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『眠れる海の乙女』第6話

「よって宇留野様の御自宅の査定価格は、こちらとなります」

 説明を終えた俺は、依頼者に査定書を見せた。テーブルを挟んで向かいに座る夫と台所にいた妻が粗茶を俺の前に運び終わると、夫の隣に座り査定書を覗き込んだ。

「やっぱり、こんなもんですよね」

 依頼者の宇留野が、査定書から顔を上げて呟いた。建売を購入して二十五年が経つ自宅。子供二人が成人して一人暮らしを始めた為、夫婦二人では少し大きく感じるようになった。老後を考慮して、自宅を売った金を基に駅前のマンションに移り住もうかどうか。先ずは、自宅がいくらで売れるかどうか……それらが査定のきっかけで宇留野から問合せがあった。先日訪問査定を終えて、今日は査定の結果を伝える為に訪問している。

「……もう少し高くついても良いと思ったんですけどね」妻は不服そうな表情を浮かべた。

「勿論、その可能性は充分にあります。その為、査定価格に幅を持たせて御案内しております。ですが……」

「……何か?」夫婦二人して俺の顔を覗きこむ。俺は二人の視線を最大限引き寄せてから、ゆっくりと口を開いた。

「予めご承知おき頂きたい点が一つございます。仮のお話しとなりますが、これから御自宅の売却活動をして、ご縁が出来て売れたとします。そして、宇留野様のお手元に残金が振り込まれるまで、先日御案内したあのマンションが売れずにいるかどうかがポイントになってくるかと」

「……そういう事か」夫は納得した様子だったが、妻の反応が今一つだった。すると夫が気付いて妻に説明をしたが、未だに理解をしていない様子だった。夫に話を促された俺は話を続けた。

「こういった住み替えのケースは様々なパターンがあります。現実的なお話しをさせて頂きますが、宇留野様の場合、御自宅には抵当権……所謂、住宅ローンは既に完済されております。これは、かなり大きいです」

「ここを購入した時にさほど借りなかったからね」鼻高く、自慢気に答える夫。

「その為もし、あのマンションに仮に住み替える場合は現金、若しくは住宅ローン等の手段を用いて、先に取得する必要がございます。買い先行でお話しを進めて、お引越しを済ませてから空室となった状態で、こちらの御自宅の売却活動を行う。或いは、買い手続きをしながらでも構いません」

 説明を終えた俺は、二人の口が開く事を待った。決して詰め切らずに間を持たせ、吟味する時間を与える事が重要だと、正和からの教えを忠実に守る。時間にして十秒程度だろうか。主権者である夫が口を開いた。

「先に売却する場合のデメリットは、何かありますか?」落ち着いた口調で尋ねてきた。数秒の間を作り、手元の参考資料を添えながら、ゆっくりと隼人は口を開いた。

「大きな点としては、お引渡しの点になります。概ね、買主様と売買契約を締結した後、宇留野様は、お引越し先を見つけなければなりません。その時にあのマンションが売り出されていたら、お話しを進められても構いませんが、あるとも限りません。もしなかった場合、借り住まいが強いられてきます。それらを三ヶ月程度の期間でお引越しを済ませ、買主様にご自宅を引渡すスケジュールとなってきます」

「……三ヶ月ですか」

「それ以上長い期間になりますと、相手方が望まない……或いは、引渡しが半年先の物件を購入される方自体が需要として少ないのが現状です」

「……言われてみたら、確かにそうだな。半年先まで待ってくれる人も奇特な人だ」笑いながら隣に座る妻を見つめる夫。だが先程から妻は、難しそうな表情を浮かべているのが気になっていた。

「……私の説明、解りにくかったですか?」妻に向かって尋ねる。すると妻は「いえ、なんとなく理解は……」と頭を振って否定をした。

「迷っているんですよ……こいつは」夫が妻を心配して答えた。

「それなりに住んできて、愛着がやっぱりありますよね。息子達と過ごしてきた思い出が沢山詰まっている。だけどこんな辺鄙な場所でこれから先、住み続けるには不安が残る。スーパーやコンビニに行くにも、車で十分はかかりますからね」

