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『二人のソクラテス』第7話

 何かが変わり初めている、そんな気がした。

 

 僕という存在が変わろうとしている。


 決して良くはない目覚めで朝を迎え、ふと現実逃避をしたくなり利根川の河川敷をただただ歩いていた。


 透き通った、まだ汚れのない新鮮な心地良い空気を全身に受ける。


 まだ街が目覚めない時間の散歩は開放感があり、周囲に気を遣う事もない為、頭を悩ませるのに最適な状況だった。

 

 その足で先日、チエさんに案内された神宮内の広場に何かしらの力が働いて導かれるように向かい、広場の中央にある腰高の石碑に刻まれている文字を読んだ。


一つ、明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ


二つ、楽しんでやる苦労は苦痛を癒すものだ


三つ、何を捨てるかで誇りが問われ、何を守るかで愛情が問われる


四つ、自分の生きる人生を愛せ。自分の愛する人生を生きろ


五つ、あなたの運命が形作られるのは、あなたが決断する時だ


六つ、成長の最大の源は選択だ


七つ、神様は成功を望んでいるのではなく、挑戦する事を望んでいる


八つ、幸せはいつも自分の心が決める


九つ、下を向いていたら、虹を見つける事は出来ない


十つ、全ての不幸は、未来への踏み台に過ぎない


 チエさんはかつての偉人達の言葉が刻まれていると話していた。


 読めば込み上げてくる熱い感情。奮い立ってくる想い。不思議と脳内がすっきりしてきた。薄らと答えが見えてきた気がした。

 

 人生に意味を自分で与え、色味をつける事が何よりも大事だと、この石碑に教えてもらった気がする。

 

 何かを変えたいと心の奥底では思っていたのかも知れない。ずっと燻っていた思いがこの石碑の前で溢れ出てきた。


 何故、今まで出来なかった、やれなかった、やらなかったと数々の言い訳は、自発的なきっかけがなかった事が大きいと思う。

 

 人生に大きな良くも悪くもない波がなく、平凡で刺激的な出来事もなく、一挙手一投足に意味を問う性格が災いをして今日まで生きてきた。


 思い返せば、自分がやらない理由を見繕って、さも正当化させて行って来なかった事が今の自分を形成してきたのかも知れない。


 それに、先日ここで行われた斉藤さんの出来事が、かなり大きかった。


 あれだけ横柄で不遜な態度を僕等にとっていた斉藤さんが、たった一つの思いを叶える為に必死にチエさんに懇願して頭を下げた。


 恐らく従来から自尊心は高い人だったに違いない。帰り間際には僕達にも丁寧に深々と頭を下げた。


 結局、斉藤さんご家族にはお帰りな祭が終わるまで、店とは離れた賃貸の一室を貸してあげた。


 店の向かいにある部屋は由夏が気を遣うだろうと判断したからだ。


 だから余計にこれらの偉人達の言葉が胸に響いた。


 偉人達がこの言葉達のように思えるまでには、さぞ苦労と研鑽を積んできたからなのだろうと容易に想像がついた。


 石碑に一礼をすると踵を返した。


 自分のこれからの生き方を見定める必要があると思い、考えあぐねながら歩いてると、やはり解せない事が思い浮かんだ。


 由夏の事だった。


 由夏を迷い人として呼んだのは誰なのか。由夏は何故死んでしまったのか。


 やはりお帰りな祭が終われば消えてしまうのか。由夏を助けてあげられなかった悔しさが込み上げる。


 いつまでも由夏とこうして生活が出来る訳じゃない。それなら今、自分が出来る事を全てやりたかった。


 自宅に戻り、シャワーを済ませて店に顔を出すと既に春菜さんと由夏が業務に携わっていた。


 挨拶を済ませてデスクに座るが、やはりいつもと変わらない日々が始まってしまった。ほんの数十分前に決意をしたはずなのに。


 悶々とした気分に陥っていると、春菜さんが「先日、売却のご相談頂いた村山様ですが、本日お会いして打ち合わせをしようと思います」と僕の顔色を伺うように報告してきた。


 僕が売買に否定的な考えを持っている事は春菜さんは百も承知。


 だけど報告しないといけない立場だから事務的に春菜さんは僕に報告している。

 

