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僕はこの感情を知っているから大丈夫だ、と時折思う。

いや、大丈夫。

だからあなたもきっと、大丈夫。

僕には大切にしている原風景とそれにまつわる感情が幾つかあって、それが心にある限り、指針にある限り、きっと僕は大丈夫。

いや、そんなの分からない。


目を瞑って、好きな自分を思い出す。
そうすると、ちょっと楽になる。


春になったから、無意識に春の歌を口ずさんでいる。
自然と、口ずさんでいる。
しかし、「はるのうた」って題名の歌が、いっぱい。
おくびもないのが、素直に凄いよなあと思う。
世の中に沢山「はるのうた」があるのにまた「はるのうた」を作る。
それぞれに、春があるからか。




どのサブスクにもない良い映画なんて山ほどある。

あれもない、あれもない、あれもない。
あれもほしい、これもほしい。

あれもある、これもある。





自分を自分であると認めるということは、
まず自分を一人の他者であると見なし、
その他者をさらに自分自身であると見なすことである。
-メランコリーの水脈



快活さ、のようなものを本当は手に入れたかった。
快活な振りをしていたら、やがて快活になる、
と心理学の本に書いてあった。



雨と雷の音に負けずに踊ろう
俺は幸せの国へ行くんだ

何かの映画のエンドロールで流れた歌詞の筈だが、メモして忘れてしまった。


でも運命は変えられる
自分の力で
だから負けないでください

と、サヨナラCOLOR。



病まなきゃやってられるかい?こんな仕事

と、蜷川幸雄さん。



パクセロイならこの局面で何と言うか、という観点で日々過ごしたらきっとつよい。




人の欠点のような
(欠点とされがちな・欠点と規定されがちな)ものを
欠点としてだけ見ないこと。





愛は、優しい。
初恋の人と、結ばれるとは限らない。

ヤスミン・アフマドは、ずっと優しい。




義を見てせざるは勇なきなり




「自分をこの世に必要不可欠の存在であると信じて疑わない人間はみな、人でなし」
と、サルトルも言ってる。






ホバリングが許される時代ではない
と、松本人志さん。




傷の痛みを知らない奴は、他人の傷をあざ笑う。
と、ロミオ。




都会の絵の具。

に、染まらないで帰って?
染まらないで帰ってくれない?



作家の思想が技法を選ばせる。
技法こそ作家の思想の結晶。
と、井上ひさしさん。



科学とは、地球規模の土木工事技術の別名。
と、これまた井上ひさしさん。




酒の味は、
決断の上に突如生まれ出した荒涼たる世界

と、伊丹十三監督。

呑もうと決めた人にしか、
味は分からない。




詩人の中原中也が亡くなった後、友人の詩人、草野心平が書いたという詩が美しいなと思った。



ちょっぴり涙が出た。
僕は追悼文なんて書かないと思う。




中原よ。
地球は冬で寒くて暗い。
ぢゃ。さやうなら。

          草野心平





人のことを舐めない人が、たいてい凄い人。
舐める舐めないとかいう概念がそもそもないフラットな人が、
凄い人。





別れを悲しまなくていいよ
一緒に楽しい時間を過ごし仕事が出来た
それだけで十分じゃないか





優しい人を警戒してしまう
なんでだろうね
いやだね

マティアス&マキシム



偽物は多すぎる。

上のベンチは
「興味ないけど撮ってみるか」と思って撮ったが、
そしたら、見事に微妙な写真になった。




痛い、と言われることが常に恐くない?
でも、そんなことを恐がっていたら、実名出して、こんな風に演技なんてしてないのではなかろうか。



ありったけの熱い言葉をかき集めてもいいよなあ。
痛い、と言われることが怖いなんて、
それなら演技なんて最初からやってないよな。
痛すぎるよな。恐いよなあ。

自分の脳内をさらけ出したり、私生活をさらけ出したりするの、痛いよなあ。ださいよなあ。みっともないよなあ。ばれたくないよなあ。



空席。
空席には誰がやってくるんだろう。
誰もこないかもしれない。

https://youtu.be/mbjoNqMQ20o



いつもこんな気分である。



でも


僕たちは生き残れるわ




具体的にどう書いていたかは忘れてしまったのですが、「一緒にやってみたい俳優はいますか」と問われた蜷川幸雄さんが、それを言った場合、名前のあがっていない俳優がどう思うか、ということを気にして、誰の名前もあげなかったというエピソードが好き。

