『二人のソクラテス』第3話
「私は断固として反対です」
春菜さんの断固たる決意が昼の十二時の店内に響き渡った。
物静かそうな春菜さんが、これほど感情を露わにして意思を示した所を初めて見た。
由夏は僕があげた一万円を使い、商店街で買い揃えた服を身に纏い、店を訪れてきた。
いかにも中古品の皺が多い白のワンピースに黒のカーディガンを着て、店に恐る恐る姿を見せてきた。
店の手伝いをさせて欲しいと話す由夏の提案に判断出来ない僕は、春菜さんに由夏を紹介した。
由夏とは高校の同級生で彼女は親戚の家に身を置いているが、真面な生活をさせてくれていない事や由夏を邪険に扱っている事。
昨夜は向かいの部屋に泊めさせた事など要点だけ伝えた。
春菜さんは僕の説明中、由夏を値踏みするように見ていたが、時々不思議そうな、何かに困った表情を浮かべていた。
それで春菜さんのキラーフレーズが響き渡ったというのが経緯なのだが、さてどうなるか。
「高校はどうしたんですか?」
「……今は夏休みなので大丈夫です」
由夏と僕は同じ県内の高校に通っていた。由夏とはクラスが違ったが以前、由夏はいじめを受けていたと話していた。
引き取られた家の親戚は、ろくに対応してくれないと話していたのを思い出した。
「他に行く所が本当にないんです。給料とかいりません。向かいの部屋に住まわせて頂ければ、本当にそれだけで。それにわからないですけど、それほど長くはいない……いや、いれないと思うのでご迷惑はおかけしないと思います」
互いに睨み合う二人。女性同士、何か想う所はあるのだろうか。張り詰めた空気に僕は言葉を発せられなかった。
これでも一応、この会社の責任者の立場なのだが。
時間にして数秒経った後に春菜さんが「様子を見ましょう。何か不都合があった場合、星哉さんが責任を取るならいいのではないですか?」と春菜さんが折れた。
すると由夏の顔が明るくなり、互いに見合うとガッツポーズを取った。
早速、春菜さんが由夏に店の中の案内や電話の取り方、お茶の出し方などを教えた。
春菜さんはいたって効率良く且つ明瞭に由夏に教えていた。その様子を見ていると、来客があった。
どこかに見覚えがある人物。歳で言えば六十代くらいのどこにでも歩いていそうな男性。
特徴的な禿げ上がった頭皮と太い眉毛。来客を認めた春菜さんが動かしていた手を止めて速やかにその来客のもとへ向かった。
「わざわざお越し頂かなくてもよろしいのに、村山様」
「いやいや、何を言っているんだ春菜ちゃん。こっちから相談しているんだから、こっちから出向くのが筋だろう」
春菜さんが村山さんを奥の席に案内した。
すると早速、由夏が僕に目配せをしてくると由夏の意図に僕は大きく頷き、由夏が給湯室に向かった。
お盆に乗るお茶を村山さんが座るテーブルに運び終わって戻ってくると再び、互いにガッツポーズをした。
徐々に思い出してきた。村山さんはよく店に訪ねてきた賃貸のオーナーだった。
よく店に来ては親父と話していた所を目撃していた。それに昨日電話がかかってきた名前も村山さんだ。
何を話しているのだろうと聞き耳を立てていたが、要領良く話が聞こえてこない。
断片的に聞こえてくる『春菜ちゃん、頼むよ』『信頼出来るのは他にいないんだ』の言葉だけ。
来て十分もしないうちに村山さんは多少の不機嫌さを残しながら帰って行った。
帰り間際に僕と目が合った気がしたが、その目は僕を値踏みしているみたいで気持ち良くはなかった。
「随分、お帰りが早かったですね」
由夏が配膳したお茶をお盆に乗せてテーブルを拭きながら春菜さんに尋ねていた。
「借家で貸していた家を売却したいって相談でね」と言いながら鋭い視線を僕に向けてくる春菜さん。
春菜さんが言いたい事は痛いほど分かっていた。だから思わず視線を逸らした。
「私、素人だから詳しい事はわからないですけど、それって良い話じゃないんですか?」と事情を何も知らない由夏が追い込みをかけてくる。
「そうなのよね。村山様がこうしてせっかく相談してくれているにも関わらず、星哉さんが売買をやろうとしないの」
「だから、言っているじゃないですか。親父が旅行から帰ってきてからやれば良い話だって」