 俯きながらも夫の言葉に耳を傾けながら頷く妻。二人の中で通じ合う部分がある。夫婦の一つの形を見せつけられたような気がした。

「……少し時間を頂けますか? 夕方までには御連絡致します」

「……わかりました。大切な事になりますので、ゆっくりお話し合って下さい」そう答えると「私の中ではもう、答えは出ているんですけどね」と含み笑いをした夫。視線の先には、俯いている妻がいた。

 立ち上がり、二人に頭を下げてその場を後にした。家の前に停めた社用車に乗る。鞄から携帯を取り出すと十二時を過ぎていた。十時に訪問の約束を宇留野としていたので、二時間以上滞在していた事になる。気が緩んだのだろう。程良い倦怠感が体を駆け巡ってきた。張りつめていた緊張から解放され、そのままシートに凭れかかりたかった。だが宇留野の家の前に停めていた為、長居は出来ずに仕方なく車を走らせ店に向かった。

 道中コンビニエンスストアに立ち寄り、ミネラルウォーターのペットポトルを買って車内で休憩をしていた時だった。スマートフォンのSNSの新着通知に、架純からのメッセージが届いていた。

『お疲れ。仕事中だよね?』

『養老川の河川敷で花火大会あるの、知っている?』

『一緒に行こうよ? その日仕事だと思うけど、早く終わらせてね』

   その文面が目に飛び込んできた時、飲んでいた水で咽ぶと、持っていたペットポトルを落としてシートと自身のスラックスやらワイシャツに零した。咳き込みながらも、携帯を助手席に置いてハンカチで辺りを拭い終わると落ち着き出した。もう一度、スマートフォンを手に取って文面を見直す。

 幾度も見直す度に、口許が綻んでいる事を実感する。込み上げてくる感情に後押しされて、叫びたくなる衝動に駆られた。架純が言っているのは、正和ホームから車で十分程の距離にある養老川の花火大会の事だと直ぐに理解した。毎年、正和ホーム沿いの国道が一部通行規制となり、遠方から車で訪れる人達に、近くのショッピングセンターの駐車場が満車になると結衣が言っていた事を思い出した。県内でも有名な花火大会で、夕方になれば国道は大渋滞となった。それを去年に目の当たりにした時、言葉を失った。無数のヘッドライトが二列で立ち止まり、その横にある歩道には養老川まで歩く人の大群に、遠巻きから見た際には嫌気が差した。

 あのごった返す中を歩いていく事を一瞬想像したが、あっさりと映像は消え去った。天秤にかけた時、架純と見る花火の方が遥かに勝るものがあった。

『お疲れ。仕事中だよ。花火の件、社長に相談してみる』

 架純に返信した。返信が少し素っ気なかっただろうか。俺としても架純を花火大会に誘うつもりだったが、先に架純から話が出るとは思わなかった。結果としては御の字になった。俺が送ったメッセージは直ぐに既読表示になり、すかさず鯱のスタンプが返ってきた。先日訪れた鴨川の水族館で店頭にあったQRコードを読み取り登録をすると、無料で取得出来るものだった。架純は相当気に入った様子で俺とのメールのやり取りで頻繁に送って来る。今度は俺が『社長に確認したら、また連絡するよ』とメッセージを添えて、同じ鯱のスタンプを送り返し架純の返信を待たずに車を発進させた。

 正和ホームに戻ると、結衣は給湯室で自身が作ったお弁当を食していた。俺は結衣の顔を見た瞬間に思い出した事があった。

「……タピオカ忘れました」宇留野の家に向かう為に店を出た時、帰りに結衣から買ってくるように頼まれていた事を思い出した。架純からメッセージが届いた事で頭がいっぱいになっていた。正直に結衣に伝えると「いいよ、大丈夫。気にしないで」と意外にもあっさりした答えが返ってきた。拍子抜けしたが、後々が怖かったので「昼飯買ってくるついでにでも、買ってきますよ?」と改めて店を出ようとした時「いいから、本当に大丈夫だから」と再び呼び止められた。

