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『二人のソクラテス』第14話

 つくづく自分のエゴな考えに辟易する。


 辟易しては、かつて味わった侘しさを思い出して真実から目を背けた。


 星哉さんが迷い人として蘇り、不動産売買を始めてからの日々はそんな事の繰り返しだった。

 

 星哉さんが不動産売買に取り組んでくれる事が私の悲願だった。

 

 不動産を生業とした場合、大きく分けて賃貸と売買がある。


 月極駐車場やアパートなど一定数の管理をしていれば、安定した収入が見込めるが、たかが知れている。


 その点、売買を成約すれば一件の売り上げは価格によるが、賃貸管理の数十倍の利益が見込める事が出来る。


 賃貸よりも売買は一定のリスクはあるが、この会社を成長させるには売買を扱う事は必須だった。


 かつて私は大手不動産会社の支店責任者として働いていた。その中で他支店で働いていた同期の男性と結婚、そして一人娘を産んだ。


 夫は専業主婦を望んだが、私はそうではなかった。最初こそ育休制度利用したが、職場復帰は早かったと思う。


 仕事にやりがいと責任を持ちながら、キャリアウーマンとして成果を残すと上司や役員の見る目は期待に溢れていて、私はそれに酔いしれた。


 でも現実は甘くなかった。


 ただその気になっていただけだった。


 仕事と育児の両立は果てしない。すぐにボロは出た。夫とのすれ違いや義理の両親の小言。


 結論が出るのに時間は要さなかった。離婚と同時に会社を退職した。親権は私が持った。


 夫から養育費をもらうほど私の懐は逼迫していなかったのが幸いした。私には金のかかる趣味と言えるものはなかったから。

 

 そんな折にかつて取引した際に面識があった星哉さんの両親と街中で再会した。


 社長夫妻と喫茶店に入り、娘を交えて近況を話すと事務員として会社を手伝ってくれと誘われた。


 当然のように家庭優先の勤務体系でいいと話す。私にとっては渡に舟だった。


 退職直後だったが、当面は仕事をせず貯金を切り崩しながら生活をするつもりだった。


 けれども良い勤務条件にはありつきたかった事も事実。


 取引した時から物腰の柔らかさに好印象を持っていただけに私は頭を下げて、二人のお言葉に甘えた。


 そして数年が経った頃、社長夫妻からある提案をもらった。


『星哉に修行をしてくれないか?』


 聞けば一人息子にいずれ会社を継がせたい考えを持っていたようだ。


 戦場としているこの地域は高齢者世帯が多く、建っている建物は昭和後期のものが殆ど。


 これから賃貸管理だけでは経営が成り立たない可能性がある。建物を取り壊し、ローコスト住宅の建売を建てて、若い世代が入居して地域が活性化する展開が十分に考えられた。


 現に市も不動産を購入する際の補助金や市外から引っ越してくる若い世代を対象に給付金の施策もあるくらいだ。


 より今後は不動産売買が求められる可能性は大いに考えられる。


『恥ずかしながら、売買に関しては疎くてね。あなたのような知識と経験がある若い人間が星哉を支えてくれるとありがたいんだか』


 やはりそこは父親、母親の想いがあるようだった。お二人はまだ四十代後半か五十代前半くらい。


 星哉さんを出し抜いて私がという考えは毛頭ない。


 ましてや拾ってもらったこの命、大いに活用させてもらえればといつかの粉骨精神に火がついた。

 

 それから数ヶ月、星哉さんには事あるごとに興味を持ってもらえるように話を持ちかけた。給料が増えれば、高級車が買えたり女性にモテるなど思いつく事は全て話したが、いずれも空振りだった。


 まず学生相手に不動産売買に興味を持ってもらえる事はハードルが高い。特に星哉さんはコミュニケーションが決して豊かな性格ではない事が大き過ぎる。


 かつては数十人単位の営業を部下に持った私でさえ、難攻不落。


 そもそももう少し大人になってからでもいいのではと結論をつけた矢先の出来事だった。

 