「それでは遅過ぎます。せっかくの村山様のお気持ちが変わったらどうするんですか?」
「だったら春菜さんがやれば良いでしょ? 親父から聞いてますよ。以前は大手の不動産会社で支店長をやっていたって。あなたがやれば親父だって、村山さんだって安心するし。どうしてそこまで僕にやらせようとするんですか?」
「私は売買営業ではありません。事務職としてこの会社に身を置いています」
この堂々巡りの話が以前から続いていた。
僕には不動産の知識がないし、面倒な事に巻き込まれたくないって気持ちが強い。
何故、ここまで春菜さんが僕にやらしたいのか尋ねても煙に巻かれる始末。
「きっと星哉くんはあれですね、怖いんでしょうね。面倒臭い性格の人だ」とあっけらかんとした表情を浮かべて春菜さんに同意を示した。
二人を見る僕の視線に何だか胸が痛い。それに妙に息の合った会話をしているあたり、この二人は相性が良さそうだった。
正直、売買に興味はなかった。賃貸と比べて売買の方が売上げが良いのはなんとなく想像がつく。
両親は売買を行わないで賃貸件数で安定した定期収入を行い、店を守ってきた。
賃貸と違い、売買は責任が多そうだ。生涯住み続けるマイホーム。何かしらのクレームや面倒事があったら精神が持たない。それに僕はコミュニケーションが苦手だ。
そんな僕が初対面の客に収入や探している条件を聞いて、物件の案内をしてなど出来る訳がない。
由夏が働き出して一週間が経ったが、彼女は真面目で僕より働き者だった。というより物覚えが圧倒的に良かった。
電話番から店の掃除、かかってくる他業者からの物件確認にも毅然と対応している。
要は売り出している物件が申し込みが入っているかどうかの確認を他業者から問い合わせがある事なのだが、うちの場合はそれほど物件の数がある訳ではないし、動きがある事はそうそうない。
それでも素人の由夏からしたら最初は戸惑いがあったようだが、一週間もすれば仕事の一通り覚えたようだった。
うちの会社の仕事量なんてそんなものだろう。
由夏が来て初めての定休日である水曜日を迎えた時、互いに暇を持て余していたので街中を歩きを回った。
行きつけの商店街通りを歩いていると、理容店の親父から『星哉にもついに彼女が出来たか?』とイジられる始末。
こういう時の親父ギャグは非常に迷惑だ。気のせいか、満更でもない表情をしていた由夏に僕も照れた。
そういう感覚、意識で由夏を見ていた事は全くないとは言い切れないが、変に誤解を由夏に与えたくなかったのでその後は平然と並んで歩いた。
小野川を走る観光舟に乗って川沿いに伸びる柳のせせらぎと心地良い風を受けて街を案内したり、喫茶店に入って芋ぺチーノと呼ばれる最近人気になっているシェイクのような飲み物に興味を持った由夏に奢ってあげると由夏は美味しそうに飲んで喜んだ。
日が上り、外はまだ明るかったが互いに歩き疲れたので自宅に戻ろうと話になった。
行きに通った商店街通りを歩いていると、前方に人集りと救急車が一台停まっていた。
「……何かあったのかな?」
不安そうに呟く由夏と一緒に人集り目掛けて歩いていく。
周囲の喧騒音が強まるところまで近づくと、僕が行きつけの惣菜店の前で救急隊員が出入りしていた。
一気に胸の騒めきが強くなった。取巻きの中で知った顔の八百屋のお叔父さんがいたので話を聞いた。
どうやら店主のお爺ちゃんが倒れたらしい。
「あのお爺ちゃんも歳だったからね。前から入退院を繰り返していたから」と話す八百屋さんはどこか達観したような様子で寂しさや不安さは表情から読み取れなかった。僕としては名物のメンチカツが食べられなくなる不安が残る。
「星哉くんは知っている人なの?」と由夏が恐る恐る尋ねてきたので「小さい頃から知っているお爺ちゃんかな。よく小学校の帰りにおやつってメンチカツをくれたんだ」と思い出しながら答えた。
すると店の入口から隊員達が担架にお爺ちゃんらしき人物を乗せて救急車に乗せると、サイレンを鳴らしながら救急車は走っていった。
それを見届けると取り巻き達は三々午後に散っていった。
「ねぇ、星哉くん?」と帰りの道中に由夏が「おかえりなさいって何?」と不思議そうに尋ねてきた。