「……本当に良いんですか?」恐る恐る結衣に尋ねると「……うん、もういいや。飽きちゃった」と笑顔を向けられた。あれほど買い求められていたのに、その結末が飽きてしまったと一言で終焉を迎えるなんて。物足りなさと不甲斐なさが俺を襲っている最中、自身のデスクに向かって歩いていると「あっ、そうだ」と奥の給湯室から結衣の声が聞こえた。

「隼人君、隼人君」結衣が顔を覗かせた。

「はい?」立ち止まり結衣に振り向く。

「隼人君が戻ってきたら、伝えてって言われていたんだ」口をもぐもぐとさせながら話し出す結衣。次の言葉を待っていると「社長がね、二階に来てって言っていたよ」

「……社長が? 今日は来ているんですか?」最近は体調を崩していて顔を見ていなかった。小百合も同様だ。査定の報告もあったので俺は鞄を置いて、給湯室の横にあるエレベーターで二階に向かった。

 エレベーターが二階に到着すると箱を降りる。目の前には玄関扉があり、扉の横にあるインターフォンを押した。やがてロックが解除された機械音が聞こえ扉を開ける。玄関先で一言挨拶を述べると、奥から「こっちおいで」と小百合の声が聞こえてきた。それと同時に、芳ばしい香りが漂ってくる。昼食をまだ摂っていない俺はその香りに食欲をそそられた。

 突き当りまで廊下を進み左手のリビングの入り口は開いていた。踏み込むと瀟洒な照明にナチュラルモダンテイストの茶色のフローリングに白の壁紙が映えた二十帖程度の空間が広がっている。その奥のキッチンには小百合が調理をしていた。ソファーに正和が座ってテレビを観ている。

「おう、隼人。昼飯はまだだろう? ここ座って待ってろ?」

「……うん」二階のこの場所に来る時は社長と従業員の関係ではなく、祖父と孫の関係でいるようにと正和ホームに入社した際に正和から言われていた。正和に促されたソファーに座る。

「さっき宇留野さんの所に行ってきたよ」テレビに映し出されている再生医療のニュース。大阪の大学病院で交通事故により足が不自由になった少女の手術が成功したと報じていた。

「そうか……それで、結論は出たのか?」正和の表情は仕事の顔つきになっていた。以前よりも顔に生気が宿っていないように見える。

「ううん……夕方までには連絡くれるって。前向きに考えてくれているみたいなんだけどね」俺の答えに「……そうか」と正和は安堵の表情を浮かべた。

「住み替えの案件が一番難しいからな。ましてや年を重ねた夫婦が住み慣れた環境から、様々な要因で住まいを変える事は大きな決断だ。宇留野さんにそれを決断させる手伝いが出来た時、お前はまた成長出来るはずだ」

「……うん」正和から売却案件を任されるようになってから、幾度か経験を重ねた。正和が言うには様々な事情を持った売却案件は、購入案件より強い信頼関係を強いられる時があると言う。その中でも住み替えを検討している顧客には、最も知識と提案力が必要だと正和は言っていた。

「……仕事の悩みは何かあるか?」先程の声色とは違い明るかった。

「うーん、今の所はないかな」知識と経験が未だ乏しいが仕事は順調だ。

「……仕事は楽しいか?」

「楽しいってまでは正直まだいけてないかな」尻目に正和を捉えた。次の言葉を待っているように見える。

「楽しいって言うより、まだ面白いって感覚の方が近いかも」

「ほう……それはどんな時に?」興味を示すように正和が体を前のめりに出した。

「先月に引渡しをした芦名さんいるでしょ? ほら、二世帯の戸建て買ってくれた人。この前、挨拶に行った時に買って良かったって言ってくれて……人生の中で大きな決断をした時に感謝される事って、そうそうないでしょ? だから、面白いなって」

「……その感覚、忘れるなよ?」

「……うん」

「どの仕事もそうだが、この業界は特に筋を通す事が大事だ。男としてもそう。物事の筋道を考えて行動する。相手から誠意や敬意を払われたら、ちゃんとそれに応えなければならない……わかったか?」

