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龍樹『中論』および仏教の開祖釈迦の「中道」について
【参考資料】
冒頭のこの部分は次に書く龍樹『中論』および仏教の開祖釈迦の「中道」についての参考資料。
龍樹『中論』についての過去の連ツイ↓
私はこんなこと↓を2013年8月につぶやいている。https://t.co/A9IJm4CZ3c
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 5, 2019
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竜樹『中論』第九章
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 5, 2019
六「一切の見るはたらき等より先にある何物も存在しない。また見るはたらき等の互いに異なることによって時を異にし表される」
↑これはおよそ二千年前に語られた相対性理論である。
七「もし一切の見るはたらき等よりも先なるものが存在しないならば、どうして見るはたらき等の一つ一つよりも先なるものが存在しようか」
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↑「見るはたらき」とは「光速」を意味している。
竜樹はアインシュタインと同じ疑問を抱いていた。
人間の「認識能力」では超えられない光速の壁だが、量子力学的には超えている。
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それは「自我=分節=観測者」がないからである。https://t.co/gvRISJVIHo
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この連ツイ↑はこれ↓から始まっています。
『相対性理論において「立場」は「無化」できない、ただ量子力学的に「超える」ことができるだけである』
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についての仏教哲学的、物理学的考察。
「立場=時空間におけるある立ち位置」から見ると時空は相対的なものであって絶対的なものではない、というのが特殊相対性理論。
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物質は時空を歪ませて重力場を形成し引力を発生させる、というのは一般相対性理論。
「万有引力とはひき合う孤独の力である」by谷川俊太郎
すべての存在は相対的なものであってその「立場」によって時空を歪めている。
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すなわち、すべての存在はその「立場」を無化することはできず、時空を歪め、重力場と引力を発生させている。
…と、ここまでが相対性理論の「科学的に正しい」見解である。
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だが、相対性理論では「光速を超えて相互作用する」量子もつれの不思議な振舞いを説明することができなかった。
…が、これは実験によって正しいことが証明されてしまった。理論はまだない。
「観測によって確率から確定する」という「観測者問題」にトラップされているせいである。
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「観測する主体=自我」などそもそも存在せず、自我が錯覚や幻想にすぎないとしたら、「観測者問題」もまた錯覚や幻想にすぎないことになる。
つまり「無我」であり「縁起」であり「無常」ということである。
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「観測者がいる」というのは世俗諦に当たる。
しかし量子力学では遠く離れた量子AとBは「同じものである」。これが勝義諦。
つまり相対性理論はいまだ世俗諦の範疇で、量子論は勝義諦の範疇になる。
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「自我」という「時空におけるある立ち位置=立場」から事象を見る限り、すべては相対的で歪んでいるし、光速は超えられない。
すべての「認識」とはそのようなものである。
↑ちょっとツイの前後を入れ替えました。
別の連ツイもまだまだたくさんあります↓
「中論は相対性理論どまりで量子力学的な矛盾の解決には至っていない」というのが私の中論批判の骨子です。
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中観派の「空」が「短い棒というのは長い棒との比較があって初めて成立する『相互依存』的なものである」という見解は仏教界各派のほぼ統一見解であると思われますが、
これはまさしく物理学における「相対性理論」そのものです。
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しかし相対性理論では量子の奇怪な振舞いを説明することはできず、むしろそれらは「華厳経」で語られたインドラ網の例えや重々無尽、多即一でもって説明可能となります。
物質の最小単位である量子レベルになると、遠く離れた量子AとBは「別のもの」ではなく同じもの(多即一)なので光速を超えて「同時に」振舞うわけです(インドラ網)。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 5, 2019
【五蘊皆空と量子論の続き】竜樹『中論』第九章 六「一切の見るはたらき等より先にある何物も存在しない。また見るはたらき等の互いに異なることによって時を異にし表される」←不確定性原理の誤用で、観測者が「見たら」状態が確定するとしばしば間違って解釈されることがある。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 17, 2013
wiki「観測者効果」↓http://t.co/Oc5uXdUTzq
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 17, 2013
この観測者効果の誤解から、欧米型の奇妙な人間中心主義や人間原理が生まれてきた。これは進化論に対する創造論になにやら似ているw
wiki「人間原理」↓http://t.co/R1hAP4HjzE
「時間が過去から未来へと進むのは、人間がそのような時間の流れる宇宙しか観測できないから」←こういって人間原理に反論したホーキングに私は賛成する。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 17, 2013
これはまた「人間は洞窟の壁に映る影を見てそれが実体であると思い込んでいるに過ぎない」というプラトンのイデア論でもある。
wiki「プラトン 洞窟の比喩」↓http://t.co/ZsHgqfgA30
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 17, 2013