病的に繊細であれ、と思う。




何年前だろう。
若かったなあ。この頃、花見とか、したなあ。
べつに今も若いけどなあ。





ルイ・アームストロングの「What A Wonderful World」。
1970年版のイントロで、こう語っているらしい。







最近若いやつがよく俺にこう言ってくるんだ

「“この素晴らしき世界”ってどういう意味なんですか?」
「世界中で戦争が行われていますよね?」
「それも素晴らしいっていうんですか?」
「飢饉や環境汚染の問題もありますよね?」
「全然すばらしくなんてないですよ」

落ち着いてこのじいさんの言うことに耳を貸してくれ。

俺には世界がそんなに悪いって思えない
人間が世界にしていることが悪いんだ
俺が言いたいのは、世界にもう少しチャンスを与えれば、
みんなその素晴らしさがわかるってことさ
愛だよ愛。それが秘訣なんだよ。

もしもっとみんながお互いを愛しあったら
沢山の問題なんて解決される
そして世界はとびきり面白くなる

(https://www.udiscovermusic.jp/stories/what-a-wonderful-world-louis-armstrong)






極めて主観的な感傷。


最もらしい言葉にこそ牙を剥け。
偽物を見抜こう。
自分を良く見せようとすんじゃないよ。

人生いつか楽しいことがある?なにを言ってんだ、無いから言ってんだこちとら、だいたいそれを言ってくるあんたを見ていて、全く楽しそうじゃないやい。






はてさて。
2020年。
ある撮影で一ヶ月、東京を離れていた。
その作品に出ている俳優たちが、本当に素晴らしくて、
人間的にも尊敬の出来る方たちばかりで、
お互いにリスペクトがあって、
忘れられない日々になった。

僕は、この作品に参加するまでは、もっと自分はすごく演技を出来るんだと思っていたし、もっと色々なことを知っている筈だし、ありとあらゆることを分かっているつもりだった。
そう思い込んでいた、ということに気付いた。
無知だった。

大切なのは、まず大らかさと、優しさだ。
オープンマインドだ。
そのときの生活を懸けることだ。
リスペクトだ。
そして自信だ。

何もやっていないときは世界一自分が下手だと思うこと。
すれ違いを、恐れないこと。
作品にただ貢献出来たらと思う。
寒い暑いつらい眠いしんどい悲しい苦しい、そんなすべてを乗り越えること。


『孤狼の血 LEVEL2』
白石和彌監督。
純度の高い現場だった。

公開が近くなったら、もっと色々と書こうと思う。











誰にも本当に思っていることを知られたくない。
これも嘘。




あ、レディガガって、インスタグラムのフォロワーが4500万人もいるんだなあ。

僕の思想感情はたいてい僕の知っている言葉と結び付かない。
浮き雲のように流れて行く。固定出来ない。
1秒で気が変わってしまう。 
倒錯的な行動を取ってしまう。
消えていく。
そしてそれを忘れる。
適当なだけだろう。天の邪鬼なだけだろう。
べつに嫌われたくないのに嫌われるような行動をとってしまう。


存在って無意味だなあ。
サルトルの『嘔吐』の主人公。
存在とは何だろう。
からっぽの形体にすぎない。



三島由紀夫、没後50年やで。50年過ぎたで。
死に行く人は増えるばかりです、先生。
ファクトフルネスでも読もうか。


うるさいうるさいうるさいうるさいノイズだ。
ノイズが聞こえる。時折聞こえる。
いや、僕は何にも依存していない。
部屋でためしに叫んでみる。
精神病でも何でもないと思う。
みんな病んでいると思う。
こんな無茶苦茶な世の中で、まともに過ごすことのほうが、むずかしい。
みんな弱りきっていると思う。
神経質な人から順番にやられていく仕組みだから。



