【訃報】宅和本司さん(南海・近鉄)/高卒新人シーズン最多勝利記録、史上最年少「投手3冠」

南海ホークス・近鉄バファローに在籍した宅和本司さんが8月4日、89歳で亡くなった。


宅和本司、南海ホークスに入団、同期に皆川睦男、野村克也

宅和本司は1935年7月18日、福岡県北九州市門司に生まれた。
地元の福岡県立門司東高校(現在は廃校)の野球部のエース右腕として、3年春に第24回センバツ大会(1952年)に出場予定であったが、学校の不祥事により出場辞退を余儀なくされている。

1953年オフ、鶴岡一人率いる南海ホークスに入団、同期には皆川睦男野村克也らがいた。

高卒新人の宅和本司、驚異的な投球で11連勝、「西鉄キラー」に


宅和は新人で迎えた1954年のシーズン、4月4日、駒沢球場での対東映フライヤーズ戦でプロ初登板・初先発を果たし、6回途中、2失点で抑えたが勝敗はつかなかった。
5月1日、大阪スタジアム(大阪球場)で行われた対毎日オリオンズ戦で3度目の先発登板し、9回を投げ切って、2安打散発の好投でプロ初勝利・初完投・初完封勝利をマークしたことで、以降は先発ローテーションの一角に入った。6月だけで8試合に登板、うち6試合に先発して4試合で完投勝利を挙げ、7連勝と

この年、南海は8月下旬から10月初旬にかけて、18連勝を含む26勝1敗の驚異的なペースで首位の西鉄ライオンズを猛追したが、その原動力となったのが宅和で、宅和は8月16日から10月3日までの登板で、先発とリリーフ併せて11連勝を挙げた。
宅和は特に首位の西鉄から7勝を挙げ、「西鉄キラー」となった。

8月16日、対西鉄ライオンズ戦(平和台球場)では3回裏1死から登板した直後に高倉照幸への初球を暴投した白崎泰夫に代わって、宅和がマウンドに上がり勝利投手となった。

延長戦でノーヒットノーランを逃し、あわや完全試合の好投

さらに8月19日、大阪スタヂアム(大阪球場)での対毎日オリオンズ戦で先発した宅和は9回までノーヒットに抑えたが、味方の援護がなく、延長に突入。延長10回表、2死まで無安打、1四球に抑えてきたが、呉昌征にレフト前安打されてノーヒットノーランを逃した(宅和は10回無失点で降板したが勝ち負けはつかず)。
さらに、同年9月12日、駒沢球場での対東映フライヤーズ戦では8回まで無安打、無四球、パーフェクトに抑えるが、9回裏、先頭の水上静哉に左前にポテンヒットを打たれて完全試合を逃したものの、シーズン19勝目を挙げた。

高卒新人最多の26勝、「昭和生まれ初」の投手タイトル、新人王

南海は宅和の大車輪の活躍もあり、首位・西鉄を追い詰め、10月初めにゲーム差なしで西鉄と並んだものの、直後の4連敗が響き、最後は7連勝でレギュラーシーズンを終えたが、0.5ゲーム差で届かなかった。

10月16日、西宮球場での対阪急ブレーブス戦、3回からマウンドに上がった宅和は7イニングを無失点に抑え、シーズン26勝目を挙げた。
これは新人投手としては1950年の荒巻淳(毎日オリオンズ)の26勝に並び、新人最多記録となった。
その後、同じ南海の同僚で、宅和と同い年の杉浦忠が大卒新人として27勝を挙げて、記録を更新したが、宅和はいまだに高卒新人記録である。

終わってみれば、宅和自身はシーズンでは60試合に登板、うち先発は31試合で、26勝9敗、防御率1.58と、高卒新人ながら最多勝利(近鉄バファローの田中文雄とタイ)、最優秀防御率のタイトルを獲得した。
これは「昭和生まれ」の投手としては初の快挙となった。

