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『眠れる海の乙女』第8話

 架純と過ごしたあの夏の記憶がまだ新しい頃。突然の訃報に俺はその場を立ち尽くした。

 正和が倒れた。

 その報せを俺は、結衣から受け取った。外出先から正和が搬送された病院に駆けつけた時、待合室には小百合と結衣がいた。興奮して現れた俺に結衣が、正和は緊急手術を施されている事と俺の両親に連絡をして向かっている事情を涙ぐみながら説明した。小百合は俯きながら祈るように瞳を閉じている。

 暫くすると両親と妹の環奈が駆けつけた。簡易的な会話を済ませ看護師達が忙しなく出入りを繰り返す手術室の前で数時間が経過した頃、医師が手術室から現れた。現れた医師に小百合が状況説明をした。正和は一命を取り留めたものの、ここ数日が峠である事を心苦しく説明した。医師が一礼をして去りゆく背中を俺は苦虫を噛み潰したような顔で見つめた。

 その後正和は、特別に用意された個室に移り家族に看取られるように息を引き取った。一度も目を覚まさず、緊急手術から二日が経った昼間の事だった。俺はその間、特別な約束がない限り、正和の側にいた。正和の顔は穏やかなものだった。

 小百合は夫の側から片時も離れる事がなかった。ある時俺が隣に座る際、ベッドに眠る正和から視線を逸らす事なく滔々と話し出した。肺に癌が見つかった時、既に手術が出来ない状態だった事。余命は一年から二年以内と言われていた事。病気の事は小百合以外に伏せるように言われていた事。それらを滔々と小百合は話した。

 以前から正和の体調が優れてはいないと感じていたが、彼の明るさや溌剌な笑顔に影を潜めていた。それらを聞いた俺は声を押し殺すようにその場で涙を流した。

 通夜には多くの参列者が訪れた。俺は初めての事で慣れていない為、受付係を任された。訪れた参列者の中には同業の代表者、会社関係者、そして市議会員まで訪れた。亡くなった時にその亡くなった人が生前どのような付き合いや或いは愛されていたかが解ると聞いた事がある。正和は俺が尊敬するように多くの人に見送られている。

 結衣は俺の隣で同じように受付の役割を担っていた。気丈に接しているが、同僚の俺からは涙を堪えるのに必死なのだと分かった。メイクで隠し切れない瞳は赤く充血しているように見える。

 参列者の中に架純を見つけた。黒のジャケットとフレアスカートを履いた架純は薄化粧の上に黒縁の眼鏡をつけている。普段はコンタクトなのだろうか、眼鏡姿の架純を初めて見た。弔問者として架純に礼を述べると、お悔やみの言葉が返って来る。架純から香典を受け取り、記帳に声を掛けた。すると架純は緊張しているのか、時間をかけて芳名帳にたどたどしく住所の名前を書いた。

 やがて通夜開始時刻になると、葬儀社の担当者の呼び込みで僧侶が入場し、通夜が始まった。受付を訪れる参列者が疎らになってくると結衣が会場を訪れるように声を掛けてきた。結衣の好意に甘え俺は親族の参列者の列に加わり焼香をあげた。正和の遺影は笑っていた。撮られた写真はいつの頃の写真か俺には解らなかった。それでも遺影は最近撮られた写真のように思えた。

 僧侶の読経の後、法話を終えると僧侶が退席した。見送り終えると、喪主の小百合が参列者に挨拶を始める。決して体調が優れていない小百合に代わって長男であり父親である浩一が買って出る話も挙がったが、小百合は頑なに拒んだ。

 小百合が話す生前の正和との話は愛溢れるものだった。会社を立ち上げた苦労話に始まり、正和との出会いと結婚。そして浩一が生まれ、孫の俺が生まれた事。そして俺の話が出た時、小百合が俺に視線を向けて参列者に紹介した。多くの視線が俺に集まり、戸惑いを覚えたが一同に頭を下げた。正和が俺を浩一以上に可愛がっていた事を話し、最後に参列者達に礼を述べて締めくくった。

 その後の通夜振る舞いで俺は、浩一や母親の理恵と一緒に参列者のテーブルを回った。生前の正和との思い出話を耳にする中、同業者からは困った事があったら力になると励ましの言葉をもらった。時間になると小百合が閉めの挨拶を行い、一同その場を後にした。