 社長夫妻が亡くなった。


 テレビで連日報道されるレベルの大型クルーズ船の沈没による海難事故。


 幸い、遺体は発見されて警察から連絡が来ると、寝耳に水で状況を飲み込めていない星哉さんを連れて身元確認の為に飛行機で北を目指した。


 慰安安置所で変わり果てた姿で対面を果たす。辛うじて着ていた特徴的な衣類や背格好などから本人達と認識出来た。念の為にDNA鑑定も行う為にご遺体の引き渡しに数日頂きたいと言われた。


 その時の星哉さんを今でも忘れられない。


 私が警察から店宛に連絡を受けて星哉さんに事の顛末を伝えてから一言も声を発さず、無表情のままだった。


 悲しみに暮れる様子もなく、涙を流して泣き散らす事もない。私が泣き崩れていた時でさえ、まるで他人事のように私を憐れんだ視線さえ向けていた。


 どうしてこの子はこんなに無でいられたのだろう。ご両親を悼む気持ちの欠片すら持ち合わせていない子なのか。


 それとも現実を受け入れる事さえ、まだ気持ちが追いついていないだけなのかと考えていた。刻が経つにつれて思いが込み上げてきて、悲しみに暮れるに違いない。


 そう想っていた矢先の事だった。


 私達が店に戻ってきてから三日後、ご両親を追いかけるように星哉さんが亡くなった。


 第一発見者は私だった。


 まだ社長夫妻の傷が癒えずにいた私は、重い足取りで店に向かい、裏口の勝手口から室内に入った。


 何か奇妙な感覚に陥り、いつもは覗かない二階に向かって階段から声をかけた。


「おはようございます」


 静寂が訪れ、胸騒ぎを覚えた。僅かに香る異臭に意を決して階段を一段一段と登るにつれて鼻腔を悪臭が襲った。


 匂い元の部屋に狙いをつけると、その部屋は星哉さんの部屋だった。


 最悪のシナリオが脳裏に過ぎった。


 ドアは施錠されておらず、ノックもせずに片開き戸を開けると、眼前に広がる絶望。絶望の静止画を脳に焼き付けられる。


 辺り一面を塗り潰している血痕。首だけぐったりとベッドに預けて、壊れた人形のようにベッドに背中を預けていた。


 左手に刃物らしきものを持って首筋にドス黒い線が浮き上がっている。


 星哉さんの目は閉じているのに不思議と私と目が合った気がした。


 そこから先の記憶は鮮明ではない。目を覚ますと私の自宅だった。側には何故かチエさんがいた。


 どうやらチエさんが私を看病してくれたようだった。私はまる一日寝込んでいたらしい。


 チエさんとはよく店にお茶を飲みにきて他愛のない話をする関係性だった。

 

 微かな記憶の糸を手繰り寄せ、チエさんに事実関係を確認した。


 やはり星哉さんは亡くなっていた。


 夢ではなかった。遺言らしきものは見つかっていない。


 警察の現場検証から他殺の線はない事などチエさんが重苦しく話してくれた。

 

 私は二度、家族を失った。

 

