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古代史:中国に到達した先遣隊 (3)

北イスラエル10部族は敦煌に宿営地を設けたのちも、さらに東を目指すことになります。ただ、敦煌はちょうど半分の行程で3千数百Kmで、しかも中国は春秋戦国時代だったので、先遣隊がそのまま東に突撃をするようなことはせずに後続部隊を待って、その後慎重に東へと進んだものと考えられます。

次に向かったのは東に1,100kmの蘭州(甘粛省)です。Google mapによれば徒歩11日の距離です(寝ずにですが、苦笑)。ここは今では漢民族に次いで回族(イスラム教徒)が多いところだそうでテュルク人(トルコ人)などもいるようです。アフガニスタンのタリバンがユダヤ教からイスラム教に改宗しているのと同じようなことが起きたのかもしれません。

さらに東の洛陽に向かいます。やはり約1千Kmの距離です。周が分裂して春秋戦国時代を迎えても東周として残っており、洛陽(洛邑)は都でした。

そしてついに中国での最大拠点を形成することになる開封(河南省)に向かいます。わずか200km、44時間の距離です(Google mapで寝ずにですが)。開封は春秋時代には鄭の領域で、それに続く戦国時代は魏の領域でした。ちなみに開封はのちの宋の時代には東京と呼ばれていました。
この開封で最大のイスラエルコミュニティをできるのですが、アフガニスタンに残してきた本隊を呼び寄せなければなりません。そしてその後、この本隊とともに日本に渡ってくることになります。

先遣隊が開封入りした年代は諸説あるようですが、私はBC7世紀前半(BC680年前後)と考えています。根拠は希薄ですが、明治政府が定めた皇紀元年がBC660年だからです。つまり、神武天皇が即位したのは開封時代からの歴史でカウントしているのではないかと思うのです。

先遣隊が開封に到着をしたことの報告を受けた本隊は、大人数の本隊を動かす計画を練ります。
本隊には北10部族の全部族がいます。エフライム族やマナセ族もです。老人、女性、子供もいます。

アフガニスタンから東


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