 先程まで多くの参列者が訪れていた会場は閑散としていた。静けさと神聖な空気が会場を支配している。

 俺は棺守りを買って出た。正和と話をしたかったら。突然の出来事に胸を締め付ける想いに駆られるにも関わらず、中身は空っぽの状態だった。その中身を埋める為には正和と向き合い、対話をしなければ埋まりそうになかった。

 棺の側に座り正和と向き合っていると、浩一と理恵がやってきた。夜を通して行う作業に心配の言葉を掛けてきた。

「……大丈夫だから。悪いけど、一人にしてくれない?」

 その言葉を意外そうな表情で二人は受け止めた。すると浩一が「……お前に話さなきゃならない事があってな」と言いにくそうにしている。催促すると浩一が口を開いた。

 浩一が滔々と話す内容に言葉を失った。

 それは正和が自身の病が発覚してから正和と浩一が話し合いを重ね、俺を会社の跡継ぎとして育てようとしていた事だった。俺が惰眠を貪っていた為、見兼ねた浩一が正和に声を掛けたと思っていた。

 だが真実は違った。

 正和は、自身の余命を知って、正和から浩一に話を持ち掛けた。

 唯一の一人息子である浩一は自身で会社を経営している為に、その話を丁重に断ったらしい。隣で話を聞いている理恵の目には、涙を浮かべていた。浩一は正和から病の事を利かされた際、正和から口止めをされていた様だった。俺にいらぬ心配と、気負いをかけたくなかったと。棺に視線を向けたまま放心状態の俺に「……あとは頼む」と浩一が言い残して、去って行った。理恵が俺に近寄って声を掛けたが、俺は理恵の言葉が耳に入ってこなかった。

「……ありがとう、隼人」その場を立ち去る際に理恵が残した言葉だけは聞こえていた。

 今まで生きてきて身近な人を失った事が初めてだった。それが心から尊敬をしている祖父になるなんて誰が想像出来ただろう。今まで正和と過ごした時間が、走馬灯の様に脳内を駆け巡る。社会人経験のない俺を一から育ててくれた祖父。不動産の知識や接客の経験もない俺を育ててくれた祖父。失敗を繰り返し、不貞腐れて幾度も仕事を投げ出そうとした時も小百合と一緒に励ましてくれた祖父。決して頭ごなしに俺の考えや言動を否定せず、尊重した上で新しい道筋を提案してくれた祖父。

 正和と過ごした全ての時間と経験が、今の俺を形成していた。

 次第に空虚な心が満たされていく。満たされれば満たされていく程、胸を締め付けた時に苦しくなる。苦しくなればなる程、涙が止めどなく流れ落ちる。

 どうせこの会場には誰もいない。声を押し殺す必要もない。

 この苦しい想いを抱え続けるには、あまりにも辛い。声を出して思いっきり泣き叫びたい。そう思った時だった。

 背後に足音が聞こえ、涙を拭った後に振り返る。そこには架純が立っていた。

「……まだ帰っていなかったのか?」鼻を啜りながら尋ねた。随分前から近くにいたような雰囲気が、架純が立つ周囲の空気に漂っている。

「……帰らないの?」か細い声で尋ねてきた。

 頷いて意思表示をしたつもりだった。だが架純の近寄ってくる足音が聞こえてくる。俺は一瞬、唇を噛んだ。そして「一人に……」と口を開いた。

 架純の近づいて来る足音が消え、立ち止まったのだと理解した。架純の呼吸音が聞こえてきそうな程、静寂が空間を支配していた。

「一人にしてくれないか?」躊躇いを残して架純に言った。それ程声量を発して言った訳ではなかったが、会場に反射して大きく聞こえた。

「……うん」一定の間を空けて架純が返事した。くぐもった声に振り向きたい衝動を押さえる。今振り向いて架純の顔を見たら、この気持ちは二度と帰って来ない。

 架純が踵を返した様で足音が遠ざかっていった。架純はどんな表情をしていたのだろう。架純を追い払ってしまった事に悪気を感じつつも、先程から込み上げてくる感情をもう押さえつけられずにいる。やがて足音が聞こえなくなり、振り向いて架純がいなくなった事を確認すると、俺は内なる感情全てを解き放った。

「……うぅぅ……うわぁ――」

 棺の前で突っ伏すように全てを解き放った。

 泣き叫べば叫ぶほど、正和との思い出が脳内を駆け巡っていった。

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