【補足資料】

(以下はググタスに書いたものの転載と、掲載したブログからの引用集となります。ずいぶん長くなりましたが、転載しておかないとググタスは来年八月で終了なので。)

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ある時点からこのような考え方をするようになってて、それで311以降も「生き残る・生き延びるつったって、個でもなければ種でもない、遺伝子だよね」と思ってて、「べつに人類が滅びたっていいじゃん、ほかの生き延びたのがまた繁栄して、ネズミやゴキブリが進化した高等生物になろうが」と思ってるんだけど、とにかくやたらと「生き延びろ生き延びろ」コールがすごくて、でも「それって阿頼耶識の暴流だよ…」と内心思わないではなかったんだけど、とにかくそっちの声のほうがあまりにもデカすぎて、まず理解されないですというか理解できる人が極端に少ないです。
それにこういうこというとしばしば人間性を疑われるのでw
でもね、ネズミもゴキブリも人間と同じDNAで成り立っている、ただしその配列が違うだけの同じ「生き物」なんだから、そっちが生き延びればそれはそれでいいんじゃないですか。なのにそうは思えないのは「阿頼耶識」に端を発する妄想ですよ…というあたりが唯識のスゴさです。
阿頼耶識と「利己的な遺伝子」|星月 空|note

『ネズミもゴキブリも人間と同じDNAで成り立っている、ただしその配列が違うだけの同じ「生き物」なんだから、そっちが生き延びればそれはそれでいい』っていうのは、利己的な遺伝子説で説明された「動物の利他行動」とも共通するものであり、なおかつ大乗仏教における「利他」とも大いに関係があります。
ただし「利己的な遺伝子」説において分析された動物の利他的行動は遺伝子生き残りのための戦略であって、その意味で「実数(物理)世界」だけが対象で、ドーキンスの嫌いな「虚数(霊的)世界」での解までは語られていません。
それが仏教哲学唯識思想における「阿頼耶識」の考え方との違いです。

いずれ書くと思いますが、数々の臨死体験報告によって、どうやら肉体から離れた霊体はあの世(虚数世界)に行くらしい…というのがかなり確実視されだして、また一方で転生者の証言というのもそれなりに集まってきており、とすると「転生する主体(=霊?)とは何か」という議論も深まってきています。
それが私が虚数概念に例えて語ろうとしている量子力学的な世界=霊的世界ですが、その思想的バックグラウンドには主に仏教哲学があります。
なので、何度も繰り返しますが「ドーキンスは絶対にそれを認めません」(笑)。

これとは別のnoteマガジンで親子問題についてとりあげてますが、それもまた「生物の遺伝子生き残り戦略」以外のなにものでもないわけで、わたしはそれを言っているのにもかかわらず「親子の情がうんちゃらかんちゃら」とか「古臭い儒教思想(=これもミーム)にのっとった序列思考」とか、正直うざいし「お前らアホか」でしかない。
繰り返しますが、単なる「実数=物理世界における生物生き残り戦略」の話をしているのではなくて「虚数世界を含む複素数解」の話をしているのです。
「ホンマにかなんわ~」というのが、二つのマガジンを始めた理由ですw

まあね、「結果がすべて」ではないように「生き残ることがすべて」でもないということです。
人はいつか必ず負けます。と同時に、人はいつか必ず死にます。
としたら、「結果」「生き残ること」もそれが「すべて」としてしまえば大量に零れ落ちてしまう大切な「何か」があるでしょ、ということです。

最初に量子物理学と仏教教理との類似性を言い出したのはチベット仏教のダライラマ法王です↓。

『30年前、私は宇宙学、神経生物学、量子物理学も含めた物理学、そして心理学に焦点を当てて科学者たちとの対話を始めました。』
そしてそれ以降定期的に科学者たちとの会合の場が設けられてきました。
「量子物理学と中観哲学の見解」についての会議…


チベット仏教僧になったフランス人生物学者マチウ・リカール氏もいます↓。
量子力学の爽快さ -量子力学と仏教哲学-

こういうの↓もあります。トカナですけどw
「量子論は仏教の教えと同じ」ダライ・ラマ14世が感動解説! “シュレーディンガーの猫”も一致、科学と宗教が統合へ!?

