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大きな声で

大きな声で
歌えば届くかと
出来るだけ歌うんだ

というフジファブリックの歌の歌詞が、沁みる。

自分と何の関係もない、なんの知り合いも出ていない、さして僕のSNSにも流れてきていない映画を観ようと、たまたま観に行った『リスペクト』という映画で、似た台詞があって驚いた。

出来るだけ、大きな声で、歌うのよ。


最近どう?と、話そう。

どう?の範囲が広すぎるか。限定しよう。

言葉を持ち寄ろう。

分かり合う為に、仕草を尽くそう。

分からないことを前提に話そう。

相手のことを、考えよう。

未来のことも、話そう。

それぞれの痛みを、持ち寄ろう。

傷を、持ち寄ろう。

あなたは誰、僕は誰、というところからスタートした、
真実の、集中した会話をしよう。



けりをつけなくちゃね。その悲しみに。

櫻井和寿さんの詩。


自己愛と自己撞着について、考える。

『愛するということ』エーリック・フロムによると
自分を愛すことが出来ないと、
他人を愛すことも出来ないんだってさ。
そんなこと分かってるさ。

愛する人が出来たとして、
その瞬間に
世界はたったその二人だけのものになったとしたら、
それは自己中心主義=利己主義が二倍になったに過ぎないってさ。
それは愛ではないってさ。

「共棲的愛着」だってさ。
「愛」ってついてるけどなあ。
愛着は、愛ではないのかあ。

自分を愛し、誰かを愛すことの出来る人は、ほかの人も愛することが出来る。
「あなたを愛している」と言えるなら
「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるだろう、ってさ。

ふむ。

うーん。

映画で純愛と謳われるものって、
簡単に、これストーカーやん?と言えちゃいそうだ。

おじいちゃんがトロッコに乗っていてキュートだった。




あーあ、そうなのかなあ。
解、なんてないよ。
正解、答えなんてない。ひとつも。

「正解持ってるフゼイ」のひと、多いなあ。
よくそんなに自分が正しいと思えるよなあ。
そんなことないか。迷ってるか。


うんうん。


うんうん、と打ったら予測変換で
( ´・_ゝ・)
この顔文字が出てきた。

顔文字は海外でも同じ印象で伝わるものなのかな。




家入レオさんのエッセイが素晴らしくて、
よく読んでいます。

素直でわかりやすくて優しい言葉を。
その人にしか言えない話し方で。
みんなに向けた伝え方で。
とても、あたたかい。 


クォーター・ライフ・クライシス。


まどろっこしい書き方をしている人は、
端的に言うと、文章を整理できない人である。
自戒も込めて。

よかったら読んでみてください。
美しい心の持ち主なのだということが分かります。
すくなくとも、そうあろうとしていることが分かります。

僕もそうありたいと思っています。


家入レオ「言葉は目に見えないファッション」vol.9 目に見えないあなた



作品を通じて、次に進むんだ。
作品と役、誰と組むかのセレクトに、
意志と、意味を。

何をしたくて演技をしているのか?
思い出さないといけない。常に。



ちらりと言われた言葉、無駄に思える何気ない時間、心ない言葉、微妙な表情、ちょっとした不機嫌な声色、携帯を人がつぶさにいじる仕草、なくなる表情、唐突にそれがフラッシュバックして、呪詛のように自分の中に残ってしまっている。
それを、マイナスの意味で捉えてしまう。


三浦大輔さんは、人と呑んでる時、スマホを中々いじらないんだよな。
いじるときは、理由をつけて、理由を教えてくれながら、いじるんだよな。 


僕も、その真似をする時がある。


「スマホは現代の年貢であり、手錠である」と言ったのは北野武さんだ。

手軽に得られる快楽と、みんなの一面的な近況。
スマホ脳。

話が面白い人は、こまめに携帯を見ない印象。  
視点を反転。
というか、僕が見させてしまっているんだな?
統計なし。
あなたが携帯を見るなら、僕も見ようかな、
という気持ちになる。
いや、視点を反転。
ただ連絡が来ているだけだと思うけど?


みんなどこに居場所があるのか?
SNS上にも、現実にも、どこにも居場所がない人は、
いったいどうしたらいいのか?






