ごめんよ、ムスメ
小学生の頃。
毎朝「早くしなさい」と母から言われていた。早く、はやく。
母が厳しい人だったわけではない。わたしが学校に行きたがらなかった子供だったわけでもない。むしろ学校は好きだった。なのに本当に毎日言われていた。早くしなさい、と。
わたしは朝、ランドセルを背負って靴を履くまでがとてもマイペースだったと思う。基本的には落ち着きのない、おしゃべりでおませでくるくる動き回ることが大好きな子供だったと思うのだけれども、朝の登校前だけはテキパキと動けなかった。
睡眠不足だったわけでも体調が悪かったわけでもない。ただ、【朝】は全てがわたしを捉えて離さないようなところがあった。ほんの一瞬のうちに意識が持っていかれてしまうような。自分が意識していないところに何故かついつい想いを馳せてしまう、そんな不思議が朝にはあった。
例えばお箸でお茶碗のご飯を掴もうとするとき、例えば床にお尻をついて靴下を履こうとするとき、例えば顔を上げて時計の秒針をついうっかり見てしまったとき。
母曰く「あ、また止まった」。
わたしは唐突に自分の世界に入ってしまう。お箸の先にある米粒の形が一粒一粒微妙に違うことに心を奪われる。靴下を履こうとした視界の先にある畳の目の広がりに思考を奪われる。時計の秒針の滑らかな動きに宇宙の神秘を連想する。
時間にすれば長くても数秒のことだけれども、わたしは朝の貴重な時間に動きを止めてぼんやりとしている。母からすれば「どうしたんだろうこの子は」と訝しい気持ちだったに違いない。思い返すのは、我に返った瞬間に呆れたようにわたしを見つめる母の顔だ。その口元はもう「早く」の形に開かれようとしている。
小学生の頃のわたしは、毎朝何かに心を持っていかれがちだった。今日こそは、と意識してご飯を食べ終わって安心していても、やっぱり靴下を履くときに畳の目を見て空想の世界に入ってしまう。いや、空想というわけでも無いんだけど。思考に走ると言うのかしらあれは。何の意味もない虚無の思考?そんな感じ。
あれから数十年の時を経てわたしは母になった。そうして今現在、小学2年生のムスメがあの頃のわたしと同じような朝を繰り返している。
なるほど、あの時の母はこういう気持ちだったのかと申し訳ない気持ちになる。と同時にムスメの気持ちもよくわかるのでなんとなく切ない。
わざとじゃないんだよね。知ってる、気をつけようとしてても一瞬の隙を突いてぼんやりモードに入っちゃうんだよね。知ってるのよ、ママも同じだったから。
でもこの忙しい朝にそのぼんやりを見守っていたら、娘は登校班の集合時刻に遅れてしまう。何よりもムスメの朝食が終わらないことにはその後の身だしなみチェックも出来やしない。
「パパッと食べようね」「はいお水飲んで」「ごっくんしたら立つ!替えのマスク持った?」「やらなきゃいけないことを順番に考えて?ご飯を食べたら給食セットをランドセルに入れて、ハンカチとティッシュ持った?今日のヘアゴムはどれにするの?7時19分になったら靴を履くために立ち上がる!」
毎朝わたしにそう言われて、毎朝ムスメはちょっぴり悲しそうだ。そんなに言わなくてもわかってるのに、きっとそう言いたいのだろう。でも娘は言わない。自分が注意される理由を自覚しているから。わかっているのに注意されてしまう、そんな自分にも何か思うところがあるかもしれない。
ごめんよ、きっと世界で一番ムスメの状況がわかるのはわたしのはずなのに。わたしも毎朝同じ状況を過ごしていた。でもごめんよ、ママにも「こうすればスムーズに出来るようになるよ」って方法がわからないんだよ。ママもそれが出来ないまま小学生を終えてしまったから。
今朝もちょっぴり悲しそうな顔でムスメは玄関を後にした。登校班でお友達と合流してしまえば、きっとすぐに楽しい気持ちに切り替わってしまうだろうけれども。
「きつい言い方になっちゃってごめんね、実はママも子供の頃はぼんやりしちゃいがちだったんだよね」と言ってあげようと思ってはいるものの、やっぱり朝のバタバタ時間の最中は(最初は優しく笑顔で言っていても)急かすような物言いになってしまって自己嫌悪。あーあ、状況も気持ちもわかるのに「ママは私のこと何にもわかってない」みたいに思われてるのかな。そんなことないつもりなんだけどな。
でも謝ったら謝ったで「ママは悪くない、ぐずぐずしてる私が悪い」って言いそうなムスメ。そこらへんの気遣いはちゃんと出来る小学2年生。すげぇな。
今日こそは、帰ってきてからちゃんと「毎朝言い過ぎちゃってごめんね」って言おう。
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