言葉を尽くして伝えたつもりだったのに伝わっていなかった、ということがありました。 多くの言葉を使えばいいというものでもないかもしれないけれど、少なくともLINEやTwitterの相手の言葉を私もちゃんと理解できていないことは度々あるんだろう、と思います。
トマト系の料理(パスタ、スープ等)の出来上がってるものを買ったときに しょっぱめのを想像してたら甘かったり すっぱいのを想像してたらしょっぱかったり と、ミスマッチが起こりがちなので 酸味、甘味、塩気のどれが強いのか明記してほしいな、とわがままとは知りつつも常々思っています
高校時代、物理や化学が苦手だったけど、新書の「数字」や「数式」のあまり出てこない物理や化学に触れたらとても面白かった。 私が苦手なのは数字? とも思ったけど、数字が使われていても単純な計算は比較的得意だし、経営シミュレーションゲームは大好きだ。 苦手のくくりは小さくしたい
気がついたら、ずっと好きだったアニメや漫画の主人公の年齢を超えていて、それがなんか気恥ずかしくて学生が主人公になる物語はあんまり見られない。
盲目に頑張れるときが一番楽しい。 本当にこれでいいんだっけ なんでこれをするんだっけ って思い始めると 頑張りにブレーキがかかって 頑張れないことにモヤモヤしてしまう。
季節が変わるたびに、風の温度や匂いでその季節の思い出が断片的に蘇ってくる。 今くらいの温度が過ごしやすいけど、すぐに悲しい気持ちになるから困る。
小さい頃から、隣の芝生を青くて羨ましいと思っていたけど、大人になるにつれて人から 「あなたの芝生も私には青く見える」と言われることが増えて、少しだけ自分の庭に目がいくようになった気がする。
メリハリのない生活になって 自己管理能力の低さを感じています。 時間が決められていて、周りに人がいて、やっと「ちゃんとやらないと」となる一面があるので、 いつでもいい、に自分で期限を作ったり 見られていなくても自分の姿を客観的に見られるようにしないといけないなと感じました。
丁寧に紡がれた言葉も そのままの気持ちが乗った言葉も 両方に良さがあると思っていて 欲を言うなら 自由自在に使いこなしたい。
なんとなく好き を追求することは多かったのですが、 なんとなく嫌 は深く考えることがなかったので、言葉にすることがなかなか難しいです。 でも「なんとなく」にある複雑に絡んだ気持ちを丁寧にほどいていける人になりたいと思っています。
「旅行ってどこ行くかより何するかが大事」 という言葉を聞いて私の優先順位を考えていました。 「どこ行くか」はこだわりたい。 今まで行ったことない場所がいい。 「誰と行くか」もこだわりたい。 一緒にいて安心できて楽しい人と過ごしたい。 反対に人気や手段は、気にならないな。
「今!この瞬間に!この本が読みたい!」 となってしまうことがあるのですが、正直この気持ちに抗えた覚えがありません。 さらに言うと 「これ読んだらやることやる!」 も大抵、読後の余韻に浸りたいからすぐに始めるのはやだなぁと始められません。 本中心の生活です。
違和感のある言葉が好きです。 「カジュアルな場面に最高敬語」のようなちぐはぐさにふふってなるのですが、日常的に言葉遊びをしすぎて変な日本語ばかり使う人だなぁと思われていないか心配になってきました。ぴえん🥺
自分がどんな人間かが知りたいとずっと思ってるけど、生まれてから死ぬまで変わらない性質はないのかもしれないなぁと思い始めています。 結局、わかるのはその瞬間の自分の考えとか感じ方だけ。
なんとなく上手く生きられない時期をいつの間にか通り過ぎたようで、少し活動的になってきました。頭がちゃんと回るだけで嬉しいです。 と、同時に内面を振り返る時間が減っていて、外と内への関心はシーソーのようだと感じます。
文字数少なめの文章を書く機会があったのですが、日頃書く文が1000字近いものだからか、気がついたらそのくらいの長さになっていました。 長すぎたので、最初からやり直し。 短くまとめる練習もしなくてはいけないな、と思う出来事でした。