石井裕也監督の『茜色に焼かれる』を観た。
どこまでも"現在"の作家だと思った。
片山友希さん、素晴らしかった。

言葉と台詞がよりソリッドに、激しく、苛烈になっていて胸が痛くて仕方なかった。
『夜空~』以降から顕著だ。


こんなこと普通は言わないだろう、と思いきや、とんでもない言葉を平然と人にぶつけることの出来る人は、確かにこの世にこの日本に存在している。


それにいちいち傷付いていたら、やっていられない。

ちょっと街に出ると、どきどきしてしまう。
心臓がばくばくする。

診断でもしてもらったらいいやろ。
診断は、自律神経失調症やろ?


「こっちは、金払ってるんだからさ。もし気持ちよくしてくれないんだったら、お前、死ねよ」


酷い台詞だ。
よく描いたと思う。
その言葉を言った人にもその人なりの事情があるかもしれない。
でも、駄目だろう、と思う。


舐められていると感じる。
舐められている、というのは「丁重に扱われていない、対等に扱われていない」というのと同義だ。
当然、みんながみんな毎日余裕を持って暮らしている訳ではないから、心ない言葉を簡単に吐き捨てることの出来る人に、いくばくかの同情はする。
でも。それでも。だめだろう。
鼻で人を笑ったら、だめだろう。


人を舐めている人は、本当に多いと思う。
そして、自分が何処でもいつでもそうではない、と言い切ることなんて、出来ない。

舐められるのが一番嫌いなんだよ、と話してくれたのは細川岳くんだったか。

そうだよな。
僕もそう思う。
不当に舐められると、苛つく。


ほんのひとつ、ほんのもう一足、ほんのもう一踏ん張りで、世界はもっとよくなるんじゃないか。

よく思うのは、通勤殺人電車、僕はあまり乗らないけど、都会の電車において、もう一歩詰めたら、もう一歩奥に行ったら、余裕でスペースにゆとりが出来るやん?ということ。


信用の出来る作家は、あまりに少ない。
石井さんの書いた「個人的研究課題」を読んだら、僕が普段考えていることと恐ろしく一致していて、衝撃だった。

なんでもかんでもすぐにインスタのストーリーにあげんなや、といつも思う。
思い出も、景色も。風景も。人も。


ぱしゃぱしゃ撮るなや、と思う。

人間の軽視。
目の前にいる人や風景の軽視。
軽薄な人間が嫌いだ。
またしても自戒を込めて。


公衆電話の40円で、
人は、好きな人に告白が出来るんだ。




ゴダールなんて眠くて観てらんないやあ、と思いつつ、
部屋で一人で流すのはゴダール映画だったりする。
気取っているわけでもない。
なぜなら理解して観ていないから。

多層的な映画だから、ひとくちに語ることは出来ない。
どこから取り上げていいかも分からない。
引用がどこから来ているか分からないから、自分の無知さに思い至ることも、ままある。

―ーー人道的と言われる人々は、何故革命を起こさないのでしょうか?
ーーー革命が人道的じゃないからさ、彼らが作るのは図書館と…

これは『ウィークエンド』か。

はて?


エクリチュール=書き言葉を信用していない、という点が、映画作家として、素晴らしいと思った。
ポエジーポエジーポエジー!

思考が分散して、とても良い。



青葉市子さんのコンサート。
『Ichiko Aoba “Windswept Adan” Concert』。
魂の浄化。そっと伝わる唄。
弦楽器ってあんなに美しい音なんだ。
純粋な美しさだった。
本当の美しさには、意味づけも、言葉も要らないんだとおもった。
僕は特定の宗教を信仰していないけど、ずっと大きな何かを祈る気持ちでステージを見つめていた。

