊足で通算187盗塁を記録した藤井道夫だったが、35歳の藤井が跳ね返った打球を追いかける間に、21歳の玉造は三塁を蹴って、本塁を懸け抜けた。
サヨナラ・ランニング・ホームランである。
これはNPB史上3人目で、その後は松永浩美が1984年9月16日に達成しているが、現在でも4人しかいない。

そして、玉造は13年間のプロ生活で、シーズン最多のホームランは7本で、通算でも39本塁打しか放っていない。
だが、南海ホークスの下手投げ大エース、杉浦忠にめっぽう強く、39本のうち、杉浦から放ったホームランが5本もある。
通算287勝の杉浦はプロ生活で打たれたホームランは195本、打者49人に一人しか打たれていないにもかかわらず、139打席に1本しかホームランを打っていない玉造に5本も打たれている。

前述の通り、玉造は、「野武士軍団」と呼ばれた豪傑揃いの西鉄ライオンズにあって、いつしか博多っ子たちからはそのルックスから「貴公子」と呼ばれるようになったという。
だが、見た目は「貴公子」でも、プレースタイルは泥臭かったのだろう。

そして、「曲者の貴公子」である玉造陽二の真骨頂は日本シリーズという大舞台で発揮される。

1956年の日本シリーズ~「巌流島の決闘」で全試合リードオフマンで出場



1956年は西鉄ライオンズにとって2年ぶり、2度目の日本シリーズ進出であったが、三原脩監督にとって宿敵となる水原茂監督率いる読売ジャイアンツということで、「巌流島の決闘」と擬せられた。

玉造は第1戦から第6戦まですべて「1番・センター」で先発起用された。
初戦でシリーズ初安打を記録したが、チームは1勝1敗。
本拠地・平和台球場に還って迎えた第3戦、玉造は躍動した。
セ・リーグ勝率1位、防御率2位の巨人先発の堀内庄から3打数3安打、しかも、捕手の広田順、藤尾茂から3盗塁を決めたのである。
これは日本シリーズ1試合最多盗塁記録であり、その後67年間、破られていない。

この第3戦の勝利を契機に流れが変わったのか、ライオンズが第4戦も勝利して日本一へ王手を懸けた。

ライオンズが3勝2敗で迎えた第6戦、初回、玉造は先頭打者として内野安打で出塁すると先制のホームを踏み、このシリーズは第1戦からリリーフで5連投していた先発・稲尾和久を援護した。
結局、稲尾が最後まで一人で投げ切り先発完投を果たして、三原ライオンズが宿敵・巨人を4勝2敗で倒し、ライオンズ悲願のシリーズ初優勝に導いた。

玉造は高卒2年目の初出場となった日本シリーズ6試合で21打数7安打、1打点、打率.333をマークした。特に地元・平和台では15打数6安打、打率.400であった。

1957年、ライオンズ2連覇も、成績は急降下



玉造はプロ3年目の1957年(昭和52年)、開幕直後にサヨナラランニングホームランを放つなど、印象的なプレーも見せたものの、高倉照幸にレフトのレギュラーを奪われるようになった。
シーズンが終わってみれば、117試合の出場で59安打、打率.236と急降下した。

1957年のライオンズは、稲尾和久の20連勝と「流線型打線」でパ・リーグ2連覇を果たした。
日本シリーズは水原巨人との再戦となったが、玉造は代打・守備固めでの出場が続き、後楽園球場での第4戦に「1番・センター」で先発出場したが、4打数ノーヒット(1四球)に終わった。
ライオンズは引き分けを挟んで巨人に4連勝で2連覇を果たすが、その瞬間を玉造はベンチで迎え、このシリーズは9打数1安打、打率.111。
ライオンズの2連覇の歓喜と喧騒をよそに玉造にとって寂しいシーズンの終わりとなった。

1958年の日本シリーズ「奇跡の大逆転」で3連覇の瞬間をグラウンドで迎える



1958年(昭和33年)のシーズンも、玉造は高倉との併用が増え、136試合に出場して、84安打、3年連続二桁盗塁をマークしたものの、打率.251、本塁打0という成績に終わった。
ライオンズは前半は首位・南海に11ゲーム差をつけられ3位で折り返したが、9月に破竹の13連勝で南海をかわし、パ・リーグ初の3連覇を果たしたのである。

