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龍樹『中論』および仏教の開祖釈迦の「中道」について

【参考資料】

冒頭のこの部分は次に書く龍樹『中論』および仏教の開祖釈迦の「中道」についての参考資料。
龍樹『中論』についての過去の連ツイ↓

この連ツイ↑はこれ↓から始まっています。

↑ちょっとツイの前後を入れ替えました。
別の連ツイもまだまだたくさんあります↓


【本題】

まず先にわたしの大量の過去ツイを見ていただいた上で、ここからやっと本題に入ります。
過去ツイでつぶやいているようにわたしは龍樹の『中論』を物理学的にみて「相対性理論どまりで量子力学にまで到達していない」と批判してきました。
で、実際に『中論』を物理学的に読む限りではこの批判は間違っていないと今もそう考えます。
ところでわたしはそもそも開祖釈迦の「中道」をあくまでも倫理的なものであると判断し、龍樹の『中論』を物理学的問題としてとらえてきたのですが、その両方を倫理でも物理でもなく論理学としてとらえなおすとまた違った局面が見えてくるらしい…ということにこちら↓を読んでいて気がつきました。

そうなると開祖お釈迦様は「中道」というものを倫理や道徳として唱えたわけではなかったことになります。ふむ…
というわけで「中道」や『中論』を時間論・存在論のアプローチで読み解く必要が出てきました。

ところで仏教的時間論といえば道元の「有時」ですね、なんといっても。
道元の「有時」についても過去につぶやいてます↓

つまり道元の心眼には時が重ね合わせの状態で見えていた。
実際に霊やオーラみたいに「視えていた」かどうかまではわからないけど、道元は「時」や「存在」をそのように認識していたらしい。
一方で龍樹の認識では「見るはたらき(=光速)より先にモノは存在しない」と、これは『中論』にはっきりそう書いている↓。

竜樹『中論』第九章
六「一切の見るはたらき等より先にある何物も存在しない。また見るはたらき等の互いに異なることによって時を異にし表される」

だからこう書かれている以上、わたしは今でも龍樹が「相対性理論どまりで量子力学までたどり着けていない」という結論を変えるつもりはないんです。あくまでも物理学的にみて、の話ですが。

けれど清水高志氏によると、論理の話として

《a》でも《非a》でも《aかつ非a》でもない第四の「テトラレンマ」

仏教哲学の真源を再構築する ― ナーガールジュナと道元が観たもの

というのがあり、どうやらこれが量子力学的同時存在を意味しているらしい。
そうなってくるとやはりこれも華厳経におけるインドラ網やら重重無尽やら多即一・一即多あたりに結びついてくるようです。

…と、ここまで書いても「はたして開祖釈迦は倫理の問題としてではなく論理の問題として中道を説いたのか、龍樹は『中論』第九章とは別の箇所で量子力学的見解を元に論を展開したのか」についてまだなんとも判断出来ずにいるわたしです。

あ、今回のこの記事もビミョーに映画『メッセージ』の決定論↓と関係あります。


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