見出し画像

空っぽの人間

自分を空っぽの人間だなあと、つくづく思っている。
僕は何か物事を継続してやったことがほぼなく、このnoteも、始めたそばからもうやめたくなっている。
ちょっと書いてみる。


心豊かに映画をそのまま味わい、享受することは、むつかしい。(さくらももこさんの影響で、むずかしいをむつかしいと書いている。)

映画や演劇を観ても、音楽を聞いても、心が本当は全く動いていないような気がしてならない。
僕は、何かとごちゃごちゃと御託を並べることが得意なのだけど、本当の芯は、どこにあるのか。


ある人に、あるドラマの台詞を引用してつらつらと「正直であることとそうでないこと」について話していたら、「そんなワケわかんない引用を持ち出されても、伝わんない。実地がない。私は実地で学んでいる」と足蹴にされた。

実地の意味を改めて調べてみる。
実地とは=
現実の場。実際の場合。現場。

うん、確かにそうかもしれない。

いまの僕は、観た映画に対して、感想めいたことを述べることは確かに出来る。


極端なことを言う。
僕、じつは何を観ても聞いても、基本的に何も思わない。

サイコパスとか類型的な言葉では、どうか片付けないでほしい。
基本的に、ありとあらゆることがどうでもいい。
悟っている訳でもなく、ニヒリストとか厭世主義とか終末論者とまではいかないが、いつも、(わりとポジティブに)何かを諦めている。
みんなもっと好きなように生きたらいいと思う。




僕は、ずっと自分の感想がない人間だった。
ドラマを観ても、「なんか、すごい」「なんか、かわいい」「なんか、かっこいい」という言い様のない「なんか」に常に左右されて、他人の感想を見たり聞いたり調べたりして、人の顔色を伺って、初めて「ああ、この作品はそうやって見るものなんだ」と理解して、附に落ちる。流される。その「なんか」は常に明言化できなくて、本来、芸術や何かを真の意味で味わうというのはそういうことなのかもしれないけど、いつもこの「なんか」に疑問があった。


何が良いのか悪いのか。
その判断基準を世間や友だちや家族や恋人に委ねてきた。
だから人の感想に、滅茶苦茶、左右される。
すごく好きだなあと思った映画を、「これこれこういう理由で駄目だよ」とケチをつけられると、途端に、拗ねたような気持ちになって、閉口してしまう。


"自分がない"と言われたらこの話はそこまでだが、"自分がないという自分がある"という言い方も出来るのではないかと、無理矢理に自分を肯定したい。



ミスチルを好きだと言っているのも、正直、本当なのかどうか、よく分からない。

なにしろ人気者、人気ミュージシャンだから、ミスチルを好きと語る人はとても多くて、すこし調べると「ああ、この歌詞はこういう意味ですごいんだ」とか「ああ、このアルバムを出すに至ってそんな事情があったんだ」という情報を簡単に知れて、意味論や後付けで"僕も好きかもしれない"となり、やがて"好き"と言えるようになってきた。



だけど、人気ミュージシャンという点では、GLAYだってスピッツだってL'Arc~en~Cielだってサザンオールスターズだってそうだろう。
僕が高校生の頃は、BUMP OF CHICKENとRADWIMPS全盛期だった。


他の人に影響されるなら、なぜBUMP OF CHICKENは凄く好きにならなかったんだろ。
なぜミスチルなんだろ。
最初に、もうすこし知りたいと調べた理由は何なんだろ。


ばんぷ、と携帯で打つと、「BUMP OF CHICKEN」と名前が自動変換されることが、「売れる」ということなのだろうか(たぶん、違う)。






僕には評価軸なんてものはないのではなかろうか。

いや、待ってほしい。
子どもの頃に見ていたウルトラマンは大好きだったし、名探偵コナンとドラえもんとちびまる子ちゃんの漫画はひたすらに読み続けていたし、自然と好きと言えるものは、きっと沢山あった筈だ。

感受性が死滅している筈はない。
不感症というやつでもない。
主体性もゼロではない。
最近もある作品を観て、涙が流れた。
どちらかというと、感動しいである。
花火も桜も海も太陽も星も月も鳥も犬も「綺麗だ」と思う。


今、好きな映画を聞かれたら、幾つか、当然、答えられる。
好きだと言える映画監督も、沢山いる。

それも全て、人の影響なんだろうか?
なんの切っ掛けがあったんだろうか?
何をもって、好きとか嫌いとか優れているとか優れていないとかが言えるんだろうか?