 生来からの家族ではなく、私が意思を持って作ろうとした家族は二回とも上手く行かなかった。


 夫に見限られ、救いの手を差し伸べてくれた社長夫妻。そしてその息子である星哉さんも。


「私はなんて愚かな女なの。約束の一つすら守れないなんて」


 思わず口にした言葉にチエさんが「何があったのか、聞かせてくれないか?」と優しく私の手を握りながら目を見て微笑んだ。


 私は今までの経緯をチエさんに全て話そうと思った。でもその時の私は何を話したのか、断片的にしか覚えていない。


 覚えているのは社長夫妻から星哉さんの事を託された事だけ。


 それほど時系列は恐らく出鱈目で、子供が泣きじゃくりながら親に反省の弁を話すように、矢継ぎ早に話したのだと思う。


「……どうして星哉さんは自殺なんて」


「十中八九、両親の死が原因じゃろう。あいつは一人息子だったし、寂しがりじゃった。だから追いかけるように……」


 あれだけ両親の死を目の前で触れて、感情の起伏のない子供が突発的に両親を追いかけるように亡くなるだなんて。


 悲しむ素振りすら見せなかったけれど、きっと内に秘めた想いは当然のようにあったのだろう。


「それほど想っているのなら、お帰りな祭で星哉を呼んだらどうだい?」


 チエさんの天啓とも呼べるその一言が全身を襲った。死者の魂を現世に呼んで実体化するお祭り。


 毎年お盆の時期に行っているそのお祭りは楽しみだった。


 だけどその時の私は自分がまさか当事者になるとは、その時まで考えもしなかった。


「……言いにくいのですが、それは限られた時間であり一時的なものしかならなくて、根本的解決にはーーー」


「魂はね、どの世界に行っても受け継がれるのさ。だからお主が行う事は決して無駄にはならないよ」


 チエさんが話すには、呼び寄せて蘇らせた霊魂が経験した事は、未来や過去にも魂として共有されるらしい。


 それもあって以前、過去に死んでしまった人物の霊魂を呼び寄せて苦手だったピーマンを克服させた所、死んでいない未来を覗きに行った際に好物になっていたと笑いながら話した。


 そのように突如、才能が開花するものもいれば、趣味嗜好が変わる事もあるという。


「つまり、星哉さんを迷い人として蘇らしても、私が不動産売買を経験させる事が出来れば、それは無駄じゃないって事?」


「まぁ、そういう事じゃな。こことは違う未来の星哉には、ちゃんと活きるじゃろう」


「……チエさんって何でもありだね」


「まぁ、わしは言ってみれば神様の使いのようなものじゃ。精一杯生きている者が不条理な事で日の目を見ないと、ちょいと手助けしたくなる。神様はちゃんと見ているからの」


 その時、私は決心した。星哉さんを迷い人として蘇えらして、不動産売買を経験させて興味を持ってもらう事。


 期間はお帰りな祭がある一ヶ月くらいしかないけれど、ご両親の想いと私の悲願を考えたら、迷っている暇はなかった。

 