日本シリーズは3年連続で西鉄・巨人の対戦となり、ライオンズが3連敗を喫して、ジャイアンツが王手を懸けた。
だが、その後、ライオンズが稲尾の4連投で4連勝して逆転の日本一、3連覇を成し遂げた。

後楽園球場で始まった第1戦、玉造は「1番・センター」で先発出場したが、2打数ノーヒット(2四球)に終わり、その後、スタメンのチャンスはなく、ライオンズは3連敗でカド番を迎えてしまった。
平和台球場に還った第4戦で「2番・レフト」で先発するも2打席ノーヒット。
チームが稲尾和久の好投で一矢を報いて臨んだ第5戦は「2番・ライト」で先発出場したが、1回表の守備で、与那嶺要のホームラン性の当たりを追って、ライトフェンスの金網に激突、指を痛めてしまうアクシデントに見舞われた。

翌々日、再び後楽園球場に移動して迎えた第6戦、優勝が決まる大事な試合で、玉造は当初、先発メンバー入りしながら、指のケガが原因で先発を外れた(8回裏にライトの守備で途中出場)が、チームは3連勝で、3勝3敗に追いつき、「逆王手」を懸けた。
翌日、大逆転の日本一を懸けた第7戦も玉造は当初、先発を外れたが、2回裏からライトの守備で途中出場、稲尾が2試合連続完投でライオンズが6-1で逃げ切り、3連敗からの4連勝を遂げた。
玉造は9打数ノーヒット(2四球)、5三振と振るわなかったが、日本シリーズ3度目の出場にして、日本一の瞬間を初めてグラウンドで迎えたのである。

1963年、4度目の日本シリーズで活躍も、日本一を逃す



玉造はその5年後、1963年(昭和38年)の日本シリーズに自身4度目の出場を果たした。
相手は四たび、ジャイアンツである。
玉造は全7試合、1番・2番打者としてレフトで先発、フルイニング出場し、第2戦での1試合3安打を含む、29打数9安打、打率.310という成績を残した。

だが、玉造の活躍にもかかわらず、ライオンズはジャイアンツとの4度目の対戦で初めて日本一を逃し、これが最後のシリーズ出場となった。

通算1282安打、31歳で引退



玉造は1964年(昭和29年)、プロ野球史上53人目となる通算1000安打を達成した。西鉄ライオンズ生え抜きとしては中西太、豊田泰光、高倉照幸に次ぐ4人目の快挙である。
しかし、プロ13年目の1967年、117試合に出場し、70安打を放っていたが、オフに電撃的に現役を引退した。まだ31歳だった。

一説には、西鉄の球団経営の窮状が影響し、他球団への移籍を打診されたが断ったといわれている。
その後、玉造は野球の世界からは身を引き、実業家となった。

「西鉄ライオンズ」の終焉


西鉄ライオンズは1959年に三原脩が監督を辞任、大下弘が現役引退、1961年オフに選手兼任監督の中西太、選手兼任助監督の豊田泰光、選手兼任投手コーチの稲尾和久が首脳陣となったが、1962年オフには豊田が国鉄スワローズに移籍した。

1963年には、南海ホークスに最大14.5ゲーム差をつけられながら大逆転優勝を果たしたものの、日本シリーズでは巨人に3勝4敗で敗れた。

そして玉造が引退を決めた1967年シーズンは、西鉄最後のAクラス(2位)となった。

そして、玉造が引退して2年後、1969年に「黒い霧」事件の激震が走るのである。オフに長く西鉄を支えた中西太も選手を引退、監督も辞任し、エース・稲尾和久も引退した。
1972年オフ、西鉄はライオンズを売却、太平洋クラブライオンズとなり、「西鉄ライオンズ」の歴史に幕を下ろした。

そこから1978年オフに博多を去るまでライオンズは、Aクラスは1975年シーズンの3位のみで、親会社の交代、チーム名の変更と、成績の低迷を繰り返すことになる。

https://2689web.com/ind/1955077.html


通算成績 実働13年
1645試合 5434打席 4873打数 574得点  1282安打 
二塁打192  三塁打47 39本塁打  1685塁打  367打点
158盗塁(122盗塁死)
犠打77 犠飛24 四球442(うち敬遠13) 死球18 664三振
併殺打44  失策 43
打率.263 出塁率.325 長打率.346 OPS.671

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