阿頼耶識と「利己的な遺伝子」

前回、ドーキンスの「利己的な遺伝子」について言及した。今回はその続きということになる。

端的にいえば、ドーキンスの「利己的な遺伝子」とは唯識でいう「阿頼耶識」とほぼ同じものだ。
まず最初に、唯識思想研究の第一人者である多川俊映師による阿頼耶識についての説明を引用しておく。

過去のすべての行動情報をアーカイブする阿頼耶識の、その過去の範囲はほとんど茫漠としています。つまり、永遠にさかのぼる過去であり、私たち個々人の生きる基盤を提供する阿頼耶識は、その永遠の過去からのとぎれなき連続体だというのです。
それは、生の執着をついに捨てることができず、否むしろ、いよいよたぎらせた結果、転生をつづけて、ここに至ったという考え方です。
(『唯識とは何か 唯識三十頌を読む』多川俊映・著)

このように仏教における輪廻転生の概念をベースに、その根本原因となるのが「阿頼耶識」であると唯識思想ではいわれている。

いっぽう「利己的な遺伝子」とは、遺伝子自らが「生き残る」ために生物の肉体を乗り物として次々と乗り換えるさまを意味している↓。

群選択説や古典的自然選択説である個体選択説では、種のための個体、個体のための遺伝子という考え方をするが、一連の利己的遺伝子論ではこれを逆転して考える。遺伝子は自らのコピーを残し、その過程で生物体ができあがるという考え方である。つまり、我々人間を含めた生物個体は遺伝子が自らのコピーを残すために一時的に作り出した「乗り物」に過ぎないということになる。コピーを残す効率に優れた「乗り物」を作り出せる遺伝子が、結果として今日まで存続してきたと言えることになるのである。
(Wikipedia「利己的な遺伝子」)

そして両者ともにその働きは人間の表層意識による善悪の価値判断を超えたものであると強調されている。

阿頼耶識は「無覆無記」であるといわれており、「善でも悪でもなく、汚れもない(『唯識とはなにか』より引用)」阿頼耶識は、「対象をあるがままに丸ごと」貯蔵している。まさしく生物の設計図である遺伝子のように。

一方の「利己的な遺伝子説」では、

「生物個体が実際に遺伝子の利益になるように利他的行動をとるのは、前述のような対数による計算を行っているのではなく、遺伝子によってあたかも対数による計算の結果に従っているかのようにふるまうようにプログラムされているからである。」
「生物は、遺伝子の利益が最大になるように、この合計結果が最大になるように行動するものと考えられる。」
(Wikipedia「利己的な遺伝子」)

とされており、やはり動物たち自身の「意思」や「善し悪し」を超えた、遺伝子そのものの「意思も善悪もない」まるでコンピュータのごとき振る舞いが選択と淘汰の積み重ねとしての生物進化を推し進めていることが理解できる。

このようなことから、「阿頼耶識≒利己的な遺伝子」と考えてほぼ間違いないと思われ、そうすることによって片方の足りないところを互いに補完しあうことも可能となる。
ただしドーキンスは「絶対に」それを認めそうにないが(笑)。


【参考資料】
時を越え 伝えるもの
興福寺貫首 多 川 俊 映
き き て 西 橋  正 泰

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