竜樹は「その先(光速より先)はない」といったが、他ではたとえばプラトンもシャンカラの不二一元論も華厳経も「その先ではすべてはひとつとして存在している」と策定している(ように思われる)。
新プラトン主義のプロティノスはそこのところを「物質界は(すべてはひとつからの)流出である」と捉えていた。スピノザは「神即自然」で「神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因」と考えた。この両者の考え方は仏教の「如来蔵思想」に極めて近い。またイスラム神学のアヴェロエスにも。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 17, 2013
(アヴェロエス)「神は何処にもいない。ただ、その働きが空気中のありとあらゆるものに拡がり及ぶだけである。神はそれ自身の中に在る。神が空間中に在るのではなくて、寧ろ空間が神の中に在るのである」
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 17, 2013
もう一度繰り返す。
「神が空間中に在るのではなくて、寧ろ空間が神の中に在るのである」
科学思想は進化するものである。したがって常に完成形ではない。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 17, 2013
かつてはゼロや負の数、虚数は「存在しないもの」として扱われていたが、今ではそれなしで世界の正確な記述はできないことがわかっている。ニュートリノは人間の五感では観測され得ないが存在しないわけではない。
ニュートリノが認識できないのと同じように、人間の感覚器官(五蘊)では逆向きに流れる時間を認識することができない。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 17, 2013
認識できないからといって存在しないというのなら、虚数の否定や天動説となんら変るところがないw
311以降、その程度の科学者がゴロゴロいることがばれてしまったw
【本題】
まず先にわたしの大量の過去ツイを見ていただいた上で、ここからやっと本題に入ります。
過去ツイでつぶやいているようにわたしは龍樹の『中論』を物理学的にみて「相対性理論どまりで量子力学にまで到達していない」と批判してきました。
で、実際に『中論』を物理学的に読む限りではこの批判は間違っていないと今もそう考えます。
ところでわたしはそもそも開祖釈迦の「中道」をあくまでも倫理的なものであると判断し、龍樹の『中論』を物理学的問題としてとらえてきたのですが、その両方を倫理でも物理でもなく論理学としてとらえなおすとまた違った局面が見えてくるらしい…ということにこちら↓を読んでいて気がつきました。
そうなると開祖お釈迦様は「中道」というものを倫理や道徳として唱えたわけではなかったことになります。ふむ…
というわけで「中道」や『中論』を時間論・存在論のアプローチで読み解く必要が出てきました。
ところで仏教的時間論といえば道元の「有時」ですね、なんといっても。
道元の「有時」についても過去につぶやいてます↓
.@kiyokostar 道元の金身の話は『正法眼蔵』の「有時」に出てきます。そのタイトルどおり、この巻では道元の時間論が展開されています。「それ尽界をもて尽界を界尽するを究尽するとはいふなり」が仏の世界であり時間であると述べられています。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) November 15, 2012
.@kiyokostar 「凡夫が金身である」は「この時この有は法にあらずと学するがゆえに丈六金身はわれにあらずと認ずるなり。われを丈六金身にあらずとのがれんとする、またすなはち有時の片片なり未証拠者の看看なり」というくだりで語られています。道元さんにもわかっていました。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) November 15, 2012
.@kiyokostar 道元さんになにがわかっていたかというと、「仏の目でみれば今この時にも凡夫の姿に進化した未来の時の丈六金身の仏が重ね合わせで存在していること」でした。彼が書いた『正法眼蔵』にはっきりとそう書いてある。鎌倉新仏教恐るべし(笑)。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) November 15, 2012
つまり道元の心眼には時が重ね合わせの状態で見えていた。
実際に霊やオーラみたいに「視えていた」かどうかまではわからないけど、道元は「時」や「存在」をそのように認識していたらしい。
一方で龍樹の認識では「見るはたらき(=光速)より先にモノは存在しない」と、これは『中論』にはっきりそう書いている↓。
竜樹『中論』第九章
六「一切の見るはたらき等より先にある何物も存在しない。また見るはたらき等の互いに異なることによって時を異にし表される」
だからこう書かれている以上、わたしは今でも龍樹が「相対性理論どまりで量子力学までたどり着けていない」という結論を変えるつもりはないんです。あくまでも物理学的にみて、の話ですが。
けれど清水高志氏によると、論理の話として
《a》でも《非a》でも《aかつ非a》でもない第四の「テトラレンマ」
というのがあり、どうやらこれが量子力学的同時存在を意味しているらしい。
そうなってくるとやはりこれも華厳経におけるインドラ網やら重重無尽やら多即一・一即多あたりに結びついてくるようです。
西洋哲学ではまず「存在」があり、存在と存在の間に「関係」が生じるとされるが、東洋哲学(仏教哲学)ではまず「関係」があって「存在」が浮かび上がる感じ。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) February 10, 2022
それを以前カニッツァの三角形で説明したことがある↓。https://t.co/BVzQ9j1rEC
これはまさしく物理学における「相対性理論」そのものです。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 5, 2019
しかし相対性理論では量子の奇怪な振舞いを説明することはできず、むしろそれらは「華厳経」で語られたインドラ網の例えや重々無尽、多即一でもって説明可能となります。
物質の最小単位である量子レベルになると、遠く離れた量子AとBは「別のもの」ではなく同じもの(多即一)なので光速を超えて「同時に」振舞うわけです(インドラ網)。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) August 5, 2019
…と、ここまで書いても「はたして開祖釈迦は倫理の問題としてではなく論理の問題として中道を説いたのか、龍樹は『中論』第九章とは別の箇所で量子力学的見解を元に論を展開したのか」についてまだなんとも判断出来ずにいるわたしです。
あ、今回のこの記事もビミョーに映画『メッセージ』の決定論↓と関係あります。
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