霊が見える人で、その能力が高かったとしてもその理論的裏付けが弱い霊能力者とか、いっぱいいます。
それはヨガやってたって「単なる健康体操程度でいい」と思っている人もいればインド哲学にまで進む人がいるのと同じです。
つまり選手となるか理論を学んで指導者となるかの違いです。
ダライラマ法王や多川俊映師に見霊能力があるかどうかはわかりませんが、その理論は間違いなく一流です。

やれ「悪いのはイルミだ、イエズス会だ、英国王室だ」「ウラだ、オモテだ、ホリカワだ」といったところで、それはしょせんこの世の善悪判断でしかなくて、そういうこと言ってると足元を掬われる。
やれ「山奥で自給自足すれば生き残れる」「大金持ちなので地下シェルターを作ったから自分たちは助かる」といったところで、それは利己的な遺伝子が発した「生き残り指令」に踊らされているだけにすぎない。
私はタラビッチ予言を311以降何度か紹介してきたのだけど、中でもとりわけ、

『人々は都市から逃げ出し、田舎に避難する。人々は十字が三つ並んだ山を探す。その中では人々は息をすることができ、水も飲むことができる。この中に逃げ込んだものたちは、自分も家族もともに救うことができる。だが、それは長くは続かない。なぜなら、すごい飢饉が襲うからだ。町や村には十分に食べ物がある、だが、それらは汚染されている。飢えた人々はそれを食べるが、食べたとたんに死んでしまう。早く死んだものたちこそ逆に生き延びるのだ。なぜなら、聖霊に助けられ神に近付くことができるからだ。』

の部分をもっとも多く引用してきた。
この中でもさらに、

『早く死んだものたちこそ逆に生き延びるのだ。なぜなら、聖霊に助けられ神に近付くことができるからだ。』

↑この箇所がもっとも重要だと考えてきたのだが、これが虚数解を含んだ複素数解であることに、ここまで言葉を尽くしても思い至らない人はきっとおおいんだろうなと思う。
「どこが生き残れる大陸だ」とかにばっかり目を奪われて。

ヤスの備忘録2.0 歴史と予知、哲学のあいだ 番外編5 ミタール・タラビッチの予言全訳

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【引用集】
リンク先からの引用です。太字は私、灰色の枠外は私の解説部分です。

仏教は、独立した実在の存在に意義を唱え、相反的な関係および因果性という考えに行き着きます。つまり、出来事というのは、他の要因との関連において、それに依存してのみ出現するのです。ー(マチウ・リカール)
観察行為がまったくない状況の下で存在する「客観的な」現実について語るのは意味がない。それは決してとらえられないからです。つかまえられるのは、観測者とその測定機器に依存する電子の主観的な現実だけです。この現実が取る形は、われわれの存在と絡み合っている。われわれはもはや、原子の世界の騒然たるドラマを前にした受け身の観客ではなくて、完全な演技者なんです。ー(チン・スアン・トゥアン)

↑「出来事というのは、他の要因との関連において、それに依存してのみ出現する」←これが仏教のいう「業縁起」であり、「空=相互依存性」に他なりません。

(量子力学が示すような現象の全体性をそのまま受け入れることは)仏教の基本的な方法なのです。単に知の方法としてではなく、人間的変革の実践としてもです。空性の理解へといたる分析は、一見きわめて知的に見えるかもしれないけれど、そこから生じる直接的認識は、私達を執着から解き放ち、したがって人間の生き方に深い影響を及ぼすのです。ー(マチウ・リカール)
言ってみればありのままの現実世界とは、我々人間の意識も含めて一体のものであり、決して切り離すことはできない。客観的事実があるなどという唯物論的な説明はきわめて粗野なものであり、非現実的ある。

↑つまりこれが「多即一」であり「虚部と実部を含む複素数解」ということ。

難解に思えた量子力学の原理だが、見方を変えればとても簡単なことだ。
物質とはモノではない。存在とは、確定的なものではない。本質的に不確定である。もし確定したかのように思えるなら、人間の意識が関与して存在を確認したという幻想を作り出したのである。

↑「もし確定したかのように思えるなら、人間の意識が関与して存在を確認したという幻想を作り出した」のところでやはり「幻想」という言葉が使われていますね。

フランス人研究者ミシェル・ビットボル教授が「量子物理学:相互依存とその見解を持たない立場」と題する科学の哲学についての論文を発表した。論文は、これまで提示されている形而上学的見解と本質主義という最も顕著に異なる二つを比較し、量子物理学のひとつの特徴である「量子もつれ」または「分離不可能性」は、仏教の相互依存の概念にきわめて類似していると述べた。

