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紫斑病性腎炎(指定難病)

はじめに

以前の記事でも書いたものですが、小さい頃に患った病気の記憶と記録を残そうと、今回はnoteを使わていただこうかと思った次第です。

紫斑秒性腎炎(指定難病)

小学校1年生のときに紫斑病性腎炎(指定難病)という病気にかかり、2か月の入院を強いられました。
血管から血液が漏れ出し、全身に紫色の点状の皮下出血が出現します。腹痛と極度の倦怠感、高熱、血尿や尿蛋白としての症状が現れます。
入院当初は40度を超える高熱と極度の腹痛によりうなされ、朦朧としていたことを今でも覚えています。
そばにいてくれた母親によると「紫色とピンクの蝶々が飛んでいる・・」と何度も口ずさんでいたそうですから。

命について考えたのかな?7歳の私

入院生活後半は起き上がって、同室・別室に入院している同世代の人たちとも仲良くなり、交流を深めていた記憶もあります。
また、自分の病気は大したことはないのを理解しつつも命を失うことの恐ろしさもこの時期に知りました。
クリスマス直前の小児科は比較的賑わい、病院内も子供たちを元気づけようとしてくれようとしていました。もちろん、当時はこんな客観的な視点は当然ないわけで、今思えばそうだったのだろうという認識なのですが・・・。
違う病室の「じょうじ君」もよくおしゃべりをする仲で、クリスマスに近いある夜、ドクターと一緒に夜の病院内探検をしたことがありました。ドクターに先導してもらいながらでしたが、肝試しのように怖かったことを覚えています。
年が明けてすぐに、「じょうじ君」が亡くなりました。小児白血病だったと聞いています。
死ぬこと、いたはずの人が居なくなること、もう二度と会えないことを実感したとともに、自分も死ぬかもしれないと怖くてたまらなくなったことを覚えています。

退院が近くなってくると、一日中ベッドに寝ていることもなくなり、暇を持て余すほどに回復していた私の待ち人は2人でした。
一人は、コーヒー牛乳、フルーツ牛乳、いちご牛乳を売りにやって来るおばさんです。
毎日飲んで良いと許可が出ていたので、今日はどれにしよう?と毎日楽しみにしていました。
もう一人は、仕事帰りにやってくる母親です。
廊下側にベッドのあった私は、母親が来る時間になると窓から廊下に顔を出して、待っていたようです。

退院後の小学校生活

さて、退院後の生活ですが、熱、食事、睡眠時間、自分の体のむくみなどの調子を記述する等の健康記録を養護教諭の先生との約束で毎日やり続けました。
今思えば、この記録を付け続けたことが「目標設定力」となって自分を励ましたり、高揚させたりする上手な動機づけにつながったのかもしれません。

学習については、繰り上がりのある足し算やひっ算に苦労しました。1繰り上がって・・・10借りてきて・・・意味不明でしたから。

運動面でも苦労しました。小学校5年生まで水泳はもちろん、なわとびや鉄棒、かけっこ等の運動は禁止されていました。

昔は徒歩遠足がほとんどでしたが、歩いて現地に向かうことは許可が下りず、送迎付きで遠足に行っていました。やはり、疎外感というか孤独感はありましたね。

6年生になり、ようやく運動の許可が下りましたが、できないことが多く大変苦労しました。

もともと運動が大好きだった私は走るのも得意でしたし、泳ぐことも1年生当時はレベルの高い方にいました。
しかし、運動を止められていた4年間という期間は思う以上に大きく、「できないこと」が運動意欲を低下させるのみならず、運動以外の様々なことにも消極的になっていきました。

あらゆる方のサポートのおかげで

そんな折にいただいた「あらゆる方々からの継続的なサポート」をきっかけに、できない運動から逃げ出すことは病気に負けるのと同じだと知った私は、できることから頑張ろうと思い、1年生のころ得意だった「かけっこ」からきっかけをつかみます。

積極的に活動するようになった私は中学校、高校はバスケットボールに夢中になりました。

水泳や縄跳びは本当に苦労しました。できないことが恥ずかしい年頃でしたから本当に苦労しました。自分との闘いです。
鉄棒の逆上がりなんてまともにできるようになったのは中学生になってからです。その後、できるようになった鉄棒の後方膝かけ回転。いつのまにかマットでの倒立前転も跳び箱の頭はね跳びもできるようになりました。

「できない子の負い目をわかってあげられる。」という経験から得た自信と「何かひとつ自信をつけさせると、それが必ず広がりを見せる。」という信念、そして理想が、今の私の一部となっているのでしょう。

私にとって、あの病気による様々な経験は無駄でも損でもなかったのです。

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