 だから相談頂いていた村山さんの件は、星哉さんが蘇るまで近づかず遠からずの関係を続けていた。


 下手に最初から売却の話を進めてしまうと、星哉さんの経験にはならないから。村山さんには悪い事をした。


 やがてお帰りな祭が行われる七月中旬に入ると、チエさん立ち合いの下に星哉さんを迷い人として蘇らした。


 私は儀式中、自分の不甲斐なさや後悔など様々な想いを込めて願うと目の前に星哉くんが現れた。


 蘇った星哉さんは亡くなる前、ちょうど社長夫妻が旅行に行った後が直近の記憶の様子だった。


 星哉さんには高校は夏休み中だから学校に行かなくても良いと話すと、嬉しそうだった。


 チエさんが儀式前に教えてくれた。迷い人が蘇った直後に記憶を無くしているのは、記憶が持っている情報をエネルギーに換えて蘇らしている事が大きいらしい。


 だからお帰りな祭が終わりに近づくにつれてエネルギーが徐々に失われていく為に、生前の記憶を取り戻す傾向があると。


 星哉さんが蘇った直後は嬉しさの余り、手料理を振る舞ったり色々と持て成した。若干の戸惑いを見せていた星哉さんだったが、お構い無しだった。


 意気消沈していた私に光を照らして、再び仕事が出来る喜びと何とか売買を経験させる意思を強固にした矢先だった。


 由夏さんが突然現れた。彼女を最初に見た時は、星哉さんの邪魔になるのではと怪しんだ。


 由夏さんを見る星哉さんの目には、明らかに恋愛対象を見る目だったから。


 限られた時間の中で、私には成すべき事がある。寄り道を星哉さんにさせる訳にはいかない。


 それにチエさんから由夏さんが何か特別な想いを持って蘇ったのではとチエさんの持論を聞いてから様子を伺っていた。


 私も薄々とは感じていただけに藪蛇な事はしなかった。


 けれども蓋を開けて見れば、由夏さんが星哉さんの背中を押してくれて村山さんと服部夫妻の売買が出来た訳だから感謝しかない。


 そして、私の悲願は達成された。


 一つの大きな一歩を踏む事が出来て、達成感に酔い痴れて充実感に全身を包み込む。


 それから日々成長する星哉さんを見ていて、とても嬉しかった。教えた事を全て吸収して結果に反映させる力は眼を見張るものがある。


 社長夫妻との約束を果たし、私は満たされた。あの時、出来なかった家事と仕事の両立が今では出来ている。


 娘との時間を大事にしながら、仕事でも成果を出している。この上ない人生の喜びを噛み締めた。


 思い描いた形は違うけれど、一つの完成形がここに出来た。


 きっと社長達も天国で喜んでくれているに違いない。


 私はこの店が好き。


 だから守っていきたい。


 売買に興味を持ち始めてくれた大切な時期だからこれからも星哉さんを見守っていきたい。きっと売り上げも伸びる。


 そうすれば広告にもっとお金をかけていけるし、売買営業を雇ったっていい。


 周辺の他社でさえ負けない不動産会社を作れる自信が私にはある。


 だからせめて星哉さんが一人前になるようにこれからも支えていきたい。

 

 服部夫妻が店に挨拶が来てくれた二日後の定休日。朝から娘の舞を小学校に送り出して洗濯や掃除など家事全般を行う。


 夕方になると舞の下校に合わせて待ち合わせをして夕飯の買い物に行った。

 

 商店街通りにあるスーパーではお惣菜やお刺身などのタイムセールが行われる。家計は決して厳しくはなかったけれど、既に作った舞が好きなカレーに合わせたおかず探しに来ていた。舞は好き嫌いなく食べるから助かる。


 舞は他の同級生や子供と違い、二人でいる時ははしゃいだりしない。いつも落ち着いていて、私のゆっくり歩く速度に合わせて隣を歩いてくれる。


 結局、マカロニサラダと舞の好きなお菓子を一つ買っただけ。舞が先日行った国語のテストで満点をとってたからご褒美に買ってあげた。


 珍しく、嬉しそうにした我が娘の頭を撫でると、目を細めて嬉しそうに微笑んだ。


「ねぇ、由夏ちゃんに会いに行こう?」


 手を繋いで商店街を抜けて自宅までの道中に舞が言った。この前のお帰りな祭に会ってから由夏さんの事が好きになったらしい。


 しりとりとかしてくれて舞と遊んでくれたから由夏さんの事をお姉さんと思っている様子だった。


「言ったでしょ? 由夏さんはお勉強で旅行に行っちゃったって」


「じゃあ、ママのお店に行こう?」


 休みと話したのに店に行きたいというから、仕方無しに店の前まで連れて行った。案の定、シャッターは下ろされていたが、二階の奥の部屋は明るく照らされていた。星哉さんの部屋だった。


「ねぇ、ママ? あそこ電気ついてるよ?」


 舞が指差した先は星哉さんの部屋だった。


「あそこはね、星哉お兄ちゃんがいるから。きっとお勉強をしているのよ。邪魔しちゃいけないから帰りましょ? ママ、舞の好きなカレーを作ったのよ」


 カレーの話をすると、舞の興味がカレーに変わったので、踵を返して自宅に向かった。恐らく、星哉さんは二ヶ月後に行われる宅建の勉強か、或いは明日に控えている木村様の再案内の準備でもしているのだろう。