理由を探ろうにもよく分からない。
これは恋とか愛とか、そんな話にも繋がってくるんじゃなかろうか。
何をもって愛しているとか好きとか感動したとか、そんなことが言えるんだろう。
そしてそれは分かりやすかったり、わざわざ口に出して言わなきゃいけないんだろうか。




最近読んだ山崎努さんのインタビューの中で、伊丹十三さんが30代で書かれたエッセイについて言及しているところがあった。


『「自分には何にもない、寿司屋に行ってどう勘定を払うか、どうやって女を口説くか、そういう、自分の中の個性みたいなものは、ぜんぶ、誰か他人から教わったものなんだ。」って、そういうのがある。

だから、自分は「空っぽ」なんだと、そう書いてるエッセイがあるんです。
でね、そのことは、ぼくは、当たってるような気がする。

(中略)

個性だとか、何だとか、自分でそうやって思い込んでるものは、すべてあとから仕入れたもので、もともと、そんなものはないんだって。

(中略)

だから、他人から教えてもらったり、外から取り入れたもので、空っぽの自分を埋めてるんだ、って。』





別に伊丹さんと自分を並べたい訳ではなく、僕は、いたく、このことに共感が出来る。

ぜんぶ、人から教えてもらい、人に影響を受けて、こうなっている。
僕もまた、空っぽである。空洞。


好きな人や大切な人はいるが、本当に好きなのか大切なのかどうか、よく分からない。
好きと思いたいだけなのかもしれない。
好きな自分を好きになりたいだけなのかもしれない。
でも、すごく好き。
どう伝えたらいいかは分からない。
表明を求められても困る。
好きと言っていない人のことも好きだったりする。




みんなが楽しく笑っているときに、僕だけ、全く楽しくないということは、多々あったし、ある時期から、感情表現が得意ではなくなってしまった。
そして、そういう人間は、集団生活と空気を重んじるこの国では、よく、つまはじきにされてしまう。
何だかわざわざ色んなことの表明を求められているような気がして、凄く追い詰められたような気持ちになる。
中庸であることがどうにも許容されない。
善か悪か、正しいか正しくないか、そのどちらでもないグレーな位置にいる人間がいないと、喧嘩も戦争も、まっしぐらだろうとよく思う。



いじめを受けていた訳でもなんでもないけど、中庸でいたい気持ちは、曲がりなりにも表現活動を続けている理由として、深く根差しているものなんだろう、



毎日毎日、空っぽの自分を埋めている。



多分、深夜に考えるのに相応しい題材かもしれない。
同じような人もいるだろうか。

ペドロ・アルモドバルは好きと思えた。

最新作の『ペイン・アンド・グローリー』も良かった。
ひとりでBunkamuraに観に行った。
極めてパーソナルな話だ。
こんなことはさらっと書ける。
でも、しまっておきたいことは胸に沢山ある。

はっきり分かりやすく伝わるように笑う必要なんてない。


もっと世界では重要で重大なことが起きていて、悲しいニュースや恐ろしい出来事、国家、政治、芸能、宗教、愛、戦争、平和、環境問題、恋愛、経済、教養、習慣、生活、様式、文化、暴力、とにかく問題は多岐に渡って、様々な立場があって、実は僕も勢いと感情に任せて言及したいことは、沢山ある。




またしても他者の言葉だけど、"俳優への手紙"(三好十郎 著)からの引用を許してほしい。


僕は劇作家だ。戯曲を書くことに、自分の貧しい力を集中すれば足りる。言いたい事があったら自分の作品で言う。自分の作品で語れなかった事、言い足りない事を、作品以外の所で言い散らして見てもそれが何になる? それは卑怯であり未練である。と同時に、どう足搔いて見ても、言い足りることにはならない。言えば、僕と雖も見る眼を持ち考える頭を持っているのだから、世上の現象の一つ一つに就て自分なりの見解は持ち合せている。時に依ると、これはチョットした達見であると自惚れてもよさそうな意見を抱くことがある。しかし、それを言って見ても何になる? その言説を即刻実践するだけの充分なる勇気と客観的な力を持たず、かつ、その言説から依って起る現実の事柄に向って身を以て処そうとするだけの充分な決意を持たぬ者が、よしんばどの様に高邁な正論を吐いたとしても、それが何になる? お国のために、何の役に立つか? 人々のために、何の役に立つか?