知人に遭遇した。
ご夫婦で来ていた。
その人が青葉さんを好きであることが嬉しかった。

さいたま芸術劇場までの道のりに咲いた花々。



このnoteを読んでくれたというある女優さんが、

この言葉たち自体が、
脚本のようなものですよね。
これを読んで求ちゃんのことを嫌いになる人、
いないと思いますよ

と、さらりと話してくれて、とても嬉しかった。
僕は、怯えている。

表現方法とアウトプットについて、
語ることと語らないことについて、
色んな意見があってしかるべき。役者は特に。





『ボイスⅡ 110緊急指令室』
ボイス2。
たいへん今更ながら。
2話と3話。

ご覧頂き、ありがとうございました。

ピエロの、塚田という役柄でした。

さまざまな反響を頂いて、感謝しきりです。
律斗くん、おつかれさま。
繊細で素敵な少年だった。


頂いた感想コメントの中で、
未満警察、やめるときもすこやかなるときも、あなたの番です、ミッドナイトスワン、映画 賭ケグルイ、映像研には手を出すな!etc、、
過去にやった作品名が挙げられていたのも驚きでした。
テレビって、凄いです。


もしこれで僕のことを知って下さった方がいらっしゃったのなら、ぜひ今後もチェックしてもらえると嬉しいです。

その方に、損をさせないよう、やっていく所存です。


…。


インスタグラムにも載せましたが、
唐沢寿明さん、とても格好良い座長でした。
唐沢さんのドラマに来たのだな、という気持ちが初日から強く湧いて、覚悟が決まった。
増田貴久さんは、初日から冗談を飛ばして下さったので、とても現場に入りやすかった。

遠藤さん、重文さん、
宮田くん(長い付き合い)、松本さんとも
もっとお話したかった。素敵なチーム。
笑いが絶えない方々だった。
全員素敵な方々。

また必ず、皆さまと
ご一緒できますように。
素敵な冒険心のあるプロデューサーさんが声を掛けてくださって、実現した作品です。
またご一緒できますように。

ボイスは、えげつなさとスリリングさは絶妙に、何だかんだ気楽に観られるところが魅力のひとつだと思うのです。
毎度、劇的なことが起きる。

最終回も終えまして、
みなさま、本当にお疲れ様でした。



世界の変化についていけない。
ニュースを見なくてはいけない、とは思えない。
しかし投票には行かなければいけない。


書けないことと言えないことと話してはいけないことが、多いね。
隠していることも多いね。

尊い友情とはなんだろう。

頻繁に会うでもなく、
遠くにいたとしても、

その人の全体を、信頼すること。
不確実な存在だということを受け入れること。
そして、自分も不出来な全体であると認めること。

少年漫画に憧れた僕は、ONE PIECEの
ルフィの海賊団が、
最高の仲間の形なんだと思い込んでいた。
あれって、なかば恫喝じゃないかと思ってしまう。
そんなことないか。


僕の日々のテンションに見合った表現が見つからない。
実はずっと、お通夜のような気分でいる。
あの人が亡くなったことも、あの人が目の前から消えたことも、僕は、決して胸の中から消えない。

虚しさと哀しさが、病的に途切れない。
ひどい倦怠感だ。

嬉しいニュースに喜ぶこともできない。
パンダにも猿にも猫にも、何も思えない。

夢の中で、とても泣いていた。最近、泣いていない。
夢の中で、大して会話をしていない人と付き合っていた。
夢の中で、言われたくない言葉を言われた。
夢の中で、知り合いが知り合いと、認め合っていた。
夢の中で、抱き合っていた。
夢の中で、優しくされた。
夢の中で、怒られた。
夢の中で、起こってほしくないことが起きた。
夢の中で、裏切られた。
夢の中で、殺された。
夢の中で、秘密をばらされた。
夢の中で、会いたい人と、ただ、喋っていた。
夢の中で。夢の中で。夢の中で。

あくまで、夢の中で。

頭が空中分解しそうになり、金原ひとみさんの『パリの砂漠、東京の蜃気楼』を読む。
あ、同じ気持ちの人、発見。良かった。

そしてこの人は、自分を愛していない。

死ぬまで誰も傷つけたくない。誰の心も体も、傷つけたくない。そう思っていた。街に溢れるハラスメントや罵倒、中傷の言葉、ネット上に溢れる罵詈雑言、全てが耐え難い。ナイフが、銃が、酸が、煙草が、言葉が、人の皮膚を心を切り裂く音を聞くだけで狂いそうになる。
傷つけたくないという思いがまた誰かを傷つけ、自分自身を傷つけていく。古傷に生傷が重なり、生きているだけで痛い、辛い、苦しい状態があまりに長いこと続いている。救い、オアシス、疲れたと倒れ込む場所を、いつ喪失してしまったのだろう。