 きっと村山さんの案件を行う事に僕が否定したら、村山さんに正直に報告して断って、近くの売買を行っている他社に紹介して終わりって図式になるだろう。


 それが現に両親が旅行に行き出してから続いていた。


「……春菜さんの好きにしたらどうですか」


「えっ?」


 鳩が豆鉄砲を食らったような表情をする春菜さん。春菜さんでもこんな表情をするんだと意外だった。


「春菜さんは村山さんと賃貸で貸している時から付き合いが長いですよね。それだったら、村山さんの為にもやった方がいいんじゃないですか?」

 

 僕がそう話した後に訪れる静寂。やけにエアコンの機械音が店内に響いた。春菜さんと由夏は僕の顔を見て驚いたように目を丸くしている。


「親父への心配があるのなら、旅行から帰ってきたら僕から説明しますので」


「……いえ、そこは別に大丈夫なのですが」


 突然、表情が暗くなった春菜さん。その点が春菜さんにとって気がかりだと思っていたがそうではないらしい。


「それでしたら星哉さんも一緒にーーー」


 春菜さんが言い終わる間際に店の入口が開いた。姿を見せたのは若そうな男女だった。


 恐らく二十代。由夏が二人に歩み寄って要件を伺っている。僕と春菜さんはその様子を窺っていた。


「……家を購入したいとの事です。どうしますか?」


 由夏が僕に報告してきた。本来ならばいつもここでお客様には売買をやっていない事情を話して、数件先にある不動産会社を紹介してお引き取り頂いている。

「奥にお通しして。あと、春菜さんお願い出来ますか?」

 

 二人は頷くと由夏は来客を店内奥の接客ブースに。


 春菜さんはデスクからいくつかの書類を取り出すと接客ブースに向かっていった。


 向かう直前に春菜さんが僕を一瞥してきたが、すぐに向かっていった。

 

 春菜さんが言いたかった事はわかる。僕も同席したら良いじゃないかと誘ったんだろう。


 いざ、その場に立とうとしても体が動かなく、腰が上がらなかった。


 来店された客を見て緊張が走り、決断したものの体が強張った。消化不良のような心持ち。


 なんて惨めなのだろう。結局、春菜さんにお願いするという人任せ。


「星哉くん、なんだか変わったね」


 来客にお茶を配膳して戻ってきた由夏が近寄ってきた。


 僕のデスクの隣の島にある春菜さんのデスクの椅子に座り、僕と向き合う。


「あれだけ売買はやりたくないって言っていたのに。何か心境の変化でもあったのかな?」と僕の顔を覗き込んでくる由夏。


 惚けた様子で揶揄ってくる由夏に今朝の出来事を話した。今日の僕はやけに素直だった。


 石碑に書かれていた言葉の事。斉藤さんの事。自分が置かれている状況を変えたい気持ちはあるが、今まで思っていた売買に対する怖さやコミュニケーション能力の低さ。


 由夏は僕が話している最中に言葉を発さず、耳を傾けて時には頷いていた。


「あの人達、服部さんってお名前なんだけど、新婚さんなんだって。隣の成田市の職員さんみたいなんだけど、職場結婚されたみたいよ」


 配膳した際に由夏がやたら話込んでいた様子だったけれど、そこまで話しているとは思わなかった。


 公務員なら住宅ローンは問題ないだろう。


「お前のそういう物怖じしない所、すごいよな」


「そう? 普通に話していただけど」


 僕よりきっと由夏の方がこの仕事に向いている気がしてきた。


「星哉くんは、いろいろ考え過ぎじゃないの?」


「えっ?」


「ああなったらどうしよう。もしこんな事言われたら、なんて返そうとかいろいろ考えちゃうから怖いんでしょ?」


 由夏の言う通りだった。あれこれ考えてしまう事が僕の癖。


「素敵なお客様じゃない? 新婚のご夫婦が新居を探している。素敵なお家を見つけてあげられたら、あの人達の人生に関われたって事だよ。そうなったら信頼されたって事だし、困っていたら助けてあげなくちゃ。先ずは私達がお客様を信じる事が大事なんじゃない?」


 綺麗事にしか聞こえない。でも由夏が話す事を正面から否定出来ない。


「私もフォローするからさ。試しにやってみなよ? バッターボックスに立たないとヒットは打てないよ?」


「……お前は偉人かよ」


 由夏に背中を押されて重い腰が上がった。大きく深呼吸をすると決意はより固まった。


「ファイト」


 背中に衝撃が走り、振り向くと由夏が僕の背中を叩いた。苦笑しながらガッツポーズを由夏に向けると由夏も返した。

 