勝新さんとたけしさんの対談。
マリファナの話になったとき、たけしさんが「それをやらないと決めたときに、どこまでやらないことから戻ってくるかと言ったら、あくまでも想像の世界で処理することだから、俺としてはやらないと思うな。いかに真剣に想像力を働かせるかの勝負になると思う。」と話していた。
自分でその状態を創るんだ。
想像力を働かせるんだ。
色んな仮面と色んな試みで、それすら越えるんだ。


世界全体を掴まえたい。
それを諦められない。
世界と人と折り合いがつかない。本当に馴染めない。
何を言ってるんだ28歳で良い年こいて、という感じだ。
こんなことをSNSに書いてね。
僕自身も良い年してさ、って、そう思う。
幼児化したい訳でも大人になりたくない訳でもなく。
世界全体を掴まえたい。
いやいや幼児化なんてしていたら、やりたいと思っている戯曲が一生出来ない。





小劇場に限らず、自主映画インディーズ映画もそうだけど、知り合い同士が知り合いの芝居と知り合いの作った映画を観て、内輪で観合いっこして、たいして本当に良くないものを、ああ良かった、ああ素晴らしかった、と褒め称えるの本当に馬鹿らしいからやめにしよう、ちゃんちゃらおかしい。
ただしそれをやめにすると、しんどいけど。
多分、ひとりになるけど。
ひとりになる必要ないけど。
まあみんなで手を繋いで支え合って、誉め合っていこっか!

天才と呼ばれるものと、凄いと呼ばれるものが、だとしたら今は生まれまくりで、そうだったら今の時代、こんなに苦しくないし、日本映画は韓国映画に勝っている。

きっと「褒め称えることをシンプルに分かりやすく出来る側の人たち」は、愛されやすいんだろうな。





また“側"と使ってしまった。反省だ。
側なんてないんだ。
人を分別管理するのは辞めよう。レッテル貼りを辞めよう。
多様性を謳う人ほど多様性を謳わない人を区別する。

つまらないものはつまらない。素晴らしいものは素晴らしい。

残酷だけど、それがすべてだ。
そして、上の物とも比べなきゃ。
上、とされているものと。
昨年、ある若手俳優さんと対面してお芝居をしたとき、自分のやりたいことを遥か上の次元で軽やかにこなされていて、あまりの圧倒的なレベルの違いに愕然とした。
その人よりも遥かにすごい人たちが海の向こうにも山のようにいる。
厳しい世の中だ。
すべてブーメランで跳ね返ってくる。恐ろしい。恐い。恐怖だ。
大きなことは言えない。
あの映画、めっちゃつまらなかった、あの演劇、めっちゃつまらなかった、とも言えない世の中だ。
小さいものを掬い上げることは大切だが、掬い上げる必要のない作品も多すぎる。
素晴らしいものにだけ素晴らしいと言いたい。
そして自分も比べられてしまえ。





ナショナルシアターライブの『ハンサード』がとにかく素晴らしかったので、チャンスがあれば観てほしい。
インターバルもある長い上映時間ではなく、99分の濃密な二人芝居。
深い悲しみと怒りから立脚した上質な風刺会話劇。
空疎に見えて、それはコミュニケーションの為のコミュニケーションだった。
手先まで寸分の隙の無い演技。
英国ではこの深く重く決して分かりやすくない作品が真っ当に興行として成り立っていて、それを楽しむ観客がちゃんといて、国が立てた劇場で最新の演劇として行われている。
傑作。

深田晃司監督の『本気のしるし』素晴らしかった。
渋谷・イメージフォーラムで観た。
右肩上がりでずっと面白かった。
ドラマ映画じゃなくて、これは真の映画だ。
間違いなく2020年ベスト邦画のひとつ。

僕は耳に警報が聞こえてきたら、彼女を助けに行くんだろうか。
あるいは、僕がそこにいたら、誰か助けてくれるんだろうか。
誰かにすがるんだろうか。
僕は踏み切りを見ると、この映画を思い出す身体になってしまった。

濱口竜介監督『寝ても覚めても』へ向けての深田晃司監督なりのラブレターのようにも思えた。

飽きない刺激的カットの連続。拍手拍手。
共依存とかメンヘラとかエモいとかキュンですだとか、簡単な言葉が蔓延しているけど、そんな言葉では到底形容出来ない複雑なことが此の世にはいくつも、本当にいくつもある。
映画の時間でしか表現できないことが、ある。