ーP90~91

生きている限り、
誰も傷つけないというのは不可能だと思う。
なにかを思ったり、誰かに気持ちを抱くだけでも、
どこかで誰かが傷ついている。

僕は、向き合えているだろうか。
あらゆることに。

鈍化して、こんな自己弁護の、隠遁的な、韜晦した文章で行方をくらまして、僕の足元には今、何が残っているのだろうか。

僕は、何を知っているんだろうか。
何も知らないんじゃないだろうか。

暇な時間があると考え事をしてしまう。


にしても退屈は犯罪だ、ってコピー、酷かったな。
犯罪じゃない。
犯罪じゃないと思うよ。
束の間、怒りに震える。

人を想うことに、疲れてしまうときは、ある。


石井裕也監督の『夜空はいつでも最高密度の青色だ』がとても好きなのだが、(また石井さんの話をしているが石井さんだけを好きなのでも石井さんの全てが好きなのでも勿論ない)、
知人で東京出身者・都会っ子を自称する方の感想で、「私は東京の良いところを沢山知ってるよ、と思いました」というものがあって、素敵だなと思った。ふむ。
「地方から出てきた人達よりは生きづらい都市だと思っていない」とも。ふむ。


僕は、あの映画に写っていた新宿と渋谷の街を知っているつもりでいるし、あの街で、不安定でろくでもない感情にも沢山出逢って、あそこに写ったバーガーキングが何処にあるか、あのデート前の新宿の橋が何処にあるのか、分かる。
でも、今、隣に住んでいる人のことは、さして知らない。
日々の暮らしにかかるお金は高すぎる。


大切なことが日々ショートカットされていくような実感が僕にはあって、ONE PIECEじゃないけど、東京に来て、失ったものばかり数えていた。


いや、また、でも。
でも、そんなこともない。
ここで得たものは確かにあって、ここだから知り合えた人達や出逢えた人達もいて、僕は、曲がりなりにも今の都市生活を讃えたい。

「ざまあみやがれ。」


現状をかわいらしく肯定したいわけではない。

東京、と言うけど僕は、埼玉県出身なので、
それほど東京をセンチメンタルに感じられているとも思えない。

脱出するべき街だとも思う。


戦う対象を間違えるなよ、というフジロックを終えてのKing Gnuの常田さんの投稿は、なかなか格好良いと思った。

ステージに立つ、映画に出る、登壇する、テレビドラマに出る、それだけで何かの態度表明になってしまって、そこから中途半端に逃れることは出来ない。
選挙に行こう。


僕に、何が出来るんだろうか。
僕は、何をしたいんだろうか。
つねに、いま、なにができるか?だ。


何故、言葉は、軽いんだろうか。

集合写真を撮った瞬間に巻き起こる気恥ずかしさは何だろうか。
恥ずかしくないんだろうか。

今ある生活の肯定を、そんなにしたいのだろうか。
自分の治癒のみが目的なのだろうか。
いやいや。

考え続けるしかないような気がする。

世界は暗いですね、未来は悲しいですね、政治も最悪ですね、って、いや、そりゃそうかもしれないけど、
今、自分の隣、あるいは目の前にいる人、
その人が生まれてきたんだということを、
讃えていかなきゃいけないだろう。
それは、肯定しないといけないだろう。

そのことの否定はできないだろう。

僕は、抱きしめたい。

もう一度、確かめたいなあ。
凄く美しかった時間があったこと。
笑顔でいられるということ。
なんの疑いもしがらみもなく、ただ一緒にいられること。

確かめられるなら、確かめたいな。
無理かなあ。無理なんだろうなあ。

懐かしむ時間は、ただ懐かしいだけだから。

くもりが一番好きで
おんなじだ

って台詞、
美しいな。

私にとって真実に近いものは何かの「真ん中」にあって。バランス感というものは凄く大事です。振り返ると、歌を書き始めるきっかけというのが、私自身の心がバランスを失ってる時とかに曲を作ることでそれを取り戻して、平穏を感じたことだった。私が作り出すものは私自身の自己の反映です。
そもそも作る「きっかけ」からそう。自分とは何かをもっと知ろうとする行為なんです。