↑量子もつれと空(=相互依存性)。

デプン僧院ロセリン学堂のゲシェ・ガワン・サンゲ師が、「唯識派が主張する空の見解について」と題する論文を発表した。その中でサンゲ師は、唯識派の見解では、外界に存在する対象物には実体がないという対象物の空を主張していること、そしてその見解に至る理論展開とそれを裏付ける根拠について説明した。さらにサンゲ師は、すべての現象は意識に蓄積された習気(じっけ)が覚醒することによって現れてくる、という唯識派の主張について述べ、唯識派では、外界に現われてくるすべての現象は意識という同じ本質を持つものであることを主張していることに触れた。さらに、複数の人間が同時に一つの対象物を観測したときに観測者によって見え方が異なることにも言及した。

↑ここにも「唯識派」ですよ。
「外界に存在する対象物には実体がないという対象物の空」の強調です。

マシュー・チャンドランクンネル教授が「量子力学と中観仏教哲学に見る存在論と認識論」と題する論文を発表した。その中でチャンドランクンネル教授は、従来の物理学は観察者とは別個に存在する客観的、連続的な現象を扱うものであるが、量子力学における現象は、観測者が観測対象と融合しながら実際に観測対象に及ぼす影響を測定するときにはじめて存在するものである、と説明した。さらに、量子力学の議論の完全性の是非と、不可能性定理を介する否定は、物理現象についての存在論と認識論に深く介入するものであると述べた。これはまた、数学的理論によって現象を表現する可能性にも関係するものである。

↑「量子力学と中観仏教哲学に見る存在論と認識論」という論文だそうです。


生死が共存した状態で箱の中にいる「シュレーディンガーの猫」や、観測し始めると、その都度量子が振る舞いを変えていることが判明した「二重スリット実験」など、我々の常識を次々に覆しているのが量子力学(量子論)だ。この結果さまざまな領域で我々の現実認識が再考を余儀なくされているのだが、この量子論と仏教の教えが両立するものであると主張している人物がいる。ほかならぬダライ・ラマ14世だ。
■ダライ・ラマが宗教界と科学界の融合と協働を提唱
事あるごとに毛沢東はダライ・ラマに向かってもっと“科学的マインド”を持つようにと要求していたという。社会科学の力で中国社会の変革に着手している毛沢東にとって、このチベット仏教の宗教家はまったくの非科学的人物に映っていたということだろう。そして仏教が民衆に対して果たしている役割は認めながらも「宗教は毒だ」とまで口にしていた。これは19世紀の知の巨人、カール・マルクスが自著の中で言及した「宗教は民衆のアヘンだ」という言葉よりもさらに宗教に対する辛辣な批判だろう。
しかしダライ・ラマはむしろ興味をもって科学に触れていた人物であった。2015年11月にインド・ニューデリーで開催された科学と仏教・中観派の教義の融合を話し合うカンファレンスにおいて、自身と現代科学との関わりについて説明している。
「(1959年に)難民としてインドに来て、私は科学者を含むさまざまな分野の人々と話し合いの機会を得ました。そして30年前から宇宙論や神経生物学、物理学、量子力学、心理学に焦点を当てた一連の対話を行っています。専門家とのディスカッションはお互いにとってとても有益なものになりました」(ダライ・ラマ14世)
ここ数年、量子論は仏教やスピリチュアルの教えの正しさを証明するものであるという指摘が目立ってきている。マルクスや毛沢東の時代には相いれないものと考えられてきた科学と宗教は、最近になって急接近していると言っても過言ではないだろう。そしてダライ・ラマをはじめ、多くのスピリチュアル世界のリーダーたちが、宗教界と科学界の融合と協働を提唱しているのだ。

↑「ここ数年、量子論は仏教やスピリチュアルの教えの正しさを証明するものであるという指摘が目立ってきている」←これを私もずーっと言ってるんですね。しかしもうたくさんってとんでもない野郎でしたね。

