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想像力の欠如


朝のニュース番組をザッピングして観る。
テレビを避けていたけど、久し振りに。
語られていることの専門家でないゲストコメンテーターが出て来て発言をした瞬間にチャンネルを変える。
博多華丸大吉さんの意見は聞く。
パッパッとチャンネルを変える。
甲子園球児の涙が心に痛い。
人生の全てを賭けて望んでいたイベントが眼前で理不尽に消滅する。



本当に可哀想だ。
同情しようにもしきれない。

2020年5月20日放送の『グッとラック!』を観た。

ホリプロ堀社長のインタビューの後、エンタテインメント、文化芸術に関するスタジオトーク。

ひろゆきさんの、発言。
ここに全てを書く訳にもいかないけど、というか、気分が悪くなるだけだけど、とてもショックだった。

テレビを観るたび、体調に良くないと思う。
みんな、テレビには気を付けて。
情報は精査して。


何も分かっちゃいない。文化芸術に対する理解が全くないことに驚いた。
と言うと、突き放していることになるのと、同じスタンスを取っていることになるので、そうは言わない。

この"分かり合えない""知らない""うざったい"という、断絶のポジショントークに持ち込むことそれ自体が、人の尊厳とか、理解とか、自分とは違う他者に対する決定的な想像力の欠如だ。

この番組では鴻上尚史さんが、最近では映画界では濱口竜介監督や深田晃司監督が繰り返し仰っている。

「これは、映画や演劇だけの話ではない」


中々伝わらない。

文化芸術、映画、演劇を守ることは、ひいては自分の生活と尊厳を守ることである。
そして、"余裕のある人が、すこしでもその余裕をシェアすれば良い"だけだ。

すぐに分断が起きる。諍いが起きる。
自分とは違う他者を認めることは、そのまま自分を認めることにも繋がるのではないだろうか。


僕らは今、相手のことを慮り、想像する力が余りにも欠けてしまっていると思う。

例えば、LINEで。

僕は、全く無表情で「ありがとう」と打っている時もあれば、泣きながら「ありがとう。」と打っている時もある。本当に「ありがとう!」と思って、ありがとう!と打つ時もある。

スタンプは、かなり親しくない限りは、安易な使い方にしかならない。
"軽い"ことを前提に作られているから。

今、目の前にいる人は、昨日親族が亡くなった人かもしれない。



僕のこのnoteの表紙の写真。
いつ何処でどのように誰とどんな瞬間にどんな感情で撮った写真なのか分かるだろうか。
そこにどんな気持ちがあるだろうか。

画面の向こうには人がいる。

人は、もっと深くて、もっと何を考えているか分からなくて、あなたの想像力の範疇にだけは留まらない。

想像通りであってほしいと願うのは無駄ではないとは、おもう。

僕も、そうだ。あらゆることを想像出来ない時ばかりだ。


余裕のないときは人に優しくなんて出来ない。
自分を傷付けてくるような、あるいは、何も分かっちゃいないな、分かってもらいないだろうな、という相手とは、対話するのも嫌になって、うんざりする。

心ない発言をしてしまったと、いくつもいくつも悔やんでいるけれど、あの時はごめんねと素直に言えない。


いつからこんなに、みんなお互いをお互いの想像の範疇にだけ留めたくなったのか。

ファシズムの温床である。

それを相手にする大衆歌も大衆演劇も大衆映画も、想像力のない人に合わせて作らざるを得ないのが、さらに悲しい。

みんな全く自分に余裕がない。
繰り返すけど、僕だってそうである。
パッとパッとチャンネルを変えちゃっているのだから。


もちろん、わざと騙したり欺いたりする必要はないよ。

映画『東京マリーゴールド』より


「イメージっていうのはね、差別なんだよ」

もっと優しい人間になりたい。

そしてまた悲しいニュースが届いて、受け止めきれない。関連情報は詳しく調べない。
事実がどうだったかは、分からない。
本当に、弱い人というのは、この世に存在する。

ああ、岡崎育乃介くんの作っている『菌未来』の1話。素晴らしかったな。
このシーンの為に、この画を撮る為に、それに向かって作るんだ、という志がある作品は強い。

勝手に貼っちゃいます。

毎日違う気持ちになるから、昨日の自分が古い。

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