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noteを始めてみたいと思います。
僕の名前は、中山求一郎です。
なかやまきゅういちろうです。
きゅうちゃん、とよく呼ばれます。
球一郎と、よく誤字変換されます。
凄く球技が好きそうですが、サッカーは好きです。
まずは、プロフィールを載せます。
しかし、プロフィールとは、自己紹介でも何でもなく、ただの経歴なのです。
1992年5月16日生まれ。
埼玉県出身。
映画
『恋人たち』(橋口亮輔監督/15)
『何者』(三浦大輔監督/16)
『少女邂逅』(枝優花監督/17)
『闇金ぐれんたい』(いまおかしんじ監督/18)
『らぶたんコバトン散歩でドン』(堀江貴大監督/18)
『寝ても覚めても』(濱口竜介監督/18)
『止められるか、俺たちを』(白石和彌監督/18)
『つま先だけが恋をした』(猫目はち監督/18)
『ランチボックス』(中神円監督/18)
『映画 賭ケグルイ』(英勉監督/19)
『お嬢ちゃん』(二ノ宮隆太郎監督/19)
『女の機嫌の直し方』(有田駿介監督/19)
『決まった?』(小池匠監督/19)
『エモーショナルレモン ~旅立ちはいつもレモンの味がする、あなたはどんな味がする?~ 』(伊藤智之監督/19)
『シンデレラ地獄へ行く』(大野大輔監督・阪元裕吾監督/19)
『映像研には手を出すな!』(英勉監督/未定)
『騙し絵の牙』(吉田大八監督/未定)
『涙のぶんだけ、うるおして』(前田聖来監督/20)
ドラマ
『プラージュ ~訳ありばかりのシェアハウス』
『監獄のお姫さま』
『サバイバル・ウェディング』
『部活、好きじゃなきゃダメですか?』
『大恋愛~僕を忘れる君と』
『平成物語「なんでもないけど、かけがえのない瞬間」』(松本花奈監督)
『フルーツ宅配便』
『潤一』(北原栄治監督)
『カフカの東京絶望日記』(加藤拓也監督)
『ランウェイ24』(松本花奈監督)
『あなたの番です』
『やめるときも、すこやかなるときも』
『八王子ゾンビーズ』
『パレートの誤算』
『映像研には手を出すな!』
舞台
『貴方なら生き残れるわ』(作・演出・加藤拓也)
『盆栽』(作・小路紘史、演出・倉本朋幸)
『ダニーと紺碧の海』(岡本玲×中山求一郎 自主企画公演)
etc…
―――――――――
さて。初めから暗いかもしれないけれど。
いま、全くやる気がないのはナゼか。
みてもらえないから。みてもらえる保証がないから。ゆっくりひとつのものに向き合ってもらえると思えないから(たとえ時間があろうと)。選択肢が多すぎるから。良いものを放てると思えないから。変われないから。新しいことが思い付かないから。違いが生み出せないから。まだ慣れていないから。新しいこととか置いてかれる置いてかれないのゲームに、うんざりだから。どんどん新しいものが生み出されていて疲れちゃってるから。情報過多だから。どこか、もっとほかのところに本当のことが転がっているような気がするから。どこかにブルーオーシャン?きっかけを奪われたから。ショックを受けているから。空っぽになってしまったから。やる気がなくてもいいでしょ、と思っているから。オンラインでのコミュニケーションに対応出来ていないから。無気力な人=自分のような人達を否定したくないから。みんな、うるさく見えるから。休んでもいいと思っているから。
がちゃがちゃうるさいわ。上を向いて歩こう、愛は勝つ、それが一番大事、WAになって踊ろうって、軍歌ですか。好きな方々、ごめんなさい。僕も、好きな歌です。カラオケで全部歌ったことがある曲。でも、そういうことじゃないのです。
うーん、基本的に他人と環境のせいやな。
自分を救うために何かをやろう。
人との繋がりを取り戻すために、何かをやろう。
諏訪敦彦監督が書いていた。
『映画を作るということは、友だちに電話をすることである』と。
社会との繋がりを取り戻そう。
真っ先に思ったのは藤原季節くん、岡本玲さん、『裏切りの街』の上演中止を一緒に味わった萩原みのりちゃんと、作・演出の三浦大輔さん、そして加藤拓也さんと、何かをやりたいなあということだった。
言ってみるのはタダである。
そして同時には出来ない。
道理としては、みのりちゃんと三浦さんのように、今、同じ想いを最新で共有した方々と、それを埋める、あるいは何かを取り戻す、あるいは消化するために何かをするのが真っ当な気がしていた。
真っ当なこと、というのは、なにかをやりたい人にとっては、必ずしも健全なことではなくて、いや、そんなのは今、解消するべきことじゃないかもしれない。
季節くんとは、境遇が全く違うけど、長年、共有しているものが一緒だと思っていたから。
岡本玲さんは、二人芝居の自主公演を一緒にやった仲間だから。
加藤さんは、何というか、もう、最高に面白いから。