 勤勉な性格が売買に興味を持ち始めた今の星哉さんはさぞ、仕事が楽しいに違いない。


「……ママ、どうしたの? 怖い顔してる」


「ううん、大丈夫だよ。早く帰ろう?」


 私はなんて罪深い事をしているのだろう。


 後悔が襲ってきた。


 霊魂が生き続けるとはいえ、今の星哉さんは消えてしまう。


 それを星哉さんは知らない。


 知らない事をいい事に私のエゴで彼に仕事を教え、勉強をさせているこの状況。


 残酷過ぎるのではないのか。


 私は星哉さんが一生懸命取り組んでくれている事が、とても嬉しい。彼が健気に真摯に頑張ってくれている姿が、私が夢描いた今の彼の姿。


 それを放棄する事は目の前の幸せを崩壊させられる事に等しい事。


 その日から私は、迷いに迷った。


 夢と現実の狭間で。


 翌日の仕事も夢現のような状態。


 それを気にしてなのか星哉さんには心配をかけてしまう状況。


「何で悩んでいるのかわかりませんし、聞きませんが、辛かったら早退した方がいいですよ? 仕事は何とかしますから」


 あなたの事で悩んでいるだなんて言えない。


 あぁ、私はどうすればいいのだろう。


 いや、違う。


 どうすればいいのか、わかっている。


 わかっているのに、それが出来ない。


 目の前の幸せを、あれほど夢描いて出来なかった日々を、自らの手で葬る事なんて私には出来ない。


「……おい、小娘? いい加減にせぇよ」


 まるで鬼の表情をしたチエさんが店に訪ねてきた。


 あぁ、もう終わりよ。


 そうよ、別れなんて突然前触れもなくやってくる。


 流石に夢見すぎたのかも知れない。


 チエさんが言いたい事は容易に想像出来た。


「あれ、チエさん。どうしたんですか? そんな怖い顔をして。何かあったんですか?」


「おぉ、星哉。ちょっと用があっての。お主に用があるんじゃ」

 

 カウンターの席に横綱の如く、股を広げて私を睨みつけてくるチエさん。


 怒っている理由ははっきりしていた。


 流石にチエさんの堪忍袋の尾は切られている。


「あんた、約束が違うじゃないか。わしが言いたい事……わかっておるよな?」


「……ええ。わかっています」


「夢を見過ぎたようじゃな。これ以上は未来に大きく影響を与える事になる。何より神が了承しない。強制的にやらしてもらうぞ……いいな?」


「ちょ、ちょっとすみません」


 星哉さんが話に割って入ってきた。


「さっきからお二人、話していますけど、一体何の事ですか?」


 恐る恐る、私とチエさんを交互に見やりながら尋ねてくる星哉さん。


 あぁ、もう終わりよ。


 何なのよ、この状況。


 何だか吐き気を催してきた。


 頭も痛い。


 涙が溢れてきた。


 全然、止まりそうもない。


 もう、嫌だ。


 こんな事なら……こんな事なら。


「……わしから話すぞ、いいな?」


 チエさんの声が聞こえる。


 今の私は到底、星哉さんに事実を話せる状態じゃない。


 大きく何度も頷いた。


 チエさんが大きく深呼吸した。


 鼓動がやけに大きく聞こえる。


 嫌だ、やっぱり。


 やっと掴んだ幸せが、崩れていく。


「星哉よ、落ち着いて聞きなさい」


「……はい」


 星哉さんが大きく息を呑んだ。


「お主はのう、迷い人なんじゃ」


 ついに宣告してしまった。


 あぁ、もう終わりよ。


「……何の冗談ですか? 笑えないんですけど」


 星哉さんの戸惑いが手に取るようにわかる。


「冗談ではない。お主はそこの小娘の願いによって、わしが召喚した迷い人なのじゃ」


 やめて、やめてチエさん。


 星哉さんが壊れてしまう。


 私が必死に積み上げてきたものが一気に崩れてしまう。


 私が必死に守ってきたもの、それら一切が消えてしまう。


「おい、小娘からも言ってやれ? このまま事実を知らずに還すのは流石にわしも忍びない。お主がここまでやっておいて話さないのは筋が通らんじゃろう?」


「でっ、でもチエさん? なんとかもう少しならないですか? 星哉さんだってようやくここまでーーー」


「お主の気持ちもわからんでもない。じゃが、これ以上はまずい。流石のわしも手に余る。それに一度はわしもお主の提案に乗って期日を伸ばしたはずじゃ、そうじゃろう?」


「……ええ、分かっています。ですが、ここまできたのですからそんなに急かさなくてもーーー」


「いい加減にしろぉぉぉ」


 チエさんの怒号が鳴り響いた。


 身のすくむ怒号に体が震え、棒立ちした。


 チエさんがこんなに怒っている姿を初めて見た。


 鋭い目つきで私を睨んでいる。 


「いいか、小娘? よぉく聞け。理想と現実は違うのじゃ。お主が今までどんな想いで頑張ってきたのか、わしも知っておる。じゃが、それは全て現実ではないのじゃ。お主だって心苦しかったはずじゃ、そうじゃろう?」