宇多田ヒカルさん。信じられる。


誰かへ。

古畑任三郎
EPISODE32の、『再会』から台詞を引用します。

背景やあらすじは、省略します。

古畑が、
ピストルを手に握った旧友の背中に言っています。

お察しします。

しかし。しかし。あなたは死ぬべきではない。

たとえすべてを失ったとしても、
我々は生き続けるべきです。


私はこれまで強制的に死を選ばされてきた死体を
数多く見てきました。

彼らの無念な顔は忘れることはできません。

彼らのためにも我々は生きなければならない。

それが我々生きている人間の、義務です。
 
よろしいですか。

よろしいですか?

たとえ、たとえですね。

明日死ぬとしても。

やり直しちゃいけないって誰が決めたんですか?

誰が決めたんですか? 
 
 


まだまだこれからです。






このコピー&ペーストは、著作権侵害だろうか。
良い台詞。
涙が出てくる。

亡くなった伊丹十三監督への、三谷幸喜さんなりのメッセージだという話は本当だろうか。

僕は、あなたのことを忘れていません。
忘れていません。
忘れません。
忘れない。


俺は悲しいよ。
悲しいし、ちゃんと悲しんでるよ、大丈夫。
でも、上田とか見てると
ああ、これが悲しいってことなのか。
じゃあ俺の悲しいは悲しいじゃないのかなって思って。

『何食わぬ顔』濱口竜介監督。 


濱口さんは、重い。
だから、惹かれる。
映画の主題も語られる言葉も、ずっと重いと思う。


失われたものを回復させたい。


私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの。いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘びしさは、可笑しなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。誰も教えて呉れないのだ。ほって置くよりしようのない、ハシカみたいな病気なのかしら。でも、ハシカで死ぬる人もあるし、ハシカで目のつぶれる人だってあるのだ。放って置くのは、いけないことだ。私たち、こんなに毎日、鬱々したり、かっとなったり、そのうちには、踏みはずし、うんと堕落して取りかえしのつかないからだになってしまって一生をめちゃめちゃに送る人だってあるのだ。また、ひと思いに自殺してしまう人だってあるのだ。そうなってしまってから、世の中のひとたちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかって来ることなのにと、どんなに口惜しがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。

(女生徒/太宰治)

そう。
わるいのは、あなただ。




今ある、この世界が嫌だ。ずっと。
悲しみを自慢している訳ではない。

文章をゆっくり、読み直してみて、
自分の浅はかさと言い足りなさに、また嘔吐感を覚える。


書いても書かなくても、どうせそうなるのであれば、
書いた方がいいのではと思い、noteを続けている。

だから、人と共にいてもいなくても悲しいのであれば、
人といた方がいいのでは?と最近は考えを改めている。

渥美清さんは、「孤独でいようよ」と言っていた。


そうだ。
伝わる、変えられる、届く、と思って、続けるしかない。


もしそれを止めたら、どうなるのだろうか。


劇団た組の加藤拓也さんが、
「差別じゃなくて区別してるということ?」という質問に対して、「いや、ただの好き嫌い」と言っていて、
最高にクールやな、と思った。

ああ、インターネットとSNSが教えてくれすぎる。
間違わないように、石橋を叩いて渡るように、
人の意見を、人がトレースしている。


この前、007を観に行ったら前席の人がエンドロールでスマートフォンをいじりだし、即座に映画レビューを調べていた。
まず、自分はどう思ったんだろうね。

『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督
本当に素晴らしかった。

喪失から、分からないことから、出発する。
車の中でしか、ご飯を食べながらでしか、煙草を吸いながらでしか、話せない物事があって。
他人のことなんて分からない。
どこまでも。どこまでいっても。