 一歩一歩、接客スペースに向かう足取りは重くなかった。当たって砕けろとは良い言葉だと思う。


 まさに今の僕の心情を表すぴったりの言葉だった。


「……失礼します」


 三人の見上げる視線が僕に突き刺さる。この視線が僕は苦手だった。


 特に身内の春菜さんは目を大きくして何事かと言わんばかりの表情。


 何事もなかったように自然と春菜さんの隣、服部さんのご主人の向かいに座った。


 名刺を持っていない僕に春菜さんが簡単に僕が社長の息子である事。


 勉強の意味で同席させて頂ければと服部夫妻に説明してくれた。

 

 改めて春菜さんが服部夫婦から聞いた内容を説明してくれた。服部夫婦は共に二十八歳で成田市の職員。


 戸建てを探していて、広い庭で家庭菜園をやりたいという。眺望が良くて駅から二十分県内の立地で駐車場二台分が希望。


 月々の支払いは八万円まで出せるが、中古戸建てを買う場合はリフォーム費用を入れるとそこまで出せないと話した。


「そうしたら一旦、ご条件の中で物件を探してみます。お時間頂いてよろしいでしょうか?」


 春菜さんが断りを入れると立ち上がった。


 僕も一緒にブースを離れると「驚きましたよ、突然来るんですから」と小声で春菜さんが話してきた。


「……お邪魔でしたか?」と返したが春菜さんは「全然です」と笑顔を向けた。


「それで何をすればいいか教えてもらえますか?」


「先ずはレインズで条件にあった物件を調べて販売図面を出して下さい。出したら物件確認も忘れずに」


 レインズは不動産会社間の物件検索サイトの事。服部さんから聞いた条件に合った物件の絞り込みをかける。


 その間に由夏がお茶のお代わりを配膳しながら、服部さんの話し相手になってくれていた。

 

 絞り込みをかけると条件に合いそうな物件が数件出てきた。販売図面を印刷して全て物件確認の電話を他業者にすると販売中との事。


 その報告をすると春菜さんがそこからさらに三件に絞り込みをかけて服部ご夫妻が待つ接客ブースに戻った。

 

 春菜さんが厳選した三件の販売図面を二人に提示して説明をする。


 駐車場一台分だが眺望が良好な戸建て。駐車場が二台分で庭も広いが駅から徒歩二十分かかる戸建て。眺望も良好で庭もあり駐車場二台分で駅から徒歩十五分圏内だが、予算が月々一万五千円超える物件。


 全ての条件が合致する物件は見つからなかった。

 

 服部夫婦の顔色は芳しくなく、それを察したように春菜さんが残りの物件を提示して説明をしても二人の表情は変わらなかった。


「すみません。最初に言うのを忘れていましたが、僕達いろんな不動産会社を回っていて。だからこれらの物件は全部見ているんです」とご主人。


「それでもなかなか条件に合いそうな物件がなくて。それでこちらで何か物件がないかと思いましてお尋ねしたんですが」と奥さんが話した。

 
 一気に服部夫婦の表情が暗くなった。


 内心、それなら最初にいっぱい物件見ていて他にないですかと聞いてくれれば良かったのにと思わずにいられない。


 隣に座る春菜さんはテーブルに広がる販売図面の数々を見て、何か考えている様子だった。


「お二人は、この街で探しているとお聞きしましたが、何かお考えがあってですか?」


 空気を変えるように春菜さんが二人に尋ねた。服部夫婦はその質問を受けると、互いに顔を見合わせて、どっちが話すか探り合っているようだった。


「私達、美味しいお店を探すのが趣味なんです。それで意気投合したというか。以前、この街に観光で来たんですが、街並みが綺麗だなって。食べ歩きをした時にこの近くに住めたらいいねって夫と話したんです」


「だけどお店とか観光がそこまで出来ていなくて。家探しをしながら美味しいお店とか見つけられたらいいねって妻とは話していて」

 

 この二人は本当に仲が良いんだなと見ていてつくづく思った。


 奥さんの屈託ない笑顔はご主人に向けられて、ご主人の落ち着いた雰囲気が奥さんを包み込む空気感。この二人は僕から見ても人が良さそうだった。


「それでしたら星哉さん、街中のご案内をお二人にいかがですか?」


 突然の春菜さんの提案に面食らった。すると奥さんが「是非、お願いしたいです」と目を輝かせている。


 ご主人に「地元の方ですか?」と尋ねられたので「ええ、生まれも育ちも」と答えると「それでしたら美味しいお店とかご存知だろうな」と奥さんと目を合わせて期待を示している。