 チエさんの鋭い視線が突き刺さると、大きな溜息をついた。


 あぁ、もう終わりね。


 私の我儘に付き合ってくれた星哉くんに別れを告げるしかないのよ。


「春菜さん? 話して下さい」


 星哉さんの懇願した表情。当然の反応だと思った。


 彼からすれば全てが寝耳に水に違いない。


 大きな深呼吸をすると、意外にも頭の中がすっきりした。


 意を決して、星哉くんと向き合うことにした。


「私が星哉さんに不動産売買を経験して欲しかったの。その為に私はあなたを迷い人として呼んだわ。霊魂はどの世界にいっても受け継がれるって聞いたから」


「それは春菜さんがいつも言っていた事だよね? じゃ、じゃあ、僕はどうして死んだんですか?」


 目を閉じれば今でも鮮明にあの悲惨な光景が目に浮かぶ。あの時から今日までの出来事が始まった。


 でもそれは、今日で終わる。


 私は再び、肩で大きく息を吸い込んで吐き出した。


「あなたはね、自殺したのよ。二階の部屋でね。首をばっさりとナイフで」


 ジェスチャー付きで説明すると、背筋に悪寒が走った。


 星哉さんの記憶はまだ本当に戻っていないようで、上半身を震わせている。


「……いつ僕は死んだんですか?」


「ご両親が事故で亡くなった三日後よ」


「……はぁ? 何を言っているんだよ、春菜さん。両親は旅行に行っててーーー」


「その旅行で事故に遭われて亡くなったのよ」


 そうだった。星哉くんの記憶にはご両親が事故で亡くなった事も消えている。


 普通に話したけれど、星哉くんは迷い人という事実を伝えた時よりもショックが大きそうだった。


「本当よ。あなたはきっとご両親を追いかけるように亡くなった。これは紛れもない事実よ」


「……嘘だ。うそだぁぁぁ」


 崩れるように地面に膝をつけて突っ伏した星哉さん。


 泣き崩れている背中に声をかけようとしても、今は何も言えなかった。


 ごめんなさい、本当にごめんなさい。


 今まで黙っていて本当にごめんなさい。


 私の身勝手があなたを二度傷つけた。


「お主も薄々気付いていたんじゃないのか? 生前の記憶も蘇る頃じゃろう。これだけ迷い人として召喚しているのじゃからエネルギーはもう殆ど残っていないはずじゃ。遅かれ早かれ、全てを思い出すはずじゃ」


 星哉さんの背中に手を当てて、慰めるチエさん。


 最初の約束ではお帰りな祭で由夏さんが去った後に星哉さんも還す予定だった。


 だけど、私の我儘で服部夫妻が契約した物件の引き渡しが終えるまで待ってほしいとチエさんに懇願すると渋々納得してくれた。


 けれどもそこからのらりくらりとチエさんを避けてきた結果がこの惨状。


 泣き疲れたのか、星哉さんはゆっくりと立ち上がった。


 頬は気のせいかこけていて、目は充血している。

 

 星哉さんが何か言おうと口を開きかけた時、体が崩れ頭を抱えて悶え始めた。


「くっ、時々こうして……頭が痛くなる事が。はぁはぁ、チエさん? これって?」


「頭の痛みだけか? 違うじゃろう? 映像が頭の中に浮かんでこないか?」


「そっ、そうです。これが何の映像なのか。くっ、駄目だ。頭が割れそうです」


「恐らく、これが最後だろう。さぁ、全てを思い出して再び逝くがいい」


 苦しそうに悶える星哉さん。

 

 呻き声が響き渡る。


 見ていてこちらが辛い。


 こんなに苦しんでいるのは私のせいだ。


「星哉さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい」


「うっ、うわぁぁぁーーー」


 野獣の雄叫びのような声が、その痛みを物語っていた。 

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