■「量子論はナーガールジュナの仏教思想と同じ」
ダライ・ラマはこのほかにもこの会議のスピーチで、仏教の教えと量子論のさまざまな一致点を語っている。その中でも特に、インド人物理学者のラジャ・ラマナ博士とかつて交わした話がとても意義深いものであったということだ。
「15年から20年くらい前、ある会議でインド人物理学者のラジャ・ラマナ博士がナーガールジュナ(龍樹)の仏教思想と量子論との一致があまりにも多いことに驚きを禁じえ得ないと話してくれました。(インドの)プレジデンシー大学の副総長が以前、量子力学によれば客観的に存在するものは何もないことになると教えてくれましたが、これは瑜伽行派(ゆがぎょうは)と中観派の見解との一致を思わせるもので、特に物事は説明の仕方によってのみ存在するというナーガールジュナの仏教思想と同じものなのです」(ダライ・ラマ14世)
ナーガールジュナは大乗仏教における中観派の祖といわれ、“空”の思想を説いたとされている。“空”の思想によれば、物事には実体はなく、あるプロセスの途中の姿として認識(中観)されているだけであり、無でもなければ有でもない“空”であると論証している。
一方、量子論において例えば「シュレーディンガーの猫」は、人間が箱の中を“観察”してみることで初めて猫の生死が決定されると説明されている。つまり観察者の解釈によって、現実が形作られていることにもなり、もしそうであれば現実とはいかような解釈も盛り込める空の箱のようなものであるともいえる。
確かにナーガールジュナの思想と量子論は相通じるものがあるのかもしれない。
仏教理論と量子論との融合の試みはまだまだ始まったばかりといえそうだが、将来において科学と宗教が統合した暁には人類は次のステージに“進化”を遂げるのかもしれない。混迷を深める昨今の世界情勢だが、このような将来に大いに期待が持てる興味深い話題は、この世もまだまだ捨てたものでないと思わせてくれる。
(文=仲田しんじ)

↑「量子力学によれば客観的に存在するものは何もないことになると教えてくれましたが、これは瑜伽行派(ゆがぎょうは)と中観派の見解との一致を思わせるもので、特に物事は説明の仕方によってのみ存在するというナーガールジュナの仏教思想と同じものなのです」←瑜伽行唯識派ですね。それと空の思想の中観派。それにしてもダライラマ法王すごいです。


多くの数字が書かれた本を読んだり書いたりするものが、自分たちがもっともよくものを知っていると考える。これらの教育のある人々は、自分の人生を計算に基づいて送ろうとし、数値の命ずるままに行動する。こうした人々の中にも悪人と善人が存在する。悪人は悪い行いする。彼らは空気と水、そして河川や土地を汚染し、このため人々はさまざまな病気で突然と死ぬようになる。善人で賢いものたちは、彼らの努力にはなんの価値もなく、ただ世界を破壊するだけであることを悟り、数字に答えを見いだすのではなく、瞑想を通して真実を発見しようとする。
彼らが瞑想すると神の知恵に近付いて行く。だが、ときはすでに遅すぎた。悪意をもつものたちが全世界を荒らし回っており、巨大な数の人々がすでに死にはじめているからである。人々は都市から逃げ出し、田舎に避難する。人々は十字が三つ並んだ山を探す。その中では人々は息をすることができ、水も飲むことができる。この中に逃げ込んだものたちは、自分も家族もともに救うことができる。だが、それは長くは続かない。なぜなら、すごい飢饉が襲うからだ。町や村には十分に食べ物がある、だが、それらは汚染されている。飢えた人々はそれを食べるが、食べたとたんに死んでしまう。早く死んだものたちこそ逆に生き延びるのだ。なぜなら、聖霊に助けられ神に近付くことができるからだ。

↑タラビッチ予言です。
「多くの数字が書かれた本を読んだり書いたりするものが、自分たちがもっともよくものを知っていると考える。これらの教育のある人々は、自分の人生を計算に基づいて送ろうとし、数値の命ずるままに行動する。こうした人々の中にも悪人と善人が存在する。悪人は悪い行いする。彼らは空気と水、そして河川や土地を汚染し、このため人々はさまざまな病気で突然と死ぬようになる。善人で賢いものたちは、彼らの努力にはなんの価値もなく、ただ世界を破壊するだけであることを悟り、数字に答えを見いだすのではなく、瞑想を通して真実を発見しようとする。
彼らが瞑想すると神の知恵に近付いて行く。
」←終末期における科学者について語られていますが、善い科学者たちは「瞑想を通して真実を発見しようとする」というあたりが近年その通りになってきているだけに恐ろしいです。

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