 

 確かに日課の歩き食いを欠かさず、街中の散歩は裏路地も調査済み。


 誰にも迷惑をかけずに密かな楽しみだった事がここで活きてくるとは。


「実は一件、未公開の物件がありまして。それが服部様のご条件に合致しているのですが、まだ売主様に確認やご紹介する準備に時間を要しまして」

 

 隣に座る春菜さんから謎の視線。話している内容がさっき話していた村山さんの物件だと容易に想像がついた。


 確かこれから春菜さんが村山さんと打ち合わせをする予定だった。


 要は春菜さんが言いたい事は、春菜さんが村山さんと打ち合わせを終えるまで、服部夫婦を連れて街中を案内してくれと言う事だろう。

 

 案の定の展開になり、春菜さんが口火を切り出すと服部夫婦は春菜さんの提案に乗った。


 春菜さんには二時間くらい時間を稼いで欲しい。終わったら連絡すると言われた。


 春菜さんの目的は村山さんの了承をとって一先ず、服部夫婦の案内を取ること。

 

 春菜さんとは店で別れると、服部夫婦を連れて人先ず商店街通りに歩いて向かった。


 小野川と呼ばれる南北に流れる川沿いを歩けば、喫茶店やフレンチレストランなど飲食店が多数ある。


 途中、行きつけの喫茶店に立ち寄って、軽食を摂った。お勧めを二人に聞かれると、パンケーキとグァテマラのコーヒーを勧めた。


 三人分注文すると、ご主人が気前良くご馳走してくれた。


 テラス席で食事を摂ると二人は感嘆した様子で僕も嬉しくなった。


 食事を終えて店を出ると再び歩き出した。


 川沿いの建物は古くから商家町と栄えた町なだけに歴史的建造物が多く残されている。


 それらの説明をすると熱心に服部夫婦は耳を傾けてくれた。

 

 小野川沿いを歩いていると奥さんから「あれは何ですか?」と質問があった。

 

 指差す遠方を目で追うと小野川を小さな舟に乗って遊覧している観光客が数人乗っていた。


「あぁ、あれは観光舟ですね。川沿いの柳が綺麗で、まるで水上散歩しているみたいで気持ちいいですよ」


 南北に流れる小野川だから舟に乗れば、より江戸時代の街並みがわかるはずだ。


 ゆったり、のんびりと流れる川に身を任せるのも良いかも知れない。

 

 やっぱり興味を持たれたようで早速、桟橋まで行くと夫婦で受付を済ませて舟に乗り込んでいった。


 僕は遠慮して適当に時間を潰していた。時間にして三十分くらいで二人は興奮した様子で戻ってきた。

 

 服部夫婦が観光舟に乗っている時に、春菜さんから連絡があった。


 どうやら村山さんとは話が上手くいったようで一旦店に戻ってきて欲しいとの事で、店に戻ることにした。


 予定より三十分くらい早かった。店の前には既に白のボックス車が停まっていた。


「お待たせしました。こちらにお乗りください」


 初めて見る車だった。聞けば車は春菜さんの自家用車。服部夫婦が後部座席に座り、助手席に僕が座る。


 運転は勿論、春菜さんだった。見送る由夏に手を振ると車が発車した。

 