一瞬、言葉の意味を測り兼ねた。最初は由夏が惚けたのかと疑うほどに。
だから僕は「それは、家に帰ってきた家族に対してーーー」と惚けて返すと「多分、それじゃなくてーーー」と必死に由夏が否定して「さっき、集まっていた人達の中で女の子が泣いていたの。多分、身内の人だと思うんだけどお母さんがその女の子に『大丈夫。来月はおかえりなさいがあるから会えるよ』って」
この街には古くからの伝統行事がある。
それがお帰りな祭だった。
毎年八月のお盆の時期に行われるお祭りの事で、お盆の時期は亡くなった家族や大切な人が帰ってくる時期として供養の意味で認識されている事が多いが、お帰りな祭は亡くなった人が一時的に蘇る。
「……嘘でしょ?」
由夏に説明すると目を丸くした。当然の反応だった。
だけど実際に僕は今まで見てきた。癌で亡くなった親戚の叔父さんから不慮の事故で亡くなったお婆ちゃんがこのお帰りな祭で蘇った。
これは事実だから仕方がない。だからこの街の人間は死に対する免疫が強いと思う。
人の死を悲観的に捉えるものの、世間の死に対する悲観的なイメージよりは弱い。
それはお帰りな祭で会えるから今生の別れではないからだと思う。
失った事の大きさよりも、来年また会える期待がある。そんな感覚に近いのかも知れない。
「……そんな事聞いた事ない」
「まぁ、初めて言ったからな」
「仮にそれが事実だとして、どうやって生き返るのよ?」
由夏は一定の理解がどうやら出来るようだった。
「そう言われても僕が実際にやった事がないからわからないけど」と前置きした後に「確か死者の霊魂がこの街には漂っていて、夏のお盆の時期に、その死者を想った人が願うと霊魂が実体化するみたいな感じだったけ?」と自分で説明していてもはっきりした答えはわからない。
「まぁ、近いうちに見れるよ」と元も子もない事を言うと由夏はもやもやした様子だった。
この街の住人ではない人間からしたら、そんな摩訶不思議な事を言われて信じられないのも当然だ。
だけど事実であって僕が育った街の恒例行事。受け入れてもらい、来月に行われるお帰りな祭を由夏には見てもらおう。
「その話、詳しく聞かせてもらえないかな?」
背後から男性と思われる野太い声が聞こえた。
振り返ると、初夏の時期にも関わらず上下黒のスーツを来た男性が不敵な笑みを溢しながら近づいてきた。
「……何の事ですか?」
警戒心を高く持ちながら話をはぐらかす。特段、お帰りな祭については街の中で箝口令が敷かれている訳ではないが、無闇矢鱈に話す内容でもない。
それに皺くちゃなスーツを来た髪も髭も無造作で清潔感のない第一印象が悪い中年に話すメリットはない。
「あれあれ? もしかして完全に警戒されているな。そっちの彼女なんか怖がっちゃって。そりゃ、そうだ。いきなり失礼しました」
由夏は僕の腕にしがみついて震えている。男はそんな様子の僕達に両手を広げて、自分は怪しくないですよとアピールしているが、どうもきな臭い。
「悪いですが、先を急いでいるので失礼します」と男に告げると由夏の腕を引っ張って踵を返そうとした。
すると男は「ごめん、ごめん。悪ふざけが過ぎた」と頭を下げてきた。
由夏と互いに顔を見合わせる。男の出方を探るように様子を伺っていると、頭を上げた男は胸ポケットから何かを取り出すと、名刺を差し出してきた。
「……記者ですか?」
名刺には須田圭吾と書かれていた。僕ですら聞いた事がある有名な大手出版会社の記者のようだった。名刺を由夏に渡す。由夏も目を大きくして驚いていた。
「それで、記者の方が何の用ですか?」
相手が記者なのであれば余計に気を緩める事が出来ない。突破口はどこにある。
「そんな意地悪しないでくれないか? 君が彼女にさっき話していた、お帰りな祭の件だよ」
「あんなもの、冗談に決まっていますよ」と由夏を見ながら笑いふざけて答えてやった。面倒事に巻き込まれたくない。由夏が見上げながら不思議そうに僕を見つめてきたが、後で弁明すればいいだけの事。
「この街の人間はみんな似たり寄ったりの事を言うんだな。誰一人、真面に答えてくれなくて困っているんだ」