「……わかったって。もう、何十回聞いた事やら」両耳を塞ぐような仕草をすると正和が笑い出した。いつもの陽気な正和が見えた。

「隼人がここに来て、もうすぐ三年が経つな……どうだ、これからもやっていけそうか?」

「うん……今の所はね」

「……そうか、それなら良かった」

「……どうしたの? そんなに心配して」

「隼人は昔から物覚えと要領は良いからな。そのせいか、飽き性な所があるだろう? 親父に似て頭は良いのに使い切れていないから、もったいない。そうずっと思っていたんだ」正和の心配を他所に俺は思った事を口にした。

「まぁ、最初は抵抗あったかな? 扱っている金額は大きいし、それにスーツとネクタイがどうも苦手で……でも、最近は面白いって感じている。人の数だけ事情があるから、似たような事はあっても、同じって事はない。毎回新しい発見があるし……だから、やりがいは感じている」 

 向かいに座る正和を見据えて、正直な感想を述べた。祖父の心遣いを聞いた俺は、お世話になっている祖父に対して筋を通したつもりだった。正和に届いたのだろうか……外から差し込む日差しが正和の瞳に反射して瞳を潤わせているように見えた。

 話が一段落した様子を窺っていた小百合が、ダイニングテーブルに昼食を運んできた。炒飯に麻婆豆腐、豚肉の生姜焼きにパスタサラダ、しまいにはデザートに商店街通りで有名な和菓子とてんこ盛りだった。見兼ねた正和が「おいおい、母さん。随分な量じゃないか?」と愚痴ると「隼人はこの後も仕事があるのよ? 体力つけないと……ねぇ?」と小百合からの視線に苦笑いを浮かべてしまった。予想外の小百合のおもてなしに、正和の言葉を借りるなら筋を通す為に俺は覚悟を決めて食す事にした。相変わらずの料理の腕前に舌鼓を打ち、三人で世間話をしている最中に正和に確認しなければならない事を思い出した。

「ねぇ、じいちゃん? 来月、花火大会あるでしょ?」

「うん? あぁ、養老川であるやつか? それがどうした?」食が細くなった正和はお茶を啜りながら俺の話に耳を傾けている。

「……その日さぁ、仕事終わったら定時より少し、早目に切り上げていいかな?」恐る恐る尋ねる俺に「別に構わんよ」とあっさり承諾した正和。拍子抜けしている俺に小百合が「ねぇ、隼人? 誰と行くの? もしかして、架純ちゃんと?」と興味津々で尋ねてきた。

「そんな事聞かなくてもわかるだろう?」正和が小百合を制止するように言うと「だって、気になるじゃない? ねぇ?」と今度は俺に矛先が向けてきた。

「……まぁ、そうなんだけどね」架純とは付き合っている訳だし、隠さなくでもいいだろう。

「そうか、そうか。お前達戻ったのか? いやぁ……良かった、良かった」

「何よ、あなた達。いつの間に、戻ったのよ?」

「この前、鴨川に行った時に――」事の顛末を断片的に報告した。夫婦そろって同じ所で相槌を打ったり、反応が似ていた。話ながら微笑ましく暖かい気持ちになった。

「そう……良かったわね、架純ちゃん」俺の話が終えると小百合は隣に座る正和に促すと「……そうだな」と感慨深い表情を浮かべる正和だった。

「あの娘は優しくて気が利く子だから、大事にしなさいよ?」小百合に発破をかけられ「……うん」と頷く。

「だって、お付き合いする前からカレー作ってあげたりする仲なんて、私達の時代からしたらそんな事――」

「ちょっ、ちょっと母さん?」と正和が小百合の話す言葉を制止した。正和の慌て様に違和感を覚えた。

「……えっ? どうしたの? うん? ちょっと待って? どうして、お婆ちゃん知っているの? 架純がカレー作ってくれたって……あれ? もしかして、結衣さんから聞いた?」二人の顔を交互に見ながら俺が話すと「すまん、すまん。母さん、興奮すると話止まらなくて……もう、落ち着けって」と正和が小百合を制した。