また、高卒新人で最多勝はその後、1999年、松坂大輔(西武ライオンズ)まで現れず、現在も宅和と松坂の二人しか達成していない。

さらに、当時、最多奪三振は表彰タイトルには制定されていなかったが、宅和はパ・リーグ最多、当時の新記録となる275奪三振を記録した。この後、新人のリーグ最多奪三振はパ・リーグでは1980年の木田勇(日本ハム)まで現れなかった。


また、パ・リーグの新人王争いは宅和と同じ高卒ルーキーの 梶本隆夫(阪急ブレーブス)との一騎打ちとなったが、宅和がほぼすべての部門で梶本を上回り、宅和に軍配があがった。
梶本は55試合に登板し、20勝12敗、防御率2.73の成績を残しながら、その煽りを受け新人王を受賞できなかった。

なお、ベストナインの投手部門は宅和(26勝9敗、防御率1.58、5完封)ではなく、リーグ優勝した西鉄のエース・西村貞朗(22勝5敗、防御率1.77、8完封)が選出されている。

いまだに史上最年少、高卒新人唯一の「投手三冠」


NPBの歴史で、「投手3冠(最多勝・最優秀防御率・最多奪三振)」を獲得した投手は、宅和が史上6人目で、現在も24度しか達成されていないが、新人で達成したのは宅和が初めてで(その後、1980年に木田勇が達成)、高卒新人で達成したのは現在に至るまで宅和だけである。



「高卒新人がルーキーから2年連続最多勝」は松坂大輔まで現れず


宅和は翌1955年のシーズンも、開幕から6連勝をマークするなど、6月末までに15勝2敗を記録、前半戦のチーム45勝の1/3を稼いだ。
シーズンではチームトップの58試合に登板、先発とリリーフで24勝を挙げて、同僚の中村大成とわずか1勝差で2年連続となるパ・リーグの最多勝のタイトルを獲得、南海のリーグ優勝に貢献した。
南海はこの年、99勝41敗、勝率で、NPB史上、1シーズンでのチーム最多勝利を挙げている。

その後、新人から2年連続で最多勝のタイトルを獲得したのは、1992年・1993年の野茂英雄(近鉄バファローズ)、高卒新人に限ると、やはり、1999年・2000年・2001年の松坂大輔だけである。

これだけの活躍にもかかわらず、MVPは同僚の野手、飯田徳治(打率.310、14本塁打、75打点)にさらわれた。

初の日本シリーズで、巨人打線に苦杯、別所毅彦と明暗


1955年、高卒2年目の宅和にとって初の日本シリーズの相手は、読売ジャイアンツ。1949年シーズン開幕前に、南海はエースの別所昭(のちの毅彦)を巨人に引き抜かれ、”因縁”の相手となった。
別所毅彦は巨人でもエースとなり、この年も自身7度目となるシーズン20勝をマーク、23勝8敗、防御率1.33で自身初の最優秀防御率のタイトルを獲得していた。

大阪球場での第1戦、巨人先発は別所、南海先発はチームの勝ち頭である宅和ではなく、ベテランの柚木進との投げ合いになった。
1-1と同点で迎えた8回、宅和は3番手として自身初の日本シリーズのマウンドへ。8回、9回は巨人打線を無失点に抑えたが、10回、4番の川上哲治に手痛い2ランホームランを浴びるなど、3失点。敗戦投手となった。逆に別所は延長10回を一人で投げぬき、1失点完投勝利を挙げた。

後楽園球場での第3戦、宅和は先発マウンドを託され、4回まで無失点に抑えたが、1点リードで迎えた5回に巨人の下位打線につかまり、無死一、二塁のピンチとなったところで無念の交代となった(試合は南海の勝利)。

南海が初戦を落とした後に3連勝で、日本シリーズ制覇に王手を懸けて臨んだ後楽園球場での第5戦、宅和は2度目の先発を任された。
だが、初回につかまり、3番・捕手の藤尾茂に先制の3ランホームランを浴びると、2死から再び、ピンチをつくり、1回もたずに降板。

