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『二人のソクラテス』第4話

 親は子を選べないと言うけれど、子も親を選べない。

 

 私の家庭環境は最悪だ。父親は若い女と浮気をして、私が小学生の時に両親が離婚。


 一人娘の私を嫌々引き取ったであろう母親は、中学生の時に見かけた父親より若い男と出かけてから帰って来ない。


 見るに見かねた母親の両親、つまり祖父母に引き取られた私の不幸はこれで終わりではなかった。


 その祖父母の家に私の居場所はない。居場所をくれないのなら、私の事なんて海に捨ててくれたらよかったとつくづく思った。


 別に恨んで夢に出たりしないのに。でもそんな贅沢はとても言えない。それにいつも機嫌悪そうな二人だった。


 いつも不満そうでテレビに向かって政治家の悪口を口にして、時には関係ないのに二人で私に当たってくる。


 食事は先に祖父母が食べて、残りが私の食事。残りがなかったら食事にありつけない始末。


 私に与えられた空間は納戸の三帖だけ。勿論、納戸だから窓なんてない。横になれば納戸は私の体であっという間に埋まる。


 高校に行けば何か変わるだろうかと思っていたけれど、そんな事はなかった。


 中学生の時から私の事を周囲は認識してくれていなかった。教室にいても誰からも声はかけられないし、先生達もそうだった。

 

 まるで空気の一部のような存在。私から何か声をかければ、隠そうともしない嫌悪感を示す同級生達。


 何がきっかけだったかもわからない。多分、彼女達の気分を損ねたんだと思う。


 ある日を境に私の高校生活に変化が起きた。普段以上の疎外感。


 私物が無くなる。殺人予告や罵詈雑言が書かれた紙が埋め尽くされたロッカー。


 臭い、汚い、ブス。大体、そんな言葉が紙面を埋め尽くされていた。


 言い訳はいくらでもある。祖父母は風呂に入らせてくれない。衣類や下着を祖父母は当然、買ってくれないから替えがない。


 洗濯機は電気代がもったいないと使わせてくれないから、夜に近くの公園に行って洗っていた。


 最初は惨めに感じていたが、次第に当たり前になっていた。ブスに関しては親の遺伝だからどうこうしようがない。


 見て見ぬ振りをする大人達。気づいていても気付かない振りをする大人達。


 私だって相談した。相談したけれど、大人達は大した事ないと言う。


 次第に迷惑をかけてはいけないと自制心が働いた。私が気に留めなければ大人達に迷惑を掛けないのだと。


 アルバイトをしてお金を稼ごうと考えた事もあったけれど校則があって出来ない。

 

 一度だけバレずに倉庫の整理のアルバイトに行った事があったけれど、見た事ある同級生男子がいた。


 見つけた途端、怖くなって逃げた事があった。その男子は今でも働いているのだろうか。


 私が揚げ足をとる事も出来たけれど、心が痛む。 


 こんな事は中学の時と一緒だった。私に責任があるならちゃんと教えて欲しい。


 私の言動が気に喰わないなら改善する努力をする。失礼があるならちゃんと謝る。


 でもそれらの原因は十中八九、私じゃない。


 だって殆ど、話すら誰ともしないのだから。


 誰とも視線を合わさないし、返事は首を振るだけ。


 誰とも会話をしていないのだから、どうしようもない。


 だから考えられる理由は、単純に面白がっているだけ。


 若しくは気に食わない事があって、それの吐口とされているだけ。


 女性特有の陰口、小言のオンパレード。信頼がないから裏切りもない。


 希望がないから絶望だけの世界。頑張れ、負けるなと言われる事のない虚無な現実。


 夢を持てと大人は言うけれど、夢すら持てない状況と環境。何故、こんな日々を過ごしているのだろう。


 何故、私はこの世に生を授ったのだろう。何の為に、生きているのだろう。


 次第に自問自答を繰り返す日々が始まった。何か答えが欲しかった。私が生きている理由を。


 自分で見つけろと周囲は言うのであれば、せめて最低限の生活を送らせて欲しい。


 それすらままならないのに、そんな無責任な事を何故言えるのだろうか。


 そんな事を考えていたら、次第に生活のルーティンが出来た。


 一つは下校の際に河川敷に立ち寄って、利根川を眺める事。


 川の流れを見ていると、時間の流れを実感する。


 風が強い日は流れが早くなり、穏やかな時はゆっくりと流れる。


 ただ眺めているだけなのに、妙に心が落ち着く。さらにそこでの楽しみが一つ増えた。


 蟻や昆虫、蝉の死骸を眺める事。無駄な殺生は決してしない。


 仰向けになって生き絶えた死骸から、死というものに興味を持ち始めた。


 滑稽で無様を非難するつもりはないけれど、彼等彼女達は何を思い、何の為に生きて死に繋がったのか、答えが出ない私からすれば諸先輩に教えを請いたかった。


 昆虫に喜怒哀楽の感情はあったのか。生きる目的は達せられたのか。


 それとも不本意な突然の死に無念はあったのか。


 辛うじて繋いでいる細い糸のように、私の死生観はこのままでは崩れてしまいそうだった。


 そこからもう一つのルーティンは、高校の図書室で哲学書を借りて自宅に持ち帰り、河川敷で読み耽る事。


 主に哲学者のソクラテスの本が私には合っていそうだった。


 つまり先人達の教えを私の死生観に落とし込んだ時、果たしてすんなり答えは出るのか実験だった。

 