「あら、嫌だ。ごめんね、隼人。そうなの……結衣ちゃんから聞いちゃって……あっ、そうだ、あなた? 食後のお薬、まだ飲んでないでしょ?」

「おっ、おう。そうだった」立ち上がってキッチンの方へ向かって行く正和。

「……ねぇ、婆ちゃん? 祖父ちゃん、体大丈夫なの? ほら、飯だって全然食べてないじゃん。前はもっと食べていたのに……」

「大丈夫。隼人が心配する事ないわ」俺の心配を他所に小百合は俺に笑顔を向けた。一か月前に会った時より、明らかに正和は老け出した。声に張りを感じなくなった事が先程会った時の印象だった。老いが関係しているものだと勝手に答えを出したが、そうでもないように思えた。

「こそこそと二人で内緒話か?」正和が戻ってきた。

「違うよ……じいちゃんは格好良いなって話をばあちゃんとしていたんだって」小百合に同調を求めると「そうよ、やっぱりあなたと結婚して良かったって、隼人と話をしていたのよ?」ごく自然に小百合が発した言葉が耳に残り、俺の二人に対する見方が一変した。それを受けての正和の「俺もだよ」の一言。互いが互いを認め合う関係だからこそ、言い合える熟年の夫婦だからなのかもしれない。意表を突かれた俺は、目の前に座る二人に見とれていると「どうしたの?」と心配して小百合が俺に声を掛けた。

『あっ、もしもし、隼人君? 宇留野さんって、さっき査定に行った方から電話来てるんだけど……そっち繋いでいい?』

「本当ですか? はい……お願いします」すると、受話器から保留音が流れ出した。まだ夕方でもないのにもう連絡が? 果たして、どちらの解答となるか。

『あっ、もしもし? お電話代わりました。お待たせ致しました』

『先程はどうも……宇留野です。お忙しい所、すいませんね』電話だと嗄れた声がより一層強く感じた。

『いえ、こちらこそ。貴重なお時間、ありがとうございました』

『……それでね、結論は早い方が良いかと思いましてね、電話したのですが』

『……はい』果たしてどっちだ? 耳に神経を集中させ言葉を待った。

『妻と相談して……あのマンション、買おうかと思います』

『……そうですか』心が波打った事を確かに実感した。いつもより声が大きくなってしまった。

『いやぁ、私はね……最初から決めていたんですよ。でも妻が老後の生活費を心配して、なかなか決断が出来なくてね。でも、ここの自宅が売れたら、そんなに出費は出ないよと……どうやら妻は勘違いしていたようで』

『なかなか難しい話ですからね。そうしましたら、手続きに移りたいと思います。この後、お店にお越し頂けますか?』

 手続きに必要な書類の案内をして一時間後に正和ホームに来てもらうアポイントを取ると受話器を置いた。

「……宇留野さんか?」

「うん……話、進みそうだよ」俺が伝えると正和は安堵の表情を浮かべた。小百合も喜んだ様子を見せる。

「あっ……そういう事だから、下に戻るけどいいかな? 準備しないと」興奮気味に話すと「あぁ、構わないよ」と正和が笑顔を見せながら言い「頑張ってね」と小百合が俺を見送った。

 エレベーターに乗ると何か物足りなさを感じた。不安を覚え一時間後までにやる事を逆算する。先ずはマンションに購入申込みが入っていないかどうか物件の確認。それに付随して資料を取り寄せる。手続きに関する書類の作成、自宅の売却活動をする際の媒介契約書の作成と今後のスケジュールの案内書類。うん、問題ない。頭に血が上っていたが冷静さを取り戻すと平常心を保つ事が出来た。

 一階の店舗に着いて結衣に礼を述べ、一時間後に来客がある旨を伝えた。デスクに戻り、パソコンを起動させた時、ふと割って思い出した。

 架純に連絡をしていなかった。

 正和から花火大会の了承を得られた事を連絡すると言って、連絡していなかった。スマートフォンを取出し、先に架純にメッセージを送った。

『社長からオーケーもらったよ。だから、大丈夫』

慌しい中、架純の顔を想い浮かべると、架純は笑っていた。架純が「頑張れ」とエールを送ってくれているような気がして、これから待ち受ける商談に向けて活力となった。


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