先程までの調子の良い言葉遣いとは違い、妙に感情がこもった口調だった。
「……どうしてそこまで知りたいんですか?」と由夏が問いかけた。
僕が嗜めると「訳も聞かず返すのはいけないでしょ? 聞くだけ聞こうよ」とまさかの正論。
肩を落とし俯いていた顔が上がると、苦虫を噛み潰した表情を浮かべている。何かを察したように口元を動かし始めた。
「……ある家族が行方不明なんだ」
それは半年前に千葉県内で起きた事。夫と妻、そして六歳になる娘と三人で海水浴に行ったらしい。
砂浜で夫が目を離した隙に妻と娘がいなくなった。辺りを探し続けたが見つからず、警察に届出を出したが、依然見つかっていない。
「その家族とは付き合いがあってね。すっかり、夫は肩を落として塞ぎ込むようになっていった。仕事も辞めて日々の生活もままならない。酒に溺れる日々を送っている。そんな彼を見ているのが辛くてね、どうにか助けてあげたいんだ」
切実な想いに触れたような気がしたが、妙に話を聞いていて腑に落ちない。
「それで、祭りの話を記者であるあなたは記事にして、どうしようって考えなんですか?」
「いや、記事にするつもりはないんだ。ただ俺は個人的にその友人の為にーーー」
「要はあなたが言いたいのは、その奥さんと娘さんが生きているか、死んでいるかはっきりさせたい訳ですよね?」
鋭い視線が僕の胸元に突き刺さる。
「生きていれば蘇る事はない。でも死んでいたらーーー」
「なぁ? やっぱり、お前知っているんだろう?」
突然大声で近づいて来たので、退いた。一定の距離を保っているとそれに気付いたように足を止めた。
「僕には詳しい事は何も。もっと年配の方なら何か知っているのかも知れませんがこれ以上は……失礼します」
人の噂なんて尾鰭がついて真実は霞んで伝わる。社会情報は必要なのかもしれないが、閉鎖的に暮らしてきた僕とこの街にとって、全てを伝える判断は出来ない。
あの男が余計に街を掻き乱さなければいいなと願わざる得ない。平凡で穏やかな日々が過ごせればいいのだが。
その後、由夏の口数は明らかに減った。先程までの明るさもなく元気もなければ、帰りの道中は暫く俯きながら何やら考え込んでいる様子だった。
僕からも話しかけにくい雰囲気だったので、由夏の歩幅を合わせながら帰路に着くと、互いに部屋に戻った。
僕は簡単な夕食を済ませると、いつもの日課を始めた。天体観測だった。
小型望遠鏡を片手に、二階の廊下の突き当たりから階段を登ると屋上に出る。梅雨明けの夏空を眺めるのが最近の日課だった。
屋上を出ると向かいの部屋にいる由夏の窓にはカーテン越しから明かりが溢れていた。
アイピースを覗きながらピントを調節する。梅雨が明けて晴れ渡る夜空を眺めると、土星の特徴である二つの環が確認出来た。
大気の状態が良ければ、土星の縞模様が見れる美しい星で僕は好きだった。
マイワールドとも言うべき時間に浸っていると、微かに僕の名前を呼んでいる声が聞こえていた。
空耳か、或いは疲れからなのかと望遠鏡から顔を上げて目頭を揉んでいると視界の隅に何かを捉えた。
屋上の隅まで近づくと向かいの部屋、由夏が窓から両手を振っていた。
「そっち、行っていい?」
夜も遅いから周囲に気を遣っているのだろう。小声ながらも道路を隔てた距離の為、辛うじて由夏の声が聞こえた。
僕は大きく両手で◯を作り、次いでに満面の笑みを送ってやった。由夏に伝わったのだろう。由夏は部屋の中に戻って行った。
一旦、一階まで戻ると勝手口の扉を開けた。すると由夏が既に待っていた。
「天体観測? そんな趣味あったの?」
由夏は白のスウェット姿だった。微かに石鹸の香りがして妙に艶やかさを感じる。風呂上がりなのは明白だった。
「なかなかお洒落な趣味だろう?」
屋上に身内以外を案内したのは初めてだった。勿論、春菜さんも案内した事はない。
屋上に出ると由夏は無邪気な子供のように周囲を見渡していた。
僕は「あっちにあるのが香取神宮、あっちが霞ヶ浦」と教えてやった。
せっかく教えたにも関わらず「暗くてよくわかんない」と言われる始末。
そりゃそうだと思いながらも気を取り直して今度は望遠鏡を覗かせた。