 一説にはソクラテスは生を一種の病と捉え、死はその病を治癒する事と考いた。


 輪廻転生を繰り返し、魂を浄化させる仏教のような考え。


 彼は死刑判決を言い渡された際にも、死は悪いものだと限らないとさえ言ったみたいだ。


 そこから様々な哲学書を読んだが、正直私にはわかりそうでわからなかった。


 ニーチェは永劫回帰という、現在の経験を過去や未来でも同じ環境で同じ出来事が起こると説いたらしい。


 だとしたら、身に起きているこの環境から脱する事が出来ないのであれば死は無意味になる。


 世間一般の死に対する捉え方は、恐怖や悲しみが殆ど。


 生に対する希望や憧れ、目標や生き甲斐のない私には恐怖もなく、誰かが悲しんで憂いてくれる人はいないに等しい。


 その世間一般とズレた私が既に生の病にかかっているのか、どうなのか判断が欲しい。


 このまま生き続けるべきなのか、或いは死んでいいものなのか。


 どちらにせよ二択なのだが、どちらも一長一短。


 両方、体験してみたい気持ちはある。どちらが自分に合っているのか、まるで服を買いに行くような感覚。


 片道切符の賭け事のリスクに、その後もあらゆる哲学書を読んで精査した。


「おーい?」


 背後に聞こえた男性の言葉が私に向けた言葉だと思いもすらしなかった。


 だから振り返らずにマルティン・ハイデガーとソクラテスの哲学書を読んでいた。


「……ちっ。無視かよ」


 今度は大きな舌打ちが聞こえた後、斜面を下る足音が徐々に大きく近づいてきた。


 まさかとは思って振り返ようと立ち上がろうとした瞬間、私の顔を覗き込んできた。


 私はあまりの衝撃に変な声を出して中腰だった為に尻餅をついた。


 見上げると、うちの高校の制服を着た男子。見た事のない男子だった。


「……それ、まだ読み終わらない?」


 指差された先を視線で追うと、私が抱えているソクラテスの哲学書だった。


「もっ、もしかしてうちの高校の人?」と尋ねると男子が頷いた。


「多分、学年一緒。Cクラスの人でしょ?」と俯きがちに尋ねてきた。


 私は同学年の同じクラス以外の学生に存在を知られている事に驚いた。


「ほっ、ほら? 図書カード見てわかってさ」と今度は照れた様子を見せる。


 私の表情が相当嬉しそうにしていたんだと思う。

 

 その後、互いに自己紹介を済ませた。話をしてみると、私との共通点が多そうだった。


 互いに人見知りで友人がいない。日々の生活が退屈で不満を持っている。


 これだけ親しみを覚える相手は初めてだったから嬉しかった。星哉くんはAクラスみたい。


「星哉くんはどうして哲学書を?」


 思わず名前呼びをしてしまった。初めてと言っていい程の親近感を感じて興奮していた。


 星哉くんは多少目を大きく開いて驚いた様子だった。


 それが名前呼びをした事なのか、本の事なのかわからなかった。


「……最近よく考えるんだ、自分の事を。何をする為に生まれてきたのだろう。どうせいつか死ぬとわかっているのに、死というものがどういうものなのか知りたくてね」


 星哉くんは川の反対側辺りを見つめながら無表情に言葉を紡いでいった。


 聞けば星哉くんの家庭は不動産会社を経営しているらしい。


 兄弟はいなく、一人息子の長男。いずれ家業を継ぐ事になるであろう漠然とした不安。


 決められたレールを歩く事の責任。

 

 私からすれば贅沢な話だった。三食飯と風呂付きの暖かい布団で就寝。私には全てがない。


 さっきは私と似ていると思っていたけど、その点は正反対な位置に星哉くんはいるのだと思った瞬間、熱がゆっくりと冷め始めてきた。


「人間ってね、育った環境であらゆる価値観が決まっていくと思うの」

 

 そこから私の身の上話を星哉くんに話した。


 星哉くんは私の今の環境、生い立ちに対して驚きもせず、ただ耳を傾けてくれているような気がした。


 そう感じたのは、星哉くんが話している間、ずっと川の流れを見つめていたから。


「だから私は、星哉くんが羨ましいって思えたの」


「始まりと終わりは誰にでも平等に与えられる。先人達が長い時間をかけた考察が正しいかどうかなんて死んでみないとわからない。もしかしたら死んでもわからないかもしれない。それでも僕は、興味が尽きないよ? だって答えが欲しいから」

 

 そう言って星哉くんは立ち上がって私に向き直った。


「……何の答え?」


「死だよ。答えがない不安を抱えたまま、夢や希望を持てと大人達は言うけれど、そんな不確かな人生に興味はないんだ」


 その言葉に共感していると星哉くんは私が胸に抱えていたソクラテスの哲学書に手を伸ばした。


 哲学書が星哉くんの手に渡る。


「これは借りてくよ」


「正確に言うと私が借りたものだから、借りるのはおかしいよ?」


「……そうか。まぁ、細かい事は気にするな」


「さっきから『きみ』って呼ぶの、気になるんだよな。由夏って名前、知っているよね? 次からちゃんとそう呼んで?」

 

 星哉くんが斜面を駆け上がり、自転車に戻って行く背中に問いかけた。


 自転車に跨りながら「明日返すよ」と返事を返すと星哉くんは帰っていった。

 

 明日、また会えるんだと考えた途端、頬が熱くなるのを実感した。


 もう、死について考えたくないと本能的に悟った気がした。

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