南海はこの試合から3連敗して初の日本一を逃してしまった。
特に、元同僚の別所毅彦に3敗を喫するという苦い敗戦であった。


3年目に暗転、短命に終わった投手生命で通算56勝

宅和はプロ入り2年で118試合に登板、通算50勝に到達した。

宅和は3年目の1956年、ハワイでの春季キャンプまでは好調であったが、
シーズンに入ると腰を痛めて不調に陥ってしまう。
さらに、8月頃に合宿所で禁止されていた麻雀をやっていることが見つかって、1週間ほど謹慎処分を受ける。
風呂場で転倒して顔を負傷してしまうなどもあり、このシーズンはわずか24試合の登板に留まり、6勝に終わる。
1957年はわずか5試合の登板で防御率8.10、1958年も11試合の登板で未勝利と登板機会が減少していった。代わりに、立教大学から入団した新人右腕・杉浦忠が宅和の持つ新人記録を超える27勝を挙げ、エースの座についた。

1959年、南海は4年ぶりのリーグ優勝を果たした。
杉浦忠がシーズン38勝4敗という、鬼神のような働きであった。
だが、宅和はシーズン終盤まで一軍での登板はなかった。
南海のリーグ優勝が決まった後、宅和は故郷にほど近い小倉市営球場で行われた対西鉄ライオンズ戦にシーズン初となる先発登板を果たしたが、3回を投げて1失点、と「西鉄キラー」のプライドを見せたものの、3年ぶりの敗戦投手となった。

南海にとって巨人との再戦となった日本シリーズはエースの杉浦忠が4連投・4連勝で宿敵ジャイアンツを倒し、鶴岡一人監督にとって自身初の日本シリーズ制覇となった。
だが、宅和は出番がなく終わり、オフに自由契約となった。

宅和は1959年オフに千葉茂監督率いる近鉄バファローに移籍したが、パ・リーグ2年連続で最下位に沈んでいた近鉄でも、リリーフのみの登板であっても精彩を欠き、無勝利のまま1962年オフに現役を引退した。

宅和本司の生涯の投手成績は、実働わずか8年、通算168試合に登板、うち67試合で先発、56勝26敗、防御率2.30。8年のうち、後半の5年は1勝も挙げられない苦しい野球人生となった。

宅和は現役引退後は会社員となり、日本のプロ野球に指導者としてかかわることはなく、関西のテレビ局・毎日放送のプロ野球中継で解説を務めていたが、1990年、台湾に渡り、チャイニーズタイペイ代表チームの投手コーチに就任、その後、台湾プロ野球でコーチ・監督も歴任した。

野村克也が語る、鶴岡一人監督の”酷使”について

宅和の同期である野村克也は自身の著書「プロ野球 最強のエースは誰か?」で、こう述べている。

「私と同時で、私が二軍でくすぶっている間に凄まじい活躍を見せたのが宅和本司である。」
(中略)
「3年目以降は6勝しかしていない。酷使に原因があるのは明らかだ。力のある投手、調子のいい投手はどんどん使うのが当時の野球だったといえ、日本シリーズ4連投4連勝の杉浦忠を筆頭に、鶴岡一人監督がつぶしてしまった投手は多い」

宅和本司本人が語る「鶴岡一人」の人物像


宅和自身は、「酷使」についてどう思っていたのだろうか。

「(鶴岡一人監督は)この人のためならと思わせる、オヤジのような人。わたしは手が小さいから球種が少なく、ストレートとカーブしか投げなかった。シュートは自然にいった。打たれても怒られないが、ここというときのフォアボールは怒られたよ」

「新聞には酷使と書かれた。でも親分(鶴岡一人)が喜んでくれると思ったら、おれはそれで良かった」。

生前、宅和の口から、鶴岡監督への恨み言はなかった。

宅和本司の高卒新人シーズン最多勝利記録の「26勝」は、「名将」の酷使が生んだ「結果」だが、「歴史的事実」であり、「反省」を要するものでもある。

名将という名誉の陰にある、「代償」も忘れてはならない。

宅和本司さん、安らかにお眠りください。



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