ピントの調整の仕方など簡単に教えると「うわぁ、すごい」と今度は感嘆している様子だった。
僕も親父に初めて見せられた夜空に感激した。不思議と見ていると心が落ち着いてくる。
この地球という星が宇宙の広さからすれば、小さな星に過ぎない。その中の人間なんてもっと小さい存在。
この時間の時だけは普段の悩みや苦痛を忘れられる時間だった。
「変な事聞いていい?」と突然、由夏がレンズを覗きながら尋ねてきた。
中腰のまま、尻を突き出している由夏が妙に色気を感じる。下着の線がズボンに浮き出ていて、それが妙に意識を加速させた。
「ねぇ、聞いてる?」
「きっ、聞いているよ」
「あの時、急に来て驚いた?」
由夏があの時と指しているのは、由夏が店を訪ねてきた時の事を言っているのだろうか。
「まぁ、それなりにね」
「どうして私を泊めてくれたの? 訳も聞かずにさ」
「だってお前の家庭環境は散々、聞かされていたから何かあったんだろうなって。それに両親がたまたま旅行でいなかったからいいけど、いたらさすがに両親に相談したし」
「……そう」
たった一言のその返しが何だか妙に胸に突き刺さった。聞こえるか聞こえないかのか細い声。
空気が澄んでいたから余計に肌身で感じた。
「じゃあさ、私の事はどこまで憶えている?」
「……どういう意味?」
「何でもいいよ。私との思い出って何を憶えている?」
妙な質問に記憶を手繰り寄せる。由夏の質問の意味がわからなくなりながらも記憶を辿っていくと薄らと見える映像が出てきた。
「じゃあ、どうしてあれから河川敷に来なくなったの?」
由夏は覗いていたレンズから顔を上げて僕と向き直った。由夏が言っている河川敷。
微かに憶えているその状況は、確か由夏と初めて会った場所。薄らと見えた映像が河川敷の映像だと合点がいった。
互いに日々の生活に疲れを感じて利根川を眺めていた時、僕は由夏と出会った。
それから幾度も河川敷の芝生で利根川のさざ波と風を感じていれば、由夏がいた。
ただ、由夏が言っている事が僕の認識では矛盾している。河川敷に僕が来なくなった? 僕が行かなくなった? 行けなくなった? 思考の奥底に辿り着こうとすると、突然頭痛が襲った。思わず、膝を着いて頭を抱えた。
「どうしたの、ねぇ、大丈夫?」
由夏が僕の顔を覗き込んでくる。心配そうに見つめてくる由夏。
「……あぁ、大丈夫」
瞬間的に襲ってきた鈍痛。まるで誰かに鈍器で殴られたような錯覚に陥った。
この頭痛は前に由夏が店に訪ねてきて再会した時と似たような症状だった。
「……なんだかごめんね、変な事聞いちゃって。無理しなくていいから。誰だって言いたくない事の一つや二つあるよね」
まるで僕が悪かったような言い方が何だか、気に触った。
だから今度は前から気になっていた当たり障りない事を聞き返してやろうと思った。
「お前何か雰囲気変わったな。大人っぽくなったっていうか、色気付いたというか」
「……そう? そんなに気を使っているつもりはないんだけど」
髪を触ったり、首を傾げたりと本当にわかりませんと言わんばかりの言動に何だか肩透かしを食らった。
由夏は再び望遠鏡を覗き込んだ。今度は月を見せてやろうと望遠鏡を調整しようと近づいた。
「今度はこっちを覗いて」
すっかり由夏も天体観測の虜になったのだろう。期待に胸を膨らませているのは見てとれた。
「星哉くんはこうして一人で見るのが楽しいの?」
「前にも言っただろう? 友達がいないんだって」
僕は高校生活に馴染めなかった。学校が楽しい、楽しくないとかそういう理由じゃなくて自分の人生に対する価値観みたいなものが同年代とかけ離れている事に中学生の時に気づいて虚しくなった。
周りはゲームやカラオケ、彼女を作ってデートとか目先の事を楽しんでいた。僕には何かをするにしても理由が自分で見つからない限り、行動を起こせない性格だと気付いた時、周りには誰もいなかった。
ただ、それだけの事。
「そうだよね、友達がいたって結局、裏切るからね」
その夜、メンチカツのお爺ちゃんが泣くなったと聞いた。
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