全体、われわれには理屈が多すぎるのだ。今われわれに必要なことは、一知半解の事に就て無責任な「批判」を吐き散らすことではなくて、信頼するに足る指導者を見出して、その者の号令を黙々として躬行することなのだ。もし万一、批判を敢えてしようとならば、口舌を以てせず身を以てすればよし。それこそ、真の批判であり、主張である。

特に、曾て過去に於て重大な思想上の過誤に陥ったことの有る自分などは、既に久しくその様な過誤を清算し、卒業し現在に於ては根本的に全く健全な地盤の上に生れ変り得ていると自ら確信しても、尚、なるべく、よけいな言説を吐くべきで無い。やむを得ざるに発する以外は、沈黙すべきである。僕はそう思っている。つまり、僕は謹慎中の人間だ。他に対してと同時に自分自らに対しても謹慎中だ。 この様な考えと、この様な考えに基いた僕の沈黙は昨日や今日はじまった事では無い。現に、君も知っているように、この五六年、僕は人に向って「言説」の口を開いたことは殆んどない。稀れに戯曲作品を発表する以外に、人さまに向って言う事など僕には無いし、又、言う資格も無い。将来とても、これは同様であろう。


十分に言い尽くしてくれているが、同調させて頂きたい。
(「信頼に足る指導者~」のくだりは、すこし言いたいこともあるが)

まず、なにかを述べるには決意と勇気が必要だということ。

これはつまり、「だから何も言わないでおくということが正義なんだ」ということでは全くなく、何を言っても、何を書いても、僕は文筆家でもエッセイストでも小説家でも批評家でもないから、"言い足りる"ということは、あり得ない、ということである。
僕がSNSや何かで、何を言っても(ここにこのように書いている大きな矛盾も抱えながら)、今の状況では、言説たりえない。


だから、言わない。
それだけのことである。



話がまとまっていないのと散り散りなのが、きっと僕の文章の特徴である。




話を戻したい。
僕は、空っぽを埋め続けている。

ぼくは、本当にすべてのことがどうでもいいのだが、裏を返せば、それはすべてのことがどうでもよくないということだ。
どうでもよくないと思いたいということだ。


好きな人や、映画や、演劇を、
それは不確かなものだし、恒久的な何かは全く保障されていないのだけど、しがらみとかそういう何もかもを越えて、
愚直に、求めているということだ。
了解不可能なものを求めている。
ずっと本当のことを知りたい。
嘘をつかれると心底悲しい。

山崎努さんのインタビューは、こう続く。

『だけども‥‥まぁ、ぼく自身も、伊丹さんの言うように「空っぽ」だから。

空っぽの容れ物の中に、人の力をもらって、人に助けられて、いろいろと、何やかやと、詰め込んだだけの、埋めただけの話でね。

伊丹さんやぼくだけじゃなく、人間はみんな空っぽなんだっていうのは、やっぱり、そう思いますね。』

安心してきた。

こうやって、くどくどと文章に頼って書いていることも、それが僕から匂い立たなければ、思っていないのと一緒なのだ、という決意表明として、ここに記録する。

SNSも、やめどきを探している。


見学に行かせて頂いてる第7世代実験室の稽古場が豊かだ。
空間が豊かだ。俳優たちの精神が美しい。心惹かれる。
僕は、身体と、肉体と、肉声と、精神世界を、信じたい。
現実がぎすぎすしているのだから、ただぎすぎすしたものは観たくない。
そして、そのぎすぎすの時代認識を全く前提としてないアッパラパーの作品も、観たくない。

何か道しるべのような、ヘンゼルとグレーテルで道に落とすパンのような、なけなしのものがあるといい。

岡崎育之介くんと作った『ジダイ』
第二話に出ているので、良かったら見てください。
是非一話から四話まで。

『curfew』という自粛期間中に作った作品が、下北沢映画祭にノミネートされた。
諫早幸作の企画。素直に、良かったね、という気持ちになれて嬉しい。

自主企画、またやろうと思っています。
停滞しているものは、やがて動き出すのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?