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映画『メッセージ』と親鸞の決定論
【親鸞の決定論】
「決定論」に関してはXでかなりの数をつぶやいている。
そのうちで親鸞の決定論についてのXにおける最初の言及は2011年9月末のこれ↓。
(もともと私は強く自由意志を認めない決定論の立場で、実は「人の死ぬ時期さえ決まっている」と思っている。『歎異抄』で親鸞もそういっているとおり。それ以外ではこの脳科学的理由からも→ http://t.co/kV3gOlaq )
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) September 30, 2011
ツイ数が圧倒的に増えたのは2011年3月からなんだけど、親鸞の思想に接近し始めたのは母が亡くなった頃から。うちは母方も父方もたまたま宗派が「おひがしさん」だったので。
その頃はXではなくすでに消滅したブログにせっせと書いていた。
私が「控えめに言ってどちらかというとかなり強めの決定論者」になったのは、すべてではないが親鸞の思想に負うところがかなり多い。特に『歎異抄』のこれ↓。
「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」(『歎異抄』十三章) ←親鸞の決定論。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) June 20, 2014
先に「母が亡くなってから」と書いたけど、ちなみに私は母親譲りのヨチマー↓です。
たとえば、夢でみたとおりに人が亡くなったりするようなことが実際にあります。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) June 20, 2014
そうすると、つい「わたしがなんとかできたんじゃないだろうか」とか「もしかしてわたしのせいじゃないだろうか」とかの自責の念にとらわれるんです。
恐い夢を見るたびにこれが現実となりませんようにと祈ったり。
↑これまで何度かこんなことがありました。
その対処法および治療法として「決定論」というのが出てきた↓。
そういうことが何度もある。そのうちに夢のパターンがわかってきた部分もあるけど、なぜそんな夢をみるのかという意味自体を考えるうちに、どうしても決定論のほうに傾く。考えれば考えるほどそっちのほうが正しいとしか思えない。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) June 20, 2014
それに決定論のほうが最終的には楽なんです。みんなおまかせで。
そんなわけで親鸞の「他力決定論」というのが夢で未来の出来事を見てしまう私にとってとても強力で頼もしい存在となりました。
↓以下に親鸞の決定論について書いた大量の連ツイをコピペします。
親鸞は決定論者で、だからこその「他力」でした。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 30, 2020
「運命を自分でどうにかできる」と思っているのならそれは「自力門」です。禅とかの。https://t.co/9KmCBoCEn3
なので、親鸞の思想を語るなら親鸞のこの「決定論」と「他力本願」との関りがきちんと整理されていないと論理に断絶が生じてしまいます。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 30, 2020
つまり、「運命は自分の力では如何とも変え難い」と考えるなら「他力」に向かわざるを得ず、さもなくば変え難い暴流の中を死ぬまで翻弄され続けることに。
追加で。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 31, 2020
「運命は自分の力では如何とも変え難い」←親鸞は「兎の毛の先の塵ほども変える余地がない」というたいへん強い決定論者でした。で、ここで論理の飛躍が起こります。
つまり、「宿業が決まっているなら弥陀の本願も決まっている」という論理ジャンプなのですが、
「ふつうの人」あるいは現代人の大多数は「宿業=弥陀の本願成就」をつなぐ「=」の橋にまったく論理的整合性を見出せない。つまり、論理的には宿業が決まっていても弥陀の本願成就まで決まっているとはいえない、ということです。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 31, 2020
ところで、唐突ですが以前私は「宇宙人というのはいない、グレイとかは遠い未来に時空を旅する技術を獲得した人類の進化系である未来人がタイムトラベルしてきたものである可能性が高い」とつぶやきましたw
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 31, 2020
実際にこの説を支持する人が欧米のエイリアン研究者でも増えつつあるみたいですw
つまり、この話を親鸞にあてはめると「遠い未来に超越的なテクノロジーを獲得して究極の進化を遂げて阿弥陀如来となった存在はすでに時空を超えて存在しており、それゆえその救済が私にもやってくるのだ」と考えていたことになります。「タイムトラベルがすでに可能となった未来」ということですw
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 31, 2020
私もまた「そういうことはありうるかもしれない」と思っているので、私にとって「親鸞の論理ジャンプ」はさほど理解しがたいものではありません。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 31, 2020
たぶんまだ猿の段階にとどまっていて、猿と同程度の認識能力しか持たない人々には「タイムトラベル」が可能などとは考えられないでしょうが。
「全てはすでに起きていて(つまり決定論)、ただ猿なみの認識能力しか持たない現生人類は時系列、空間的距離によってしかそれを知覚することはできない」ので、もうちょっと進化するとそういうのができるようになるかもしれませんし、進化する前に滅んでしまえばそれは不可能ですが、