 初めて物件という物を見る事になった。僕の心情として期待半分、不安半分だった。


 果たして服部夫婦のお眼鏡に叶う物件なのか。きっと売買経験者である春菜さんには考えがあるに違いない。


 ここはおんぶにだっこ状態で様子を見守ることにした。


 車中の春菜さんは服部夫婦に街の感想を聞いていた。


 それに対して奥さんは観光舟に乗った事を興奮して話していて、ご主人は街並みが小江戸と呼ばれる程の街並みの綺麗さに感嘆した様子だった。


 最寄り駅を背に国道十六号線を南に進み、住宅街に入る。高台を登り進めると左手に白い外観の大きな家々が立ち並ぶ。


 車はその中の一軒の前で停まった。見た目は築三十年くらい経っていそうだが、駐車場は並列に二台分ある。


 庭も広そうだ。駅までもここなら徒歩十五分程度でいけるだろう。


「突然、すみません。ご協力ありがとうございます」


 春菜さんは建物から出てきた男性に頭を下げた。出てきたのは村山さんだった。


「いやいや、とんでもない。春菜ちゃんの為なら構わないよ」


 春菜さんが服部夫婦に村山さんを紹介した。服部夫婦は若干緊張した面持ちだったが、村山さんは歳上のアドバンテージを活かした元気なおじさんを演出しているようだった。


「どうぞどうぞ、気軽に見てください」


 村山さんの案内で玄関に入る。玄関上部は吹き抜けになっていて解放感があった。間取りは四LDK。


 建具や水回りは古臭さは感じず、綺麗さは保たれている。リビングの床は一部、日当たりが良すぎて焼けていたが、許容範囲に思えた。


「先月まで賃貸に出していたんだ。賃借人が出てからハウスクリーニングはやっているし屋根と外壁、内装のリフォームは五年前にやったばかりだから」


 村山さんの説明に服部夫婦は大きく頷いた。どうりで綺麗なはずだ。素人目から見てもかなり良い物件だと思った。


 服部夫婦の反応も上々だった。僕が気にしていた服部夫婦の条件、眺望も良かった。


 リビングから見える外の景色は開けていて、利根川を一望出来る。

 

 暫く、案内の様子を見守っているとすっかり村山さんと服部夫婦は意気投合したように自然と会話を楽しんでいるように見えた。


 談笑に花を咲かせている。それを少し離れた所で春菜さんが見守っている良い空気が流れているように見えた。


 僕が遠くで離れた場所から見守っていると春菜さんが近づいてきた。


「今日はお疲れ様でした」


 額に汗を浮かばせている春菜さんは、笑顔を向けてきた。これが売買の案内なのかと実感した。


「いえいえ。僕は何も大した事はしていませんよ」


「そんな事ないですよ。周辺環境のご案内をされたじゃないですか?」


「別に大した事じゃないですよ、あれは。僕が日頃から目にしている事をやっただけであって、特別な事は本当にーーー」


「いいですか? お客様は物件を見る前に先ずは周辺環境を確認されます。商業施設はどこにあるのか。駅まではどんな道のりがあるのか。何より大事な事は自分達が住めるイメージを持てるかどうかが大事になります。あとは街が自分の肌や空気に合うかも大事なポイントになってきます」


 汗をハンカチで拭いながらも視線は僕から離さない春菜さん。もう普段の仕事モード以上の鋭い目つきになっていた。


「特に住んでいる人の生の意見は活きてきますよね。それを星哉さんは忠実に行ったんだと思います。だからお二人はとても喜んでいたじゃないですか? 現にお二人は既にこのお家を前向きに購入したいと仰って頂いています」


「えっ、本当ですか?」


 あまりの衝撃に心の底から驚いた。こんなに早く決断されるだなんて。言われてみれば分からなくない。服部夫婦が掲げた条件は全て合致しているのだから。加えてリフォーム履歴もしっかりされている。


 ただその中で、一つ気になっている事があった。


「それで販売価格はどうするんですか? 村山さんとはどこまで話を?」


 最後の服部夫婦の条件である月々八万円の予算内に合うのかどうか。


「そこは既に村山様とは話がついています。相場に則った査定価格を村山様に提示した遠頃、了承頂いておりますし、服部様のご予算内に充分収まります。先程簡易的ではありますがお話した所、ご理解頂きました。あとは建築士に念の為に建物を見て頂いて、耐震診断証明書を発行する手筈と住宅ローンの審査……これはお二人とも公務員でいらっしゃるから問題ないでしょう」


 なんて抜け目ない人だろう。さすが店の責任者をやっていただけに仕事が早い。


 そこまで段取りをしているなら本当に問題ないんだろう。


「どうでしたか? 不動産売買の仕事は?」


 キッチンで村山さんの説明を服部ご夫妻が聞いている。笑い声など談笑する声が聞こえてきた。


 それを見ていてなんだか微笑ましく、温かい気持ちになった。


「まだ具体的な事はしていないからなんとも言えないですけど……」


「それならこれから一緒にやっていきましょう。私がみっちり教えていきますから」


 ガッツポーズをとる春菜さんが新鮮だった。何より春菜さんが嬉しそうだ。


 自分の人生の中で考えれば、小さな一歩なのかも知れない。


 それでも誇らしく思える自分がここにいた。なんだかとても気分が良かった。

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