ほかの人たちと、何かをやりたくないということではないです。
声を掛けられることは、本当に嬉しい。
今すぐ考えられないというのと、今はやりたいことと違う気がするものに無理矢理参戦はできないということ。
自分のキャパシティというのを理解しておきたい。
ただ、キャパシティをちょっと超えたもの、自分の想像もつかないものをやらないと。
自粛期間中、あれ見てましたよ、と次に誰かに会ったときに言われるようなものを、本当はやった方が良いのだと思う。
でも、なかなか誰にも声は掛けられなかった。
具体的なビジョンがないから。
流行りには乗らない。というか、乗れない。
どうぶつの森も出来ないぐらいだから。やってみたら面白いんだろうけど。
今はとにかく適応を求められているから、ゆっくり適応する。ちょっとずつ慣れたいと思う。
世の中が、ちょっとずつこの状況を、混乱しながらも受け入れる方向にシフトしていくように感じる。
感染者数をチェックするのは日課だし(これにも色々とからくりがあるけど)、ニュースや、いろいろな報道特集をポイントで見て、言論者の多角的な文章を読んで海外のことにも少し目を向けて(ニュージーランドおめでとう、ニュージーランドの国会のソファがグリーンでお洒落だったわ、首相、素敵でしたわ)、SNSで情報収集をするのが普通になった。
インスタライブなんて、一人では絶対にやらない。ダンジテやらない。誰かにもし仮に誘われたら、やるかもしれない。ちょっとだけ、楽しそう。
いや、今は、戦時中みたいなものでしょ。
だから戦争賛美歌みたいな、何も考えないであっぱらぱーになって前を向きましょう、みたいなコンテンツが乱立してるんだ(しかも、目の届きやすいテレビや、有名人たちがそれを積極的に推し進める)。
違う違う、僕は、非国民と言われようとも、反戦を訴えた木下恵介監督(確か戦争中には、戦争賛美の映画を作れと発注を受けたのだっけ、『陸軍』がそれだけど、反戦のメッセージが密やかに挿入されている)や詩人の金子光晴のようなことをしたいし、それをやるのが、映画演劇に関わる、芸術に関わるものの使命ではなかろうか。
芸術家を気取るつもりはなく、僕が好きな作品とアーティストたちは、そうしているからだ。
エンタテインメントをやりたいのか、何なのか。
芸術とエンタテインメントの両立って難しいね問題は連綿と繰り返されるけど、しっくり来たことがある話は、どちらかひとつ、ということはないのだと。
どちらかに偏っているのだとしたら、それは優れていないというか、何かが欠けているのであると。
誰かが言っていた気がする。
優れたエンタテインメントは必ず芸術的だし、優れた芸術は必ずエンタテインメントとして成立していると。
パッと思い付く限りでは、蜷川幸雄さんと野田秀樹さんの演劇や、黒澤明監督やスピルバーグ、最近ではディズニーピクサーの映画などが浮かぶ。
それを追い求めてはいけないだろうか。
カウンターカルチャーは、いつの世も不謹慎である。
かといって、わざわざ反感を買うようなことをする必要もない。
うーん。
今は、スピードが命だから、でも、そこから外れてしまった人の側にいたい。もっともっと遅いもの。活字の本に書かれているものに、SNSの言説が勝てないのは、本は、推敲が重ねられているからである。
よし。さて、何をやろう。
何かやりたいけど、まだ何もやれてない人。
よかったら、何かやろうぜ。
同じような気持ちの人、いるかな。
何かやろう、って言葉、軽薄な言葉かもしれないけど、軽薄さから出発することだって一杯あるよね。自主公演を一緒にやった岡本さんからも、最初、「何かやろう!」ってラインが届いた訳だし。それも軽薄だとは思わなかった。
いや。
自分を救うための、いかにマイノリティなことをやれるか、そこに自分の中の本当が入っているか。
これだ。ちょっとずつ何かをやろうかなあという気になってきた。
新しく生まれたネットで観るもの、視聴環境にもよるんだろうけど、一個も心からの感動をおぼえたことがない。本当に、一個も。
次の日には忘れる。その瞬間楽しいものが殆ど。
その瞬間を、もっと大きくできないか。
その日一日。その日の夜。数時間。
クーリンチェ少年殺人事件を映画館ではじめて観た日は、凄すぎて、その日一日中、刻まれた。
クーリンチェを作ろうというのではなく、クーリンチェの映画作りの中にあった何かを忘れないでいることが、きっと大事なんだろう。
もっと遅くて、面倒くさくて、即物的じゃなくて、強くなくて、弱くて、スローガンでも啓蒙でも連帯でもなくて、明るくも新しくもない何かが何処かで呼吸していてもいいよね、と信じたい。
だから、僕は、とにかく『菜園』の朗読を始めてみます。
たった一人、何処かの誰かが、聞いてくれることを願って。
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