"撮れてしまった瞬間"も散りばめられている。
森崎ウィンさんと土村芳さんの魅力に終始、振り回されてしまう。
あまりに魅力的。
この二人が真っ直ぐ演技をしてくれるから、観ていて煮え切らない話なのに、常にスカッと気持ちが良い。
どなたかが感想で、「登場人物たちがシナリオから逃げていくようなシナリオ」だと書かれていて、秀逸な表現だなあと思った。

「運命なんてないよ」に対して
「あります!」

これこそ映画で、浪漫だ。
これまた傑作。


たむらさん、観ましたか。
僕は直接観に行けなかったから、動画で配信されているものを、観ました。
よかったら観てください。
これはなるべく情報を入れずにいこう。
これは言葉をすくなく。
傑作。
観たことのないものが観れます。
終わったあとの舞台上、
何が繰り広げられていたか全く分からない。

西川美和監督の『すばらしき世界』。
希望とか希望に類するものを一層や二層ではもはや簡単には提示できないんだな、この世は。

現実は、ひどく重い。ただ普通に笑いたいのに。
何のしがらみもなく、喋りたい。
一人の人間として、ちゃんと触れ合いたいし、扱われたい。
ここまで厳しい映画だとは思わなかった。

役所広司さん、言うまでもなく圧巻。
ヤクザの凄み、生きている人間の実存感、きらきらの無邪気さ、途轍もない怒りと行き場のない悲哀と、コミカルさの共存。
ポスターに名前の載っていない田村健太郎さんは、どの作品を観てもずっと高クオリティのお芝居を続けられていたけど、それが最高に結実していた。

途中の点描で、"一見"普通に働いている人たちを写すのも良かった。
みんな、生きていた。
生きているとはどういうことだろう。
人間は複雑で多面的で一色じゃない。
その多面性と向き合うことに、どれだけ真摯であるか。


作り手達の豊かな心を感じ入って、僕もそうありたいと願った。

こんな映画を作る人が、まだまだこの国に、いる。




『ノマドランド』は徹頭徹尾、寂しい映画だった。
やはり喪失からスタートしなきゃ。

考えたこともない価値観を教えられた。
さよならした人とは、永遠にさよならなんだ、と思っていた。




『街の上で』今泉力哉監督。
初日舞台挨拶のチケットは、出遅れて取れなかった。

昨年。
この映画が公開予定だったあの時期。
あの特に苦しかった時にこそ観たかった映画だったのに、公開が延期されて、当時はひどくショックだった。

しかし、何とか公開した。おめでとう。

「街の上で」は「寂しさの上で」だ、と思った。

うろ覚えだけど、ヒロイン然としていないけどスーパーヒロイン・城定イハの、「寂しさなんて、そんな簡単にはコントロール出来ひんやん」というパンチラインが素晴らしかった。


ハーモニーコリン。
酔って観るハーモニーコリン最高なんだよなあ。








Mini Theater Park
【See you at theaters! 〜映画館で会いましょう〜】
▶️https://t.co/woTl282MJA

最近知り合う機会のあった渡辺真起子さんからお声掛けを頂いて、
参加した。
茨城・笠間ポレポレホール。

一度も行ったことのない劇場だったけど、幾つか候補がある中で、真起子さんから「新しい出会いになってもらえたら」と言われ、仰る通りだと思い、お名前をコールした。


何回も「笠間ポレポレホール、笠間ポレポレホール…」と名前を言うのを練習したり、色んな場所で、ある時は撮影の休憩中に衣装で自撮りしたりと、試してみた。
そうすると愛着が自然と湧いた。
体験してみてやっと分かることって、きっとある。



家から2時間半の場所にある劇場だから、いっちょ行ったろうかと迷ったけど、あの頃は県外におおっぴらに移動することが憚られたし、あと、僕の身の丈でないカッコつけのような気がして、やめにした。


井浦新さん、渡辺真起子さん、斎藤工さん。関係者の皆さま。
頭の上がらない活動だ、と心から思う。
リスペクトするほかない。
活動、応援しています。



ただ。
「大きな声」や「連帯」というのがどうしても得意じゃない人は、きっとたくさんいる。

大きな輪に入ることが、僕は昔から出来ない。
いつだか小学校の修学旅行の時、みんなが大笑いして盛り上がっているにも関わらず、僕一人だけ指で耳栓をしている写真があった。 