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 31, 2020
いずれ別の生き物、たとえばゴキブリなんかがその段階にまで進化してそれを実現するかもしれません。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 31, 2020
ただ、タイムトラベルが可能になった未来の進化した人類が現生人類を「救う」か「滅ぼす」か「ほったらかしておく」かについては不明です。不要だったら滅ぼすでしょうし。
それでもゴキブリやカマキリが進化した未来でべつにOKなんじゃね、と私は思います。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 31, 2020
親鸞は「進化した未来人である阿弥陀如来による救済」を信じていました。それは「進化した未来人による極楽浄土と呼ばれるパラダイスみたいな場所」によって起きるみたいです。
「そういう場所が(未来とか並行宇宙とか別次元とかに)あってもべつに不思議ではない」と私も思います。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 31, 2020
こういうふうに、SFっぽく読めば古臭い仏典もたいへん興味深く読めます。
私のオススメは『維摩経』ですw
【映画『メッセージ』と決定論】
で、ここで唐突ですが、わたくしさいきん映画『メッセージ』というのをアマプラで視聴しました。
けっこう話題になった作品なので見た方も多いんじゃないかと思いますが、私は松岡正剛さんが千夜千冊でこの映画の原作者であるテッド・チャンさんの『息吹』回↓で取り上げて紹介されていたので探したところアマプラで見れることが判明。
監督はドゥニ・ヴィルヌーヴで、この方は『DUNE/デューン 砂の惑星』(2021版)の制作・監督もしている。
この『砂の惑星』とか『最後にして最初の人類』とか『メッセージ』とかの「哲学的SF映画」における宇宙論や時間論のテイストは超絶私好みです(よだれ)。
で、メッセージの原作者であるテッド・チャン氏もまた「かなり強めの決定論者」だそうで、そこらへんのことは松岡さんのところでも書かれているけど、大森望さんとの対談で御本人が語られたものがあるので以下に転載↓。
…脳は物質でつくられており、物質は古典物理学の法則にしたがってふるまう。だとすれば、ある時点におけるシステムの状態は、その直前の状態によって決まる。そういう決定論の考え方とと自由意志とは両立しうると考える人もいるし、決定論などまったく受け入れられないと思う人もいる。僕自身は、決定論の主張には大きな説得力があると思う。しかし、最大の問題は、未来についての情報を得られた場合、人間がどうふるまうかだ。
映画『メッセージ』でも主人公および遭遇する宇宙人は予知能力を持つ存在として描かれており、そのような未来予知が成立しうる理論的バックボーンに哲学的・物理学的(もしくはオカルト的な)時間論が存在しています。
それが私がツイートしたこのような↓親鸞の他力本願思想における決定論とどれほど近しいものであるかは、この映画を興味深く見た人ならきっとご理解いただけることでしょう、と手抜きして読者の皆様に「丸投げ」しておきますね(笑)。
この映画、ぜひ見てね、今ならアマプラでタダだから。
ところで、唐突ですが以前私は「宇宙人というのはいない、グレイとかは遠い未来に時空を旅する技術を獲得した人類の進化系である未来人がタイムトラベルしてきたものである可能性が高い」とつぶやきましたw
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 31, 2020
実際にこの説を支持する人が欧米のエイリアン研究者でも増えつつあるみたいですw
つまり、この話を親鸞にあてはめると「遠い未来に超越的なテクノロジーを獲得して究極の進化を遂げて阿弥陀如来となった存在はすでに時空を超えて存在しており、それゆえその救済が私にもやってくるのだ」と考えていたことになります。「タイムトラベルがすでに可能となった未来」ということですw
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 31, 2020
ちょっと話は変わって、原作者のテッド・チャン氏は両親の代で台湾から移住してきてアメリカで生まれた方だからか、東洋的な思想や文化からの影響が色濃く残っているように思われます(これには反対意見もありますが)。
映画の中で古典的タコ型宇宙人が墨を吐いて書く「非線形言語」にはさながら「高僧が描く円相」の趣がありました。
松岡さんちから引用↓
映画《メッセージ》は突如謎の巨大飛行体に乗ってやってきた宇宙人ヘプタポッドのメッセージを、言語学者ルイーズが解読していく物語。上の画像は10種類の映画ポスターで、飛行体が降り立った世界各地ごとにバージョンがつくられた。下の画像はヘプタポッドが主人公とコミュニケーションしているシーン。ヘプタポッドは言葉の代わりに黒い墨を噴出する。主人公ルイーズは黒い墨の微妙な波形の違いを解読し、時制にとらわれない非線形言語(ノンリニア・ヴァーヴァル)であることを突き止めるが、その過程で自分の過去・現在・未来の感覚が混交していく。
この「円相言語」といいグレイよりさらに古典的な「タコ型宇宙人」といい、この映画はビジュアル的にもちょこちょこくすぐられるポイントがあって私のツボにはまります。
この映画を見てからずっと、私の脳内には若かりし日の田中裕子さん(現ジュリーの奥さん)がささやく「タコが言うの」という声がこだまし続けているのは内緒にしといてください(笑)。
「時間論」もなんだけど、「非線形」というのも今回のこの記事のスピンオフみたいなのがあって、これまた後日、余力があれば書いてみたいと思います。
ここでは直接的に言及しなかったその他の評論も以下に載せておきます↓
ではでは、たぶんしばらく続く。
ああそうだ、言うの忘れてた。今日のこの記事は先日のこれ↓の「決定論」つながりです。
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