でも、何の矛盾もないんじゃないか。
裏表とか、ないんじゃないか。
その人は、ただその人だったってだけなんじゃないか。

見えないところで何をしていようと、
表でどんな振る舞いをしていようと、
その人は、ただそういう人だったんじゃないか。
そう信じるのは、難しいだろうか。

人生の重さ、悲しさ、辛苦を抱えて、
涙を流しながら生きてきたすべての人を讃える大傑作だとおもった。

陳腐な言葉だけど、
自分自身と徹底的に向き合うほかないんだ。


『カノン』を観た。
中島広稀、主演。
劇中にも出てくる言葉だが、「愚直」というコトバがこれほど似合う俳優を、僕は他に知らない。

さらに、彼には愚直、というだけではない魅力がある。
それは背負う力。
人を、運命を、受け入れ、背負う力。
だから、ぴったりの役だったね。

高崎芸術劇場での大千秋楽を観た。
昨年の中止など、幾度とない危機を何とか乗り越えてきた芝居。
多くのカンパニーが危機に瀕しているので、この座組みだけが特別だなんて言わないけど、それでもカーテンコールの景色は、胸に迫るものがあった。
天井が広くて、とても良い劇場だった。

もっと扇動的な戯曲だと僕は思っていたから、
まさかああやって未来を託すとは予想外だった。
もっと革新的な、前衛的な芝居かと思っていた。
新しいとは、思えなかった。斬新でもなかった。
このことは、良し悪しではない。

僕にも、いつか子どもが出来たなら、
あのような世界の捉え方になるのだろうか。

諦観で、終わっていなかった。


分かったようなことを、誰にも言われたくない。
僕だけのものだから。
この悲しみも。この苦しみも。この痛みも。
喜びも。景色も。

頭痛が止まらない。
低気圧のせいだと思う。

いや、このままでは、世界は閉じたままだ。
「コミュニケーションとは、手を伸ばすこと。」
尊敬する人の言葉だ。
自分からも、手を伸ばすこと。
忘れないこと。

また書くよ。
伝わる、変えられる、届く、と信じること。
祈ること。
変えられない、と気付くこと。

暗いなあ。


ユダヤ人哲学者、ハンナ・アーレントが
『“孤独”と“寂しさ”は違う。』
と言っていたらしい。


孤独はあらゆる創造的行為にとって必要なものだ。
孤独である時、人は自分自身と一緒にいることができる。
自分自身と語り合うことができる。
それに対し、寂しさを感じる人間は、際限なく他人を求めるが故に、自分自身のもとにあることができない。
自分自身と語り合うこともできない。
そしてそれはつらい経験である。


本当に、人生は、とことん思い通りにはいきません。



もう一度、沈殿しようかなあと思う。
沈殿というのは、底に沈む感覚だが、
それは必ずしもネガティブなものとは限らない。
澄みきった場所かもしれない。
深海は綺麗な場所かもしれない。

I MISS YOU!
I LOVE YOU!
AND I LOVE YOU!

Mr.Childrenは
『and I love you』のタイトルをつけた理由として、
「『I LOVE YOU』は尾崎豊さんの名曲が既にあるから」
と何処かで書いていた気がするのだけど、

『Your Song』は、同名曲として
エルトンジョンがいるけど、
それはいいのかなあ。


いい文章を見付けた。
「愛することは、侵入すること。」
今は、この価値観がストンと腑に落ちる気がする。
生きることも。

そもそも、侵入しちゃいけないものなんだ。
そこを何とか、侵入していくんだ。


さあ、あなたは、僕に何をしてほしい?


おっと、歌おう。踊ろう。騒ごう。

もっと優しくなりたい。


手遅れじゃない。手遅れじゃない。
まだ間に合う。
偽物だとしても。本物じゃなくても。
すべて嘘でも。



今日も僕は、ひとりだ。


あなたも、そうならいいのに。


ポジティブな言葉で締め括りたいのに。


日々は向こうからやってくる。


愛、希望、夢、勇気。


言葉は魔法だなあ。


家を出る前、すがるように、その日頼る本を決める。
何か一文でも、ぼくを助けてくれるかもしれないという、
一縷の望み。


In dreams begin the responsibilities
夢の中から、責任は始まる。

イエーツ。海辺のカフカ。


そうだ。

あっ。

サウナへ行こう。
ビールを呑もう。
遊びに行こう。
外に出よう。
歩こう。
映画を観よう。
空を仰ごう。

ちょっと、立ち止まって。
それなら、あなたにも出来るよ。

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