映画って、映画館って、そういう人たちを肯定してくれるものなんだと、思っている。
独りの肯定。反乱の肯定。業の肯定(これは立川談志さんから)。
あるいは罪の肯定。
そして時には思いっきり否定してくれてもいい。
ぶん殴ってくれてもいい。
だから、映画が好き。

まただからこそ
「映画館の名前を呼ばせて頂きました」の
「頂きました」
という言葉の欺瞞には、向き合わざるを得ない。

やってまっせ、みたいな。
みんなと連帯してまっせ、みたいな。

僕は参加した、とだけここに書く。
書く必要がないけど、書く。


勿論、皆さんあらゆることに自覚的だと思うし、ましてや映画を愛する人たちなんだから、僕の想像の遥か及ばない苦労や考えのもとやられていることだし、はっきり言って尊敬以外の何ものでもないし、僕も神経過敏だとおもうし、くさすつもりなんて毛頭ない。


加えて、小さな声や弱いものが常に正しいとも全く思っていない。

こういう、ちょっと手間をかけないと辿り着けないようなところにしか、こんなことは書かない。

ただひとえに、小さな劇場が、なくならないでほしい。
アップリンク渋谷は閉館してしまう。





綺麗事を言う人の、綺麗事を言おうとする心情、みたいなものを深く推し量りたいし、馬鹿にしたくない。絶対に。






許すわけにはいかないひとつひとつを、僕は、許さない。
いつかは、許す。


僕は、何様だ。
昨年、風邪を引いて寝込んでいたとき、なかなかしんどくて、ああなんにもやってないのに、このままいなくなったりするのは嫌だなあ、とシンプルに思った。
藤原季節が何故か家に訪れて、あたたかい料理を作ってくれた。


孤独は山になく、街にある。
一人の人間にあるのでなく、
大勢の人間の「間」にあるのである。
孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。
「真空の恐怖」──それは物質のものでなくて人間のものである。

これは、三木清の『人生論ノート』から。



自分が弱虫であり、その弱さは芯の芯まで自分につきまとっているのだ、という事実を認めることから、他人を見、社会を見、文学を読み、人生を考えることができる。


これは、遠藤周作『自分をどう愛するか』から。


色彩を取り戻そう。
僕はスローな思考で物を考えたい。
ここに書いているのは落書きだ。
ここに書いているのも僕であり、書いていないことも僕である。


云った事は云った事、
云わない事は云わない事なんだから。 


追悼をしている、とわざわざ表明する意味とは、一体何だろう。



みんな何をして日々、過ごしているんだろう。
元気でね。
いろんな、すれ違いも起こるけどね。



うん、ぼくたちは自分の人生を生きているんですよ。
誰かに踏みにじられるような人生であっては、いけないんです。




1日休みの時は、前日から映画館の上映日程を調べる。
観たい作品が多い時は財布と相談をしながら、いかにハシゴ出来るかを考える。
または、演劇。
当日券で行ける目ぼしい公演はないか調べる。
当日券は、立ち見もあったりして、チケット代が安いんだ。
そこが居場所だった。
そこだけ、唯一呼吸を許されているような気がした。


優しい日々を過ごしたい。
演劇が突然中止になる経験は、本当に極端で不謹慎なことを言うと、自分にとっては身内の訃報と等しいぐらいのショックと喪失感だった。
その痛みはその人固有のものであって、
それぞれで受け取り方も立ち直り方も違う。
どうか一緒にしないで。
ひとまとめにしないで。


数年前、それはもう心神喪失ぐらいのショックな出来事があったとき、御世話になっている方から「どうか自分優先の時間を過ごしてください」と言われ、とても心が救われた。

みんなが自分を優先したら社会が壊れるかもしれない。
でも究極の利己は、利他に繋がる可能性もあるのかもしれない。



繰り返すと。僕らは、誰かに不当に踏みにじられてはいけない。







モンテヘルマンの映画を観た日、
モンテヘルマンが亡くなった。

映画には、亡くなった人も登場することが出来る。
その